傷つく/救われる
最近、「傷つく」「傷つける」ということばをよく見かける、耳にもするし、Twitterのタイムラインにもよく出てきて目にする。
とっさに、比喩的な表現か、と感じることもある。とくにそのことばを使う人が傷ついているわけではない場合に──と、いまそう書いて、いや、その人は誰かが傷つけられているだろう(と豊かに想像している)ことに傷ついているのかもしれないと思う。
ぼくも誰かのことばに傷つくことがあるし、毎日何かしらのことばに傷ついていると言ってもよさそうだ。逆に、ぼくの書く・話すことばが誰かを傷つけることも確実にあるので、毎日誰かを傷つけているかもしれないと思っているくらいがよさそうだ。
もちろん他人を傷つけようと思って書いたり話しているわけではないが、人は傷つくものなのだ。攻撃的なことばに傷つくとは限らないので、慰めのことばに傷つくことだってあるのである。
よく感じることなのだが、傷つく人がいる場合、必ず、傷つけた側も何かしらの傷を負っている。ただその傷は同じ傷ではないので、傷つける/傷つけられるという構図で見ていると見えにくくなってしまうのだが…(それもまたある程度は仕方のないことだと思う)。
ところで、傷ついた人も、ただ傷ついた人のままではいられず、救われる人にもなるし、救われた人は救う人にもなりうる。傷つくことができない者は、救われることもないが、傷つけられることがその人を救いもする。
いまは具体的に身体に傷を負う/負わせるという話をしているのではなくて、ことばに傷つくということを思い浮かべて書いているのだが、身体でも心でも、通じているだろう(ちょっとニュアンスは変わってしまうかもしれないが)。
ぼく自身が最近、傷ついたな、と思ったことの多くは、何か具体的に口論になるとか、喧嘩をするといったようなことではなくて、むしろ喧嘩すらできないということに近いのだが、「話が全く通じないな」「こちらの話(や存在)はなかったことにされているな」と感じたときのことだ。
でもそうやってぼくを傷つけた相手も、確実に何か傷ついているのである。それをひしひしと感じる。そこには例えば、お互いにやりとりするのでは超えられない、社会の問題が横たわっている場合もある。──というか、じつは、そんなのばっかりだったりして?
自分には決めていることがあり、それでも、ことばを使うことを恐れないこと。いや、恐れながらでもいいから、その困難なことにたいして、ことばで表現することを続けること。
それは、ことばで人を傷つけることを過剰に恐れるな、ということになるだろう。そこは、ある程度、いい加減にやるしかないのかもしれない。と同時に、ぼくは自分が傷つけられることにかんしても、ある程度いい加減に許しているのだ。
(つづく)