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映画『蝶の渡り』をめぐって

どんなに困難な辛い状況であってもユーモアさえあれば生きていける、力を与えてくれるものなのです。そして、ユーモアとは楽観することです。(ナナ・ジョルジャゼ)

昨年の9月、渋谷で「ジョージア映画祭2024」が行われて、まずは手始めに、と思ってその4日目に『ピロスマニ』(ギオルギ・シェンゲラヤ監督・1969年)を観ましたが、その孤高の芸術家像に、私は妙な親しみを持って触れました。そのとき、上映の前に『蝶の渡り』という映画の予告編が流れたんです。予告編と言っても、冒頭にその日本版タイトルが示されたあとは、字幕もまだついていない、映像の断片を連ねてあるといったふうでしたが、そのひとつひとつのシーンの力強さに私は酔ったようになり、『ピロスマニ』と『蝶の渡り』予告編によって私はジョージア映画にぐいっと抱き寄せられてしまったんです。

渋谷での「ジョージア映画祭2024」は上映スケジュールが私の仕事や生活の都合とズレていて、数本を観るので精一杯でしたが、最寄りの映画館・シネマリンで12月にその続編が行われて、それには連日通うことになりました。

とくにラナ・ゴゴベリゼ監督(現在95歳とのこと)の一連の作品には、感銘を受けた、という言い方がふさわしい(今回全ては観られませんでしたが)。そのうち、『金の糸』という2019年作にもとても感動しましたが、そこに主演していた女性が、あの『蝶の渡り』を撮った監督だということもやがて知ることになりました。そのナナ・ジョルジャゼ監督の1986年作『ロビンソナーダ 私の英国人の祖父』も「ジョージア映画祭2024」のラインナップに入っていたので、観ることが出来ました。どれも、ちょっと不思議なユーモアを湛えた作品なんです。

悲劇か喜劇かと言われたら、どれも悲劇なんだけど、可笑しいんですね。これは私からすれば、かつて日本で"戦後文学"と呼ばれた文芸作品のなかに見出されたものに近いような気もします。深刻な状況下に吹き出してくるユーモアの力、というか、それは生きてゆくために必要なものなんだろうと感じます。

さて、その『蝶の渡り』を今日、観ることが出来ました。予想通りの素晴らしい作品だったと言いたいような気もするし、でも、予想できなかったところもたくさんあり、つまり私はまだジョージアのことを殆ど知らないのです。知らないのに、なぜか彼らを隣人のように感じている。

おそらく、ジョージアのことを知らないとわからない要素が大きく入っているからこそ、普遍性を持って感じられる映画になっているんです。おそらく、ジョージアのことを何も知らなくても全て理解できるような描き方をしていたら、ここまで深いところまで行き着けないでしょう。限定することによって、逆に広がるんです。

才気あふれる(しかし売れない)芸術家たちが集う古いビルの半地下の空間が、映画の中心にあります。そこで描かれる人間模様は、1本の線にはなっていません。複数の線が、出合ったり、出合わなかったりする。例えばラブ・ストーリーでも、1対1の男女の物語にはならないんです。考えてみれば当然のことで、彼女にも彼にもそれまで生きてきた背景あり、家族、友人、知人、以前の恋人 etc. があるわけなので、恋愛も本当はきっと1対1の現象ではない。そんなことを、『蝶の渡り』を観たもうすぐ46歳になる私は感じたのでした。

ここでは思いついたことをさっとなぞっているような書き方をしていますけど、それが具体的にどんな映画で、どんなシーンの連なりなのか、じっくり書いてみたいような気もします。でも、今日はこれ以上、書いてゆく時間がありません。

ラスト・シーンの美しさには、痺れました。ここで「美しい」と言ってしまうのは軽いかもしれません。でも私が「美しい」と思うそこには、そのシーン自体が語り、私がそれを受け取り、打ち返したいと願うような、そんな力強さ──美しさがあるんです。

眠くなってきました。また明日。

(つづく)

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『夢の中で目を覚まして──『アフリカ』を続けて①』(撮影・守安涼)

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