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「古びる」ということ

「このようにして、様々な気候、季節、音群、色彩の群れ、闇、光、元素群、養分、ざわめき、沈黙、運動、休止、それら全てがわれわれの身体という機械そして魂に働きかけている」と書いたのはルソーだったか。この総体を私たちは「一回性」と呼ぶのだろう。若い頃、映画館で35mmフィルムの映写技師をしている時、何度「同じ映画を映写」しても、一度も「同じ映写はない」と感じていた。(越川道夫「一回性という「眩暈」」、「水牛のように」2025年1月号より)

昨日は越川さんの名前を出しつつ、越川さんの文章自体には触れなかったので、今日は今月の「水牛のように」に載っている文章から引いてみました。「一回性」ということばが、私のなかにはなかったのですが、同じことをやっているようでいて、毎回違う、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、ということでしょうか、そのことは、「『アフリカ』を続け」る中で嫌でも感じ、書かざるを得ないことでした。音楽であればライブ(コンサート)、芝居であれば演劇、それなら一回、一回が違うのは当然のように感じられるかもしれません。それでも、同じ演目なら、大きく違わないように演じられる(でも微妙に違うものがたくさん生まれる)。では、記録されたものであれば、どうか。20年前に初めて観たその映画を、今日、再び観ることが出来たとして、その映画は同じものなのかというと、当然、違うでしょう。フィルムなら劣化があるし、ということを除いて上映素材が全く古びていないとしても、観ている私が古びて(変わって)いるのだから。

人が何か表現をするうえで、その「古びる」ということは、避けては通れないというか、必要不可欠なことのようです。やむを得ないことだからかもしれません。だとしたら、そのことを、私は少しでも肯定的に受け止めたいのです。

越川道夫監督の映画『水いらずの星』のパンフレット

越川さんは昨年、演劇を手がけられていましたが、残念ながら観に行くことが出来ませんでした。が、これまでに映画は何作か観ていて、一昨年の年末、公開された映画『水いらずの星』は、たぶん後々まで心に残ってゆくだろう素晴らしい作品でした。その影響は、昨年・夏の『アフリカ』に書いた「別れのコラージュ」という小説にも少し出ていると思います。

その『水いらずの星』のパンフレットに載っている越川さんの話も、少し引いてみます。映画の原作になった戯曲の作者・松田正隆さんとの対談から。

河野(知美)さんと組むのは初めてでしたが、彼女の容姿を含めた在り方をふまえたときに、この戯曲が思い当たったんです。それで、最初に「河野さんを壊しますよ」と伝えました。というのは精神的にも肉体的にも、コントロールのきくところで芝居をやったって、身体性は映りません。たとえば人を殺す役があるとして、俳優は自身の経験と照らし合わせることができません。そんな経験は、なかなかないわけですから。でも、「殺す」というのは抽象的ではなくて「具体的なこと」です。じゃあ、どう芝居を作っていくのか、ということになるのですが。その作業をしていると俳優も、そして監督である僕自身もある種のコントロールを失い始めます。「知っていること」「経験したこと」ではないからです。僕としても自分の青写真にはまってほしくはないから、その方がいいわけです。

(越川道夫、松田正隆との対談「映画の身体、演劇の身体」より)

(つづく)

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