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切り離す

365日かけて365回分書いた後では、1週間も書いていないと忘れてしまう。──と言いながら思い出したので書きます。そうは言いつつも、週に1度書こうとしたら1週間がはやく感じる。4回書いたらもう月が終わるわけだから、じつにあっという間だ。この調子でいくともうすぐクリスマス、もうすぐ来年ですね?

ぼくは書いたり、つくったりするのも好きだが、出来上がっているものを崩したりバラしたり切り離したりするのも好きだ。

美術館やら映画館やらからもらってきたチラシには、ハサミを入れてバラバラにして袋に入れておく。──という遊びを、定期的にやる。最近は息子にもチラシをもらってきておいて一緒に切る。

チラシだけではなく、フリーパーパーなんかも切る。駅に置いてあるようなやつね。時と場合によっては雑誌も切る。本も切り離したくなることがあるが、買ってきた本はなるだけ切らないようにしている(売れなくなるから? どうしても切りたくなった時は切ろう)。

以前(数年前だが)、高橋悠治の本を読んでいたら、こんなメモがあった。

ひとつになっているものをきりはなし、それぞれに別な評価をあたえること。ここに運動がおこる。切断はことばの本質をなす。あるものを名ざす、それはものと名の分裂だ。そのものをほかと区別して名付ける。そこに判断が介入する。(『高橋悠治コレクション1970年代』より)

何だか面白いことを言っている。

しかしまずは「ひとつになっているものをきりはなし」てみよう。話はそれかららだ、と。

かたまっている(ように見える)ものを、疑ってみること。"つくる"というのは、そういうことじゃないか。

ぼくはよくわからないけれど魅力的に思える断片を書くのが好きで、それはもうずっと昔から、書くことを意識的にやり始めてからそうだった。たぶん書き続けている人の中には、そういうのは最初の頃だけで後々はそうじゃなくなったという人も少なくないだろう。でも、ぼくの場合はずっと変わらなくて──いや、変わってはきているかもしれないが、魅力的な断片をもとに書き進めたり、魅力的な断片を組み合わせて原稿をつくるということはずっとやっていて、それはつまり自分から見れば、最初から、切り離された状態であった。

それができたのは、ぼくが無理をして原稿"量"を稼ぐ必要のないままきたからというのも大きいだろう。生活のために量(数)を書くためには、ある程度、流れるように次から次へと書き進める必要がある。そういうことをぼくも一切やってこなかったとは言わないが、その必要には殆ど迫られなかったわけだ。

次から次へと書く。ということは、読む方も次から次へと読む方がいいんだろう。振り返って立ち止まったり、行き惑ったりするのは推奨されない。

でも、ぼくはそれほど暇ではないし(生きるのに一所懸命で)、ある人の放った小さな声を、そっと掬い上げて、じっくり、くり返し聴く、というくらいが精一杯だ。

この話はどこへゆくのだろう? また来週、ということにしよう。

(つづく)

オトナのための文章教室」、これから春までは、横浜・桜木町で開催予定です。次回は2/1(土)の午後、「幼年時代を書く」です。参加したい! という方はあらかじめウェブから参加申し込みをして、ぜひ何か書いてご参加ください(何も書いてなくても参加はできます)。

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