道草と挑戦
(前回のつづき)
でもぼくは、「道草」だけで人生乗りきってゆけると思っているわけでは全くない。なんかヘンな言い方だけど。
いくらセンスのよい道草を続けたところで、無事に渡ってゆけるような甘い社会ではない。
それに道草すれば見える景色が(よくもわるくも)変わる。思いもよらない壁にもぶつかるし、その度に「新たな挑戦」が必要になる。
2009年の年末からぼくは新年の目標を立てることを止めたと書いたが、最近はまた立てるようにしている。心の中で立て、自分だけのノートに書き記しておく。
「道草」の先には、達成多能な目標を(できれば自分には少し頑張らなければ出来ないくらいの目標を)立て、それにふさわしい積み重ねを経て、そのハードルを超えてゆく、というプロセスも必要だ。そうでないと成長がないからね。次なる「道草」も、できなくなってしまう。
ある安定した状況の中にいると、「道草」もなく(「そんなもんだろ?」といった予定調和に陥り)、クリアしてゆく目標にも出会えず(毎年やり過ごすばかりの日々?)──ということに、つい、なってしまう。
「前と同じようにやれたらよい」という発想になってしまう。
その「安定」が、ほんとうに恵まれた、何の不足もない、100%濃縮の充実であればよいのだが、そんなものは空想の中にしかないような気がする。
たとえその空想が現実に起こったとしても、その状況を永遠に保つことなんて不可能だろう。
ましてや「前と同じようにやっていればよい」といった姿勢でやっていたら、咲き誇った富だって急落してしまう。
だから「道草」も「挑戦」も要る。
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そういう話を、この7年かかわっている美術アトリエの受験生むけ国語授業の、2018年最後の回でした。
学生さんたちも、2018年の振り返りを、個人的な、内的な気づきを中心にして、ひとり5分ずつ話してもらった。
あらためて振り返って、言語化することによって、ことばにできる気づきがある。
以前、ある人が、「気づきというのは、その人が自ら気づくから気づきなんだ」ということばを教えてくれて、ぼくは今でもそのことばが好きだ。
それぞれが、それぞれの1年を、同じ場を共有しながら過ごしてきて、それぞれの気づきを得た、ということを感じられて、とてもよかった。
一方で、まだ言語化できないことも、あるだろう。ほんとうはその方が大きいのかもしれない。
言語化することが全てだとは思っていないが、言語化することで、言語化できないことも見えてくる …のではないかとぼくは思っている。
(つづく)
昨年はそのアトリエで、「オトナのための文章教室」というワークショップ形式の教室を、だいたい毎週、やった。明日はそのことを少し書きます。
「道草の家・ことのは山房の日めくりカレンダー」、1日めくって、今日は1月3日、「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに毎日置いてあります。ぜひご覧ください。