まっさらなノート
こどもの頃──小学生くらいの頃、ノートを買ってもらえる時は嬉しかった。
ノートが好きだというより、まだ何も書かれてない、まっさらなノートが好きなのだった。
表紙をひらいて、さぁ、書こう(描こう)という段になると、あぁ、なんてこった。自分の手で書かれる(描かれる)線のお粗末なこと!
だからその頃、ノートを大切に使って、書きまくって、何か身になることを学んだり獲得したりといった経験は、した覚えがない。
いつも数ページ使うと、みすぼらしいノートに変質してしまったのが明らかに感じられてモチベーション(ノートを使うモチベーションだ)はガタ落ちになってしまう。
つまんないこどもでしょう?(自分でもつまんなかったもの)
さて、大人になって、その子がどうなったのか?
さすがに数ページでノートを終わらせはしないし、大切に使うようになってはいる。が、まっさらなノートが好きだという気持ちは変わっていないような気がする。
ノートに限らず、使い始める前──何かを始める前が何より好き、というか、面白い、あと、心地いい、あと何と言おうか。
まだ始まってはいない。始めようとはしている。可能性はひらかれている。というより可能性100パーセントの濃縮ジュースである(何を言ってんのやら)。
妄想している…何かを思い描いている時間の素晴らしさ。
始まってしまえば、いつか終わる。しかし、始まらないものは終わることもない。可能性を秘めたままである。
なんていう考えはただの屁理屈だろうか?
大人になり、ぼくはとにかく“始める”ことができる人に、いつのまにか、なっていた。
何かが終わったり、喪失の経験があると、それが自分に何をもたらそうとしているのだろう、これから何が始まってゆくのだろう、という流れに自分が自然になってゆく。いろいろと、時間はかかるが…
まっさらなノートが好き、というか、まっさらなノートに憧れに近い気持ちを抱いていたこども時代の自分に、少し立ち返っていた。
(つづく)
「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、2月23日。今日は、縁起のいいヤツの話。※毎日だいたい朝に更新しています。