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同じではないが

考えてみれば人と人との関係も音楽のように目には見えなくて、ある日突然途切れたり、転調しうるはかなさを持っている。私たちはたよりなさを生きる。たよりない日々を生き、憤ったり悲しんだりしながら、自らを抱えている。それでも人が生きていくのは、いがみあったり争ったりするためではなく、調和の音を鳴らすためだと信じている。(寺尾紗穂「たよりないもののために」より)

自室の整理をしていると、これまで出会ってきた人たちの書いた(つくった)本がたくさんあるので、見ると、つい開いて、読もうとしてしまう。しかし人生の時間は決まっているので、いま手元にある本の全てをくり返し読む時間は、もうすでにないと言ってよいだろうなとも思います。
その本を書いた作者がまだ生きている(だろう)人であれば、いま、どうしていらっしゃるだろうと気にもなるんですが、連絡をとろうと思ってつく人は、もしかしたらほんの一部かもしれません。
関係がまずくなって離れたような人であれば諦めもつくのですけど、そういうことではなく、そろそろ連絡しよう、しよう、と思いながら時間がたってしまい疎遠になってしまうということも実際にけっこうあり、いまからでも連絡をとろうとすればとれるかもよ? と自分のなかでブツブツやったりもするのですが、どうも人間ができていないらしい私はダラダラしてしまいます。
明日には! が、来週には! 来月には! 来年には! となり、どんどん先送りされて、最近はとくに、あっという間に10年くらい経ってしまうのだから怖ろしい。
そのうちに、相手はきっと自分のことなんかもう忘れてしまっているのではないだろうかという気にもなるのですけど、どうしてそう思ってしまうのかは不明です。自分も忘れてしまっていることがあるからでしょうか。こんなことを書いているからには、本当には忘れてないはずなのですけれど。

そんなことを考えていたら、ふいに、10数年ぶりに連絡をいただく方あり、ちょっと、じーんときました。だって、その人はこんどの私の本に、少しだけ登場していて、読んでほしいなと思っていたので。その旨を書き送ったら、「今なおご活躍の様子、大変嬉しく、頼もしく」と返ってきました。

20数年、続けてきて、ようやくわかるのですけど、続けられる人は、多くないのです。
同じことを続けてきた? 同じことだと思ったら、続かないような気もします。同じではないが、つながっているんです。
自分では別にそんな大したことをしてきた気はしない。地道な活動を、浮いたり沈んだりしながらくり返してきた、というくらいのものです。その時々のことを思い返すと、別に自分でなくても誰でも出来たことのような気がします。でも、それをつなげ、未来へ伝えるような仕事は、誰にでも出来るものではないかもしれない。
運のよい人が担うべき仕事でしょう。
自分がそんな人であるならば、責任を持って担いたいと思うのですが、でも、こんなことになると予想はできませんでした。
運は、肝心なところで使いたいと願っていますけれど、未来は、いつまでも、わからないものですね?

(つづく)

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『夢の中で目を覚まして──『アフリカ』を続けて①』(写真・守安涼)

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