矛盾することを排除せず
ああいうことはやらないの? こういうことはやらないの? と言われることはたまにあって、場合によっては、それをあえてやらないのはなぜか、と怪訝そうに聞かれることもあるのだが、あなたね、いま私のやっていることを全てやってみたらいいよ、というのが正直なところで、たしかに、それらのことを何もやってないなら、やれることは他にたくさんあるだろう。
たとえば、アフリカキカクの営みが何もなくて、自分で本をつくったり、ワークショップをひらいたりすることがなければ、ね、たしかにそれ以外のいろんなことができそうだ。
しかし、自分以外の人が、アフリカキカクのようなことをなぜしないのか? と言われることはたぶん(ほとんど)ない。
先日、ある人たちと話していて、『アフリカ』のような雑誌を年2回も出すのは大変そうだ、ということだった。そうか! そうなのか と頭の中の霧が晴れてゆくような思いでその話を聞いていた。
(自分には、『アフリカ』を年2回出すだけなら何てことないと思っているようなところがある)
それで、この6月に『アフリカ』を出して、その次はまた年末に、と予定していると言った後、じつはその間に本を数冊つくる計画があるんだけど…という話はしそびれてしまった(しかも自分の本じゃないからね)
その場では話す必要がなかったと言えばそれまでだが、あれれ、じつは、自分はけっこう大変な仕事をしようとしている(というか、すでにして15年以上もたっている)のかもしれないなあ、と思ってしまったのだった。
でもね、思ってしまったことを止められるものではなく、自分の中に思い描かれていることを、どうやって進めて、かたちにしてゆこうか、という方に気持ちは(これまで通り)向かう。
長く続けていると、以前と、いまとに、矛盾するところも生まれてくる。
そんなことに気づく時は、自分では、けっこう楽しい。
ブレてる? うん、長くやってると、人は変わる 自分も変わるし、時代も、環境も変わる。
ブレるのは自然なことだよ、と思う。逆に、ブレないことを素晴らしいことのように言われていることがあれば、不自然に思う。
矛盾することを排除せず、同居させておくこと
手元の紙切れにそう書いて、このところ、ずっと手元に置いている。
矛盾することを排除せず、同居させておくこと
それを眺めている自分の心は、ゆらゆら、揺れている。
たとえば、私はことばを大切にしたい。でもね、ことばなんかどうでもいいんだ。──そんなのはコインの裏表なのだが、どうでもいいと言って「どうでもいいんだ?」と思ってしまう人にはどうでもいいことにしておいて構わない。一度でも、どうでもいい、と思えない人に、何かを大切にすることができるだろうか? と思わなくもないのだ。
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いま、ウェブでいろいろ書きたいことがあるのだが、書き出せなくなっているので、今日は"助走"のつもりで少し書いてみた。