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抱きしめたい

私は、束の間の人生を言葉にして他人と分かち合おうというその願望自体がすでに、親しい人々に対する信頼の行為であると思う。(ラナ・ゴゴベリゼ)

いつ読むかもわからない本でも、じゃんじゃん買ってくれるお客さんがいるとしたら、ありがたいな、と思う気持ちは私にもわかります。でも自分には、そこまでの経済的な余裕がなくて、それが出来る人のことを羨ましく思わないでもありませんが、一方で、「本」とは読んでいる瞬間、瞬間にしか存在していないのだ、というふうにも考えています。音楽が、聴いている瞬間にしか存在しないのと同じです。つまり読んでいないときに、そこにあるものは「本」ではない(かもしれない)のです。

先週、私は誕生日プレゼントとして自分へ1冊の本を買ってあげました。ジョージア映画祭で『母と娘 - 完全な夜はない』を観て以来、どうしても読んでみたかったけれど、少々値が張るために手が出なかったラナ・ゴゴベリゼさんの自伝の日本語版『思い出されることを思い出されるままに』です。

ラナさんが90代になって、おそらく最後の作品になるだろうと思って撮られた『金の糸』(2019年)を観て感銘を受け、その後、ジョージア映画にとって初の女性監督だった母のことを描いた最新作のドキュメンタリー『母と娘』(2023年)も観て、近年発見されたというその母、ヌツァ・ゴゴベリゼさんの1930年代の映画『ウジュムリ』『ブバ』も観ました。ヌツァさんは共産党の高官だった夫(ラナさんの父)が処刑されて、自身はその家族だからという理由で10年間の流刑を受けることになり、戻って来てからは辞書編纂の仕事をして、自身の映画については何も語ることがなかったとのこと。その背景にはジョージアという国をめぐる政治的な背景があり、ラナさんの代表作とされる『インタビュアー』(1976年)にもそのへんのことがたくさん出てきますが、その背景を知らなければ、よくわからないまま観てしまうだろうと思います。それでもじゅうぶんに面白いはずですが、でも、一度知ってしまったら、そのことを抜きには観れないはずです。そういった、表面にあらわれているけれど、簡単には気づけないようなことが、彼女の映画(に限らない「ジョージアの映画」と言ってみたいところです)に深みを与えていることは間違いないと私は思います。いわば、表現の不自由が、表現を豊かにしているんです。こんなことがあるのか! と私は目を開かされる気持ちがします。そんな人が紡ぐことばを、私はジョージア語では読めませんから、日本語にして読ませてくれる翻訳者がいて、それを出版してくれるところがあり、というのだけでありがたいことですね、高いと言っても6千円くらいです、誕生日プレゼントなんだから! と言い訳して買ってきましたが、読み始める前に、思わず抱きしめてしまいました。ちょっと大げさかもしれないけれど、こんな気持ちを、忘れたくない。最近は「積ん読」という言い方もあるそうですけど、そんなことを言って得意がるような人に私はなりたくない。買うだけ買って、読めてない本は私にもかなりあるので、そんな自分に対して言っているのです。こんなふうに、抱きしめたくなるような本を、自分でもつくりたいと願います。

ラナ・ゴゴベリゼ『思い出されることを思い出さなるままに』(児島康宏・訳、白水社)

脚本が肉付けされて次第に形になっていく。一人の人間の人生、他者の人生との交錯……これが私の主要な構想だった。主人公の過去、女性たちのインタビュー、具体的なエピソードという三つの別々の層が絡まり合うことに関心があった。このアイデアはずっと以前から持っていたのだが、この映画でそれをやっと実現できた。個人的なドラマ、痛ましい過去の重荷を抱えた一人の女性と、運命に見放されて絶望している女性たち、そして、人生に満足している女性たち。大きく言えば「女性と時代」あるいは「女性と時間」だ。

ラナ・ゴゴベリゼ『思い出されることを思い出さなるままに』より

(つづく)

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『夢の中で目を覚まして──『アフリカ』を続けて①』(撮影・守安涼)

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