あのとき言えなかった言葉(セッション記録)
私は薄っぺらい人間である。
そんな感覚が時々あがってくる。
例えば誰かに褒められたり感謝されたりしたとき。
「あなただから安心して話せたよ、聞いてくれてありがとう」なんて言われると、うれしいくせに、「いやいや、私はただの八方美人で、薄っぺらい人間なんです」。
相手の言葉を素直に受け取ればいいのに、受け取れない。
最近、頻繁に「私は薄っぺらい人間」と言っているのに気づいた。この「薄っぺらい」という感覚は一体何なのか、ゲシュタルト療法のセッションのテーマに取り上げて自分に向き合ってみることにした。
ゲシュタルト療法のセッションは、体の声を聴き、そこで起きる気づきから自分自身への理解を深めていくというものだ。そして、そのサポートをするのがファシリテーター(カウンセラーのこと)である。
ここからはセッションの実況中継を試みてみたい。
ファシリテーターの提案で、最近自分のことを薄っぺらいと感じた場面を思い出し、そこに戻ってみることから始める。脳裏に浮かんだのは、「私の薄っぺらさが見透かされた」とバツが悪く感じた場面だった。
「その場面に留まっていると、体の感じはどう?」とファシリテーターが問う。私の体はどんどん緊張して、固くなっていく。
「体を縮こまらせて固めている」と私。
「手で何かを守っているように見えるよ」
「これは……、これ以上自分のことが見透かされないように守っている。それと……、この状況が過ぎ去るのをじっと待っている」
嵐が過ぎ去るのをじっと待つ感覚。これは私にとても馴染みのある感覚だ。
「息はどう?」
「止めている」
続けてファシリテーターが問う。
「見透かされるとどうなるの?」
「自分が薄っぺらいことがバレる」
またこの言葉だ。そこでファシリテーターが、この言葉の奥にある感情に触れるためにこんな言葉をかけた。
「『薄っぺらい』を別の言葉に置き換えてみることはできる?」
私は卑怯な人間なんです
「薄っぺらい」という感覚をしばらく感じていると、ふと出てきたのがコレ。
「私は卑怯な人間。都合が悪くなるとしれっと逃げる。責任を取らない。私は卑怯な人間なの」
ああ、これだったんだ。私は卑怯な人間。
薄々感じていたけれど、認めたくはないし、でも心の奥底では自分は卑怯だと思って自分を責めていたんだ。
「そうなのね。じゃぁ、『私は卑怯な人間です』って私に言ってみることはできる?」とファシリテーターが提案する。
私はファシリテーターの顔を見ながら言ってみた。
言いながら涙がこぼれる。自分の奥底にあって、誰にも見透かされないよう守ってきた私の脆い部分。それに触れることができて、もう隠さなくてよくなって、私は安堵していた。
「言えてホッとしている。言っても責められない、ってことにもホッとしている」と私。
「自分のことを卑怯と言えるのって、それだけですごいことだと思うよ。なかなかできることじゃない」とファシリテーターが言葉をかけてくれる。
そうかもしれない。頭では理解できる。でも、自分を責める気持ちはどうしても収まらない。
「自分は卑怯だという感覚はいつからあるの?」とファシリテーターが問いかける。
「小さい頃のことは分からないけれど、覚えているのは大人になってから」
「何があったの?」
未熟さがバレないよう、やり過ごすしかない
浮かんできたのは、30代初めの会社員時代の記憶。この出来事は今でも時々思い出す。
マーケティング専門会社で企画営業だった私は、あるクライアント企業のイベント出展の案件を担当することになった。金額はかなりデカく、しかも私はそんな大規模なイベントを担当したことがない。もちろん社内外の専門家と連携していくので、自分一人でやるわけではなかったが、何も分からない私が担当なんて無理!と思った。でも、クライアントごとに担当が決まっているので、私が担当するしかない状況だった。
クライアントとのキックオフミーティングでのこと。
大会議室でクライアント側は5人ほどがずらりと並び、その向かいに私、そしてパートナー企業(イベント会社)の男性が隣に座った。
本来なら私がクライアントに対して説明しなければならないところを、イベント会社の男性に丸投げした。自分の役割をしれっと放棄したのだ。隣の男性の驚いた顔は今でも忘れられない。
私がひととおり話すと、ファシリテーターはその場を再現することを提案 した。
その時の登場人物を座布団で置いてみる。これはゲシュタルト療法のエンプティチェア(この場合は座布団を使った)というアプローチで、エンプティチェアに置いた他者との対話を通して、自分の本当の気持ちに気づくことで、未完了を完了させることができる。
私は、自分とイベント会社の男性の座布団を手前に置き、その向かい側に5枚の座布団を並べた。
「ずいぶんたくさんいるね。じゃあ、自分の場所に座ってみて。どんな感じ?」とファシリテーターが問いかける。
自分の座布団に座ると、あの時の光景がよみがえってくる。
こんな場所になんか来たくなかった。
何か質問されて、答えられずに、自分が「分からない」「できない」ことがバレたらどうしよう。失言して自分の未熟さがバレないように、とにかくこの場は大人しくしてやり過ごすしかない――。
そんなことを思いながら、私は体をこわばらせて、じっと息をひそめていた。
母の存在を意識すると、不思議と力がみなぎった
しばらくして、ファシリテーターが「現在の自分に戻るように」と言い、こう続けた。
「あなたにとって安心できる人、心のよりどころになるような人は誰かいる?」
これはトラウマケアでよく使われるアプローチで、自分が安心できる人やもの(これを「リソース」という)をイメージすることで気持ちを落ち着かせ、その落ち着いた心の状態で同じ場面に遭遇したときに別の行動を選択できることを体感しようという狙いがある。
リソースを問われると、私はいつも困ってしまう。
私にそんな人はいるのだろうか。誰にすればいいのだろう。頭で考えれば考えるほど、混乱してしまう。
でもこのときは、なぜか亡くなった母のことが思い浮かんだ。
以前だったら、リソースに母を選ぶことはなかったと思う。母は私のやることなすことをすべて否定して、自分の理想を私に押し付けた。それが嫌で、私は随分と反抗したものだ。
お母さんは私のことを否定ばかりする——、とずっと思っていて、事実そうだったのだけれど、最近になって「それでも母は私の存在を丸ごと愛してくれていた」と思えたことがあった。
「リソースは、母、かな」と私。
すると、ファシリテーターが母を座布団で置くように言い、私は母の座布団を自分のすぐ後ろに置いた。
私を見守る母の存在を意識したら、緊張がほぐれ、安心し、体の重心が下に降りていくのを感じた。私は私のままでいい、と静かに力がみなぎるのも感じる。
「肩が下がって、背筋が伸びてきたね」とファシリテーターが私の体の変化を伝えてくれる。
本当はこれが言いたかったんだ
「その感じを十分に味わって、準備ができたら、この場で言いたいことを言ってみませんか?」とファシリテーターが提案した。
私はいつもお世話になっているクライアント側の担当者に向きなおって、発言した。
「この度は弊社を選んで頂きありがとうございます。大事なイベントが成功するよう、精一杯務めさせていただきます。ただ、私はイベントの専門家ではないため、分からないことも多く、ご迷惑をおかけするかもしれません。そこで、今日は信頼できるイベントのプロをお連れしました。〇〇会社の〇〇さんです。〇〇さんはこれまでいろんなイベント制作に関わってこられて、知識も実績も豊富です。〇〇さんの力もお借りしながら、イベントが成功するよう精一杯やらせて頂きます。どうぞよろしくお願い致します」
ふぅ。
私はこれが言いたかったのだ。自分はイベントのことはよく分からない、と素直に言いたかった。
そのうえで、イベント会社の男性をクライアントに紹介できて、ホッとしている。彼を紹介できたことで、私の仕事は半分終わったような安堵感もあった。
「じゃあ、クライアントの場所に座ってみて」
ファシリテーターに促されて、いつもお世話になっているクライアント側の担当者の座布団に座る。「彼女(私のこと)になんと言いたい?」とファシリテーターが問いかける。
クライアント側の担当者になってそこに座っていると、相手(私のこと)に対する信頼が沸き起こってくるのを感じた。そして、こんな言葉が口をついた。
「前田さんのことは信頼してるから、よろしくお願いします」
「彼女のことを信頼してるのね?」
「そうですね。彼女はきちんと仕事をやってくれます」
「次にイベント会社の男性の場所に座ってみて。はるみさんに何か伝えたいことはある?」
イベント会社の男性の場所に座ると、安心してその場に居られる感覚が生まれてきた。
「ちゃんと紹介してくれてありがとうございます。自分のことを信頼してもらえてうれしいです」とその男性になった私は言った。
未完了な事柄が、しつこくしつこく追ってくる
エンプティチェアでの対話を終えて、セッションは終了した。
私は言いたかった本当の気持ちが言えて、とても清々しい気持ちだった。それに、クライアント側の担当者も、イベント会社の男性も、私のことを信頼してくれていたと体で感じることができて、温かなものが胸にあふれていた。
あの時の私は、「分からなくて不安、自信がない」と言えなかった。言ったら「ダメなヤツ」「使えないヤツ」と思われる。だから必死で分かっているフリをした。
今思えば、私がイベント未経験で未熟なことなど相手にはお見通しだったはずなのに、「担当者らしくしなきゃ」と虚勢を張ることで自分を追い詰めて、土壇場で役割を放棄するという暴挙に出てしまったのだ。
そんな自分を卑怯だと責める声が、あれから何年も経った今も、亡霊のように私につきまとっていた。実際、「私、またしれっと逃げたな」と自己嫌悪に陥ることが最近もたびたびあった。
ゲシュタルト療法では、十分に自分の気持ちや感情を表現できずに取り残された未完了な事柄は、完結するまで時空を超えて何度でも起こると考える。自分の本当の気持ちを押し殺した挙句に“逃げた”ことは、私にとって未完了のままずっと残っていたのだ。
このセッションで、未完了を完了させたことで、都合が悪くなるとすぐ逃げる卑怯な私が、誠実で素直な私に上書きされた感覚がある。
私、ちゃんと本当のことが言える。
分からないなら、「分からない。だから助けてください」って素直に言える。
そんな私。
とはいえ、これからも本当のことが言えずに、逃げてしまうことがあるかもしれないけれど、それも私だ。
そして、本当のことを言える私もいる。
それでいいんだなと思える。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?