《春枕のひととき》日にち薬はない
秋風が少し冷たく感じられる夕方、銀座の古いビルの最上階にある「春枕」に、里奈さんという女性が訪れました。
静かに階段を上り、白い扉を開くと、そこには柔らかな灯りに包まれた空間が広がっています。桜のカウンターの上には、一本のろうそくがそっと灯されています。
扉が閉まる音に気づいた春花が、静かに顔を上げて微笑みます。里奈さんも、穏やかな表情で桜の前に腰を下ろしました。薬草茶を、温かな湯気とともに差し出します。
ふと、里奈さんが口を開きました。
「日にち薬って、聞いたことがありますか?」どこか哀しげな響きがありました。
「ええ、知っています。でもその言葉、私はあまり好きではないんです…」春花がそっと答えました。
「時間が悲しみを癒すって言いますけど、実際には、時間が経つほどに、また別の辛さが増えていくでしょう。」
里奈さんは、少し驚いた表情で言いました。
「私もそう思うことがありました。最初は、鮮明だった思い出が、時間とともに少しずつ遠くなっていくんです。その人の声や笑顔がぼやけてしまう感じがして…それがまた辛くて。」
「そうですね。忘れたくないのに、忘れてしまうことが恐ろしくて、まるでその人がもう一度遠くに行ってしまうような気持ちになりますよね。」
春花はそっと続けます。
「わたしここでね、ろうそくの炎を見つめていると、この灯りの揺らめきの中に、いつかの温かな記憶がよぎるんです。それがとても愛おしくてね…でも同時に、二度と戻らないことに絶望して、記憶のかけらが手のひらから滑り落ちるようで、どんなに昔のことでも、いつも泣いてしまうんですよ。」
里奈さんは静かに頷きました。
「この場所に来ると、どうしても涙が出てしまいます。」
春花は、ふと遠くを見つめるように言いました。「悲しみに、救いなんてないんですよね…とても辛いけれど。ただ、そのまま胸に抱えて、生きていくしかないのですよね。」
その言葉に、里奈さんはしばらく何も言えず、ただ静かに涙を流しました。ろうそくの揺れる小さな炎に、彼女の涙が映り、春枕の中に淡い光が揺れ動きます。
里奈さんは、目元をそっと拭いながら、静かに頷きました。そして、二人はまた、ろうそくの炎を見つめながら、しばらくの間言葉を交わさずに過ごしました。
春枕には、特別な慰めも答えもありません。ただ、静かに流れる時間と、思い出とともに生きるための場所があるだけ。それでも、ここでのひとときが、悲しみとともに生きるための、小さな支えになってほしいと、桜が見守っているようでした。