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無邪気の残滓
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北の冬、外を歩けば、誰かが雪で遊んだのであろう形跡を方々に見ることがある。
灰色のコンクリートに打ち付けられた雪玉の跡、新雪を踏み締めた綺麗な足跡、雪にダイブした身体の形。「子供のやることだから」と許される、あるいは我々もまた許されてきた跡である。
私はこれを “無邪気の残滓” と呼んでいる。
綺麗な形を残す、というのは存外誰にとっても重要なものである。
顔の跡が無いことに不吉な意味は無い。ただ顔が冷たいからと身体だけで跳び込み、雪を崩さないようにそっと起き上がる。
子供時分には私も同じことをしたものである。つららがあれば取る。おもむろに雪を取っては電柱や壁に向かって投げ、まっさらな雪の大地にぎゅむぎゅむと足跡を付けて回り、そして飛び込む。さしたる意味もない。
ひとしきり雪が降ってしまえば瞬く間に消える刹那的な美しさ、眩しくもあるこの残滓を、今はただポケットに手をしまって歩き去るだけ。誰もいない夜、街灯の下でふと振り返り、大人になってしまった者のなかにもあったはずの無邪気はどこに消えてしまったのだろうと、排ガスで黒ずんだ雪の上を歩きながら考える。