この2年の生活の練習をふりかえって
「生活を愛するしかない」
という、当時クソデカ感情を抱いていた人の言葉がきっかけだった。
2年前、コロナ禍で人と思うようにコミュニケーションがとれなくなったこと、そして健やかな自尊感情の欠如によって、私の社会生活が少しうまくいかなくなった。幸い仕事がなくなることはなかったけれど、先のことを考えすぎるあまり大きい不安に襲われて、それまで好きだったものが見れなくなった。
そんな時、冒頭の言葉を聞いて、直感的に「自分に足りていないのは生活を愛する行為だ」と思い始めた。すぐに実践はできなかったから、まずは練習から始めた。
生活といっても、色々な側面がある。
衣食住、具体的に何をすれば良いだろうと思った時、偶然観ていたテレビ番組で俳優の門脇麦さんが「明日の朝ごはん、何食べようかなと、楽しみだなと思って眠りにつく」と言っていたのを聞いた。これまた直感で、良いなと思った。食というのは、誰かとも共有できるし、1人でも楽しみ方は色々ある。歴史とも地域とも紐づけられるテーマだから、私の根底にずっと眠り続ける(ここじゃないどこかに行きたい)という欲とも相性が良い。
そこから出費を考える時の優先順位として食が上位にあがるようになった。生活も食事中心で組み立てられるようになった。スーパーは、近所の行ったことのないスーパーを開拓し、何処がどのジャンルに強いのかを知った。品揃えが豊富なスーパーへは、テーマパークへ行くような気持ちで足を運んだ。SNSでレシピや食のことを発信しているアカウントをフォローするようになり、『味な副音声』のリスナーになった。行きたいと思った店は、調べて行った気になるのではなくgoogleマップで保存するようになった。外出する時は、近くに行きたいと思っていた店がないかを確認してから行くようになった。気がつけば、ドラマや映画は食が関係するものばかり観るようになっていた。
思えば、生活を愛する必要があったのは、自分のなかに当然のように居座る(ここからいなくなりたい)という気持ちに飲み込まれないようにするためだった。
日々の小さな、細かい幸せを見つける名人になれば、生活に愛着が生まれれば。生きようとする自分の足を引っ張り続けるドロドロとした黒いものが自分のなかから完全になくなることはなくても、共存くらいはできるようになるのではと思ったのだ。
そうしているうちにあっという間に2年が経った。
生活を愛せるようになったかと言われると8割くらいは愛せるようになったんじゃないかと思う。以前よりも花の名前に詳しくなったし、スーパーに並ぶ野菜や果物で季節を感じ、それがうれしいと思えるようになった。
黒いドロドロとしたものについては、飲み込まれてしまうことはなくなった。たまに姿を現したりするものの、前ほど肥大化して、私に襲いかかってこようとはしなくなった。(あ〜今久しぶりに来てるな)と思う程度に。
この間、人と山菜の天ぷらの話で盛り上がって、そういえばと思ったので振り返ってみた。これからも、生活と食を愛していきたいし、定期的に振り返っていきたい。
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