『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』を読んでいる
文章が書きたいと思い、noteを開いては最初の1行を下書き保存をする。そうして保存されたままの下書きたちが、たくさん眠っている。
積み重なった下書きの中から一つ、気に入っていた一文から始まるものを選んでみたものの、もう既に私の気持ちはその文章を書いた時と違っていて続きを書くことができなかった。
最近あったことを、上手に起承転結がつけられるわけでもないが書いていこうと思う。
『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』をエトセトラブックスで購入した。自分のセクシュアリティについて、自分のために言語化をしたいと思った時に、その言葉は自分自身から出てくる必要があると思っている。けれど、同時に社会で自分のセクシュアリティを明かした時、それはどのような意味を持たれ得るのかを知りたいと思い、本を読もうと思った。
最近、パートナーができたのもそのように思うきっかけとなった。パートナー氏には私のセクシュアリティを伝えている。セクシュアリティは他者との親密な関係を構築する際に、少なからず影響を及ぼす要素だと私は考えている。その前提で、私が自分自身の「ありたい」と願う関係性を言語化できなければ、相手に対して必要以上の我慢を要求してしまい、それは私が望む関係性ではなくなってしまう。だから、言語化をするための促進剤的役割を求めて、本を手に取った。
まだ読み終わってはいないが、共感するところもあれば、そうでないところも当然あり、アセクシャルのグラデーションについて考えさせられることが多い。ただ、読み進める中で感じているのは、自分と近い感じ方、関係性の捉え方をする他者の存在を、言葉と物理的な紙を以って感じられることで癒される孤独があるということだ。
物理的な孤独は私にとって然程苦痛ではない。むしろ独りでいることを時には明確に自ら選択するほど必要としている。けれど、社会という大きな文脈の中であたかもそれしかないように立ち振る舞う恋愛主義/性愛主義に合流できないということは、時に苦痛を伴う孤独を私にもたらす。独りでいる時に触れるフィクションの中に、自分の居場所がないと感じられる時の孤独の方が、現実の物理的な孤独より苦痛に感じてしまうように。
そのような孤独をこの本は和らげてくれた。私もいつか、かつての自分のような誰かの孤独の隣に寄り添える物語が書けたら……などという夢をここに書いておく。
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