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音楽以上に「なにか」が刺さる ミュージカル『ファンレター』観劇記録

韓国発のミュージカル『ファンレター』。

1930年代の日本統治下の話で、何度も再演されている作品。それ以外の事前知識はほぼゼロの状態で、劇場に足を運んだ。

と言っても、その昔日本史は得意科目だったので、一般的な近現代史の知識はある。あくまで「こちら側から見た歴史」として。日韓併合とか朝鮮総督府とかのキーワードとともにある「日本と朝鮮半島」のわずかな記憶は、日本人のわたしが「楽しい!」ばかりでは観られない物語になることを告げてくる。

しかし栗山民也演出・浦井健治出演とあらば、観ないわけにはいかない。なんせ『デスノート』『あわれ彼女は娼婦』の組み合わせである。ピュアネスの純度が極まって狂気へと変貌していく・・・そんな役を浦井健治が板の上に乗せてくれる。期待が膨らむ掛け算。

運よくチケットは取れた。けど、海宝直人に木下晴香に浦井健治というミュージカル界のスター揃いの公演で、シアタークリエってキャパが小さすぎやしないか(600席ぐらいしかない)?とボヤきたくなる程度にはチケットが取りにくかった。

オススメしたところで、もう全公演が終わっているから観られない。だがそれでもこれを読んでくださってる皆さんに言っておきたい。

もし次があるならぜひ観てくれ! 


観劇日・キャスト

2024年9月14日(土)ソワレ
2024年9月21日(土)ソワレ
2024年9月29日(日)マチネ
場所:シアタークリエ

キャスト(敬称略)は以下の通り

チョン・セフン 海宝直人
ヒカル    木下晴香

イ・ユン 木内健人
イ・テジュン 斎藤准一郎
キム・スナム 常川藍里
キム・ファンテ 畑中竜也

キム・ヘジン   浦井健治

ミュージカル 『ファンレター』 ホームページより

あらすじ

東宝のホームページに掲載されたあらすじを引用する。

1930年代・京城。セフンはカフェで驚くべき話を耳にする。亡くなった小説家ヘジンと恋人の“ヒカル”が共作した小説が出版される、しかも謎に包まれたヒカルの正体まで明らかになるという。セフンはヘジンの友人でもある小説家イ・ユンを訪ね、とある理由から出版を止めるように頼む。だがイ・ユンは頼みに応じないどころか、ヘジンがヒカルに最後に宛てた手紙を持っていると嘯き、セフンにヒカルの謎を明かすよう迫ってくる。なんとしても手紙を手に入れたいセフンは、隠してきた秘密を語り始める—。

東京に留学していたセフンは、自身が日本で使っていたペンネーム「ヒカル」の名前で尊敬する小説家・ヘジンに“ファンレター”を送っていた。手紙のやり取りを通して2人は親しくなっていく。
その後、京城に戻り新聞社で手伝いを始めたセフンは、文学会「七人会」に参加したヘジンと出会う。だが、肺結核を患っているうえにヒカルを女性だと思って夢中になっているヘジンに対して、ヒカルの正体を明かすことは出来なかった。これまでどおり手紙を書き続け、完璧なヒカルであろうと決心をしたセフン。ヒカルはどんどん生きた人物になっていく。
そんな中、セフンが書きヘジンに送っていた小説がヒカルの名前で新聞に掲載され、ヒカルは天才女流作家として名を知られ始める。ヒカルの正体が明らかになることを恐れたセフンは―。

ミュージカル ファンレター ホームページより https://www.tohostage.com/fanletter/

感想

「余白」のあるミュージカル

今年放送されたテレビドラマ『アンメット』や映画『市子』に出演している杉咲花さん。彼女はこの2作品で「余白」の多い芝居を見せている。

余白の多い芝居は映画との親和性が高い。映画は圧倒的にセリフより画で魅せる芸術だからだ。

それに比べると、ミュージカルに「余白」は少なくなる。曲や歌がセリフ以上に説明的な役割を果たす。分かりやすい例で言えば、『モーツァルト!』の「奇跡の子」。天才少年・ヴォルフガングが曲を披露する晴れがましい場のはずなのに、不安を誘う旋律が流れる。歌詞そのものにも、役者さんのお芝居にもそんな雰囲気は無い。曲がストーリーの「余白」を埋めてしまう。観客の頭の中に残るのは、多くの場合芝居よりも「曲」だったり「歌声の美しさ」だったりする。観客の感情のうねりの多くは、曲(もしくは歌声)が作っていると言っても良いくらいだ。

だが、『ファンレター』は少し違う。

キャストはいずれ劣らぬミュージカル界の実力者揃い。全員歌が上手い。曲が記憶に残っているところは、いくつもある。それでも、この作品が深く刺さるのは、紛れもなく演出家・栗山民也が意図的に作り出す「余白」と、そこに込めたものを体現してみせる、役者ひとりひとりの確かな芝居力によるものだ。

例えば、描かれても良いはずのヘジンの生い立ちは、一切出てこない。孤独を抱えているセフンが手紙に書いた「悲しみを分けてください」に深く共鳴したヘジン。どれだけ多くの悲しみを携えて生きているのだろう。想像しただけで胸が締め付けられる。

普通のミュージカルなら、ヘジンの子ども時代の回想とか、ヘジン役の役者に子どもの声色で歌わせるとか、そういう演出があってもおかしくは無い。けれど、本作はそんな風になっていない。

ヘジンの生い立ちがおそらくセフンと同様孤独に満ちたものであることは、主にセフン役の海宝直人さんとヘジン役の浦井健治さんの芝居に託されている。孤独を抱えたもの同士が、「ヒカル」を通じて惹かれあう。「ヒカル」を介してセフンは、愛されている実感を久しぶりに得る。病身のヘジンは、文学という孤独の城の中、自己を分かち合える存在を得て、小説家としての凄みを増していく。

ミュージカルでありながら、二人の天才の狂気じみた純度は海宝直人さん、木下晴香さん、浦井健治さんの芝居に大きく託されている。三人とも観るたび新鮮な驚きをくれた。この座組で観られたことに感謝したい。

俳優・浦井健治の身体能力

ヘジンが舞台奥上手から現れた時、一瞬わたしの脳内には大きな「?」が浮かんだ。

あれは、誰だ?

いや、わたしの大好きな役者の一人浦井健治さんがヘジンを演じる、と知ってはいる。だがそこに居たのは一度も観たことのない人だった。背中は丸まっているし髪はボサボサだし、ただの冴えないオジサン。そのビジュアルのまま、1幕では普段あまり聞かない低音を響かせ、2幕ラスト近くセフンに贈る歌では、耳慣れた優しい声が客席を包み込む。

どういう理屈かはわからないが、顔のしわも深くなっているように見える。背中を丸めたまま、いつもに増して美しい歌声を披露する。いったいどこのどんな筋肉をどう動かしたらあんな芝居ができるのか、想像もできない。

2幕、ヘジンの仕事場でセフン/ヒカルと対峙する。ヒカルに導かれるように執筆への熱に憑りつかれたヘジンの狂気が刺さる。彼にとって、書くことは生きること。ヒカルはヘジンのミューズであり、残りわずかな命を小説に捧げるための導火線でもあったのかもしれない。

海宝直人/木下晴香のコンビが最高

もともと、セフンのペンネームでしかなかったヒカル。物書きとしての「ヒカル」がセフンに命を吹き込まれ、別人格として分離していく。

ヒカルはヘジンの愛を受け(セフンはヒカルを経由してヘジンからの愛を受け取り)、次第に暴走していく。「アベラールとエロイーズのように」、というより、ヒカルが積極的にヘジンを煽っていくかのよう。

暴走していくヒカルに恐怖を覚えつつも、セフンは時折ヒカルと同時にニヤリと笑うシンクロ場面があったりと、ポイントポイントで「ヒカルは確かにセフンから生み出されたもの」なのだと感じさせる。また海宝直人さんと木下晴香さんのお二人、芝居の相性も歌声の相性もバッチリ。何度か共演しているだけあって、安心して観ていられた。

七人会の表すもの

日本の統治下。時刻も日本時間に勝手に変えられ、朝鮮語の使用を制限され、朝鮮半島に暮らす人たちがアイデンティティを奪われていた時代。誇りを失うまいと朝鮮語での「表現」を純粋に追い求めた七人会のメンバー。

特に自称天才のイ・ユン。友人であるヘジンを七人会に誘ったのは、七人会を盛り上げるためももちろんあるだろうが、孤独に執筆活動をする友人を外に引っ張り出したかったのもあったのでは?と感じた。

ユンとヘジン。肺病の天才ふたりの間にしかないものが確かにあって。ユンは東京までわざわざ訪ねてきたセフンに「書き続けろ」と言うけれど、ヘジンの思いを理解し、自分の命の灯が尽きるのもそう遠くないと感じたからこそ、そう伝えたんじゃないか。

俺が伝えなければ、セフンはもう書かないかもしれない。
七人会に俺もヘジンもいなくなってしまったら?
ヘジンが愛したその才能を、埋もれさせてはならない。

熱い熱い文学への思いを誰よりも心に滾らせていたのは、ユンだったのではないだろうか。

ヘジンからセフンへの手紙。そして

自分の中のヒカルを葬り、自身がヒカルであることを告白したセフン。「僕を見て」と何度もヘジンに問いかける歌声が切ない。ヒカル無しでは自分は愛されない。だがどうか自分を見てほしい。願いはむなしく空に消えていく。

ヘジンからの手紙をセフンが受け取ったのは、そんな悲しい別れからだいぶ時がたってからだった。今際の際のヘジンは、目も良く見えなくなってきた中セフンへ手紙を綴っていた。

いつしかヒカルと同じ空気をセフンが纏っていることに気づいていたこと。
生きる希望を失うようで怖くて、ヒカルに固執していたのは自身であったこと。
手紙のきみを愛さずにはいられなかったこと。
セフンからの返事をひたすら待っていること。

ヘジンの包み込むような優しい歌声が、客席を覆いつくす。
セフン、遅いよ。遅すぎたよ。客席が涙したその後。

ヘジンとヒカルの往復書簡が出版されるにあたり、尽力したセフンは「何かひとこと」を求められる。

ヘジン先生は僕にとって、春のようなひとでした

そんな風にはじまる挨拶はいつしか歌になり、ヘジンがひたすら待っていたセフンからの手紙になっていく。

ヘジンとセフンとしての手紙の往復。
朝鮮語の文学を愛するもの同士、孤独を抱えて生きてきたもの同士が裸の心を通わせる。「愛」と言えば愛なのだが、そこにある感情をどう呼んだらいいのか、わたしには分からない。

終わりに

観たあと、すごく重たいものを渡された気になった。同時に、今の日本でこの作品を上演する意義について考えさせられた。あの時代に抑圧した側の民族として、本質的に理解しきれていないところもあっただろう。

暮らしの平穏が脅かされた時、いつだって芸術は「不要不急」と槍玉に挙げられる。七人会が追い求めたものは、コロナ禍の舞台制作関係者が追い求めたものでもあるんじゃないか。ならば、自分の出来ることは何だろう。

芸術を消費するのではなく、まっすぐに見つめ、まっすぐに受け取る。芸術を鑑賞する者としてのたしなみを、大切にしていたい。

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はるまふじ
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