【駄文】漫画みたいなダブルプレーが連れてきた記憶
二死ランナーなし。上野投手の放ったボールは、アメリカの打者のバットをかすめフラフラと力なく舞い上がる。マスクを勢いよく取って、キャッチャーフライをしっかり捕った瞬間、日本代表の優勝が決まった。
2021年7月27日夜、ソフトボール日本代表は、東京五輪で金メダルを獲得した。13年ぶりだという。なぜ13年ぶりなのかというと、そもそも五輪種目としてソフトボールが対象から外されたからだ。戦って負けたのではない。戦う場を奪われて、戦えなかったのだ。
東京五輪日本代表のエース・上野由岐子投手がソフトボール日本代表に金メダルをもたらしたのは、2008年の北京五輪。その時上野投手はまだ20代。今回の東京五輪では39歳。しかも、途中自分がやっている競技が五輪種目の対象から外されている。モチベーションを保つのは並大抵のことではなかっただろう。それでも出場し、あれだけの投球をする彼女を、心から尊敬する。
世界的に流行が収まらない新型コロナウイルスの感染状況から、五輪を実施すべきではないという意見も多かった。今も収まっているとはいいがたい。そもそも五輪終了後の状況がどうなっているかによって、また五輪開催にまつわる話の流れは、変わるのだろうと思う。
五輪開催の是非については、とりあえず置いておく。
私は今、東京五輪ソフトボール日本代表の試合を観戦して、自分が経験したスポーツであるソフトボールについて書きたくなったので書いている。
経験値はどのくらいかというと、中学3年間しか経験してない。
なんだ大したことないじゃん、と思うかもしれないが、小学校2年から地元の少年野球チームでピッチャーをして(もちろん当時のチームメイトは全員男子。私は40代である)から、中学に入っている。もともと右投げ右打ちだったのを、右投げ左打ちに矯正した経験もある。
ソフトボールで推薦入学の話はあったが断った。4番で捕手だった私以外のチームメイトの中には、強豪校でレギュラーとして活躍し、国体に出た人もいる。私は進学先の高校にソフトボール部がなかったので、代わりに他のスポーツをやった。
つまり、通算すると野球またはソフトボールの経験は結構あるし、少なくとも中学卒業時点ではそこそこの選手だった。競技歴には、自宅近くで壁を相手に野球のボールをぶつけて、おかしな方向に跳ね返ったボールを取って一塁に送球する練習をしていた幼少期は、数えていない。
と、身バレしかねない個人情報をバラしたところで、日本代表に戻る。
決勝の日本対アメリカ戦は、手に汗握る投手戦になった。
もともとこういったハイレベルなソフトボールの試合は、投手戦になりやすい。塁間が狭いので、ランナーを出すと割と簡単に前の塁まで行けてしまうから、なるべくランナーを出さないようなピッチングを心がけるのだと思う。打つ方も簡単に打てはしない。もっとも、日本代表は2回ほどホームラン性の当たりをライトとレフトにそれぞれキャッチされている。予選の試合より長打が出ていたので、上野投手を支えようと、野手も集中して打席に入っていたのだろう。
この試合、6回裏に漫画みたいなことが起こった。
一死一・二塁。強烈なサードライナーが、三塁手の腕に当たって飛んだところが、遊撃手の手に届く範囲だったのだ。遊撃手はそのままキャッチして、二塁へ送球。ダブルプレーとなった。
2点差。2人目のランナーが返れば同点だ。しかも1アウト。あの強烈なサードライナーがもし内野を抜けていたら、1点入って、なおかつ3塁にランナーが残った状態で1アウトのままアメリカの攻撃は続いていただろう。いや、打球の飛んだ位置からして、抜けたら2点入っていたかもしれない。
はじいた三塁手もだが、遊撃手の渥美選手の素晴らしさ! 三塁手のもとに強烈な打球が飛んでいるので、当然遊撃手が打球のカバーには入るのだけれど、予想しない方向に飛んだボールを見事にキャッチして、冷静に2塁で併殺を取った、その判断力。そしてちゃんと二塁手がセカンドに入ってる。あのプレーがなかったら、どうなっていたか分からない試合だった。もっともっと取り上げてほしい。鳥肌ものだった。
運命とか、信じない方ではあるのだけれどあのプレーは本当に、「こんなことってあるの??」とビックリさせられた。野球の神様がいるとしたらよほど日本代表に惚れ込んだのだろう。
チーム全員一丸となって取った金メダル。心からおめでとうと言いたい。
賛否両論の五輪ではあるが、やはりアスリートの姿には心震わされる。自分が懸命に取り組んだ競技であれば、なおさらだ。
ところで、あのダブルプレーを見て思い出したことがある。
無死満塁。私はライトで守備に入っていた。ライトライナーをキャッチして、1塁に返球して二死。飛び出した3塁ランナーを一塁手がさして、チェンジ。
そう。私は以前、中学時代にトリプルプレーを成立させていたのだった。渥美選手が連れてきてくれた、私の記憶。今日も「そんなことあったな~ 日本代表とはレベルが違うけどさ」と懐かしんでいる。