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感想:NODA・MAP第27回公演『正三角関係』

ここ3年のNODA・MAPの中でもっとも消化不良な作品だった。
NODA・MAP第27回公演『正三角関係』。

読者の皆様へ:
ここから先は、『正三角関係』の具体的内容に触れます。
舞台を未見の方はこの先はお読みにならないでください。
また、個人的見解を述べておりますので、お気を悪くする方がおられるかもしれないことを事前にお断りしておきます。読んで嫌な気持ちになりたくない方は、ここで読むのを止めておいてください。

観賞日:2024年8月10日(土) ソワレ

キャスト
唐松富太郎    松本潤
唐松威蕃     永山瑛太
唐松在良/グルーシェニカ   長澤まさみ
生方莉奈     村岡希美
ウワサスキー夫人   池谷のぶえ
番頭呉剛力    小松和重
不知火弁護人   野田秀樹
唐松兵頭     竹中直人 

『フェイクスピア』『Q』『兎、波を走る』。
いずれも力のある作品で、圧倒されて席から立ちあがれず、拍手をするのが精いっぱいだった。

だが『正三角関係』からはそういう爆発的なエネルギーを受け取ることは出来なかった。役者さんたちは皆それぞれ悪くない。むしろ池谷のぶえさんのウワサスキー夫人なんて、すごく良かった。だが全体的に、「無難」。

消化不良の正体が見極められず、自宅に帰ってから戯曲を2回読み、NODA・MAPの他作品『贋作・桜の森の満開の下』と『THE BEE』を観た。以前WOWOWで放送されたものの録画だから、実際に舞台を観るのとは雲泥の差だが、それでもこの2作品の方がはるかにエネルギッシュだった。

何故なのだろう。『THE BEE』の長澤まさみさんの健康的なエロティックさは『正三角関係』でも健在だったし、松潤も13年ぶりの舞台という割にべつに悪くはなかったし、瑛太さんも無難に物理学者役をこなしていた。

作品の骨格である『カラマーゾフの兄弟』の内容をトレースしながら、太平洋戦争時の日本とロシアの関係を絡めて、日本における原爆開発も描き、最終的には長崎の原爆投下へとつながって行く。『兎、波を走る』のときは「ベースは不思議の国のアリス」だと言いながら、チェーホフの『桜の園』だったりしたけど、そういうトリッキーなことはない。花火師である富太郎が花火の火薬を「不要不急」と言われて取り上げられ、原爆投下にその腕を利用されかけるという流れは、コロナ禍において演劇を「不要不急」と言われた野田さん自身の怒りも反映しているのだろうと感じた。

『フェイクスピア』や『兎、波を走る』と違い作品のかなり前半で、何を描こうとしているか読めてしまった(長崎が舞台で、威蕃が量子物理学者であることが出てきたあたり)のは、これらの作品に比べると印象としてマイナスだったかもしれない。

観てる途中、わたしの頭に浮かんだのは映画『太陽の子』。
柳楽優弥、三浦春馬、有村架純が紡ぐ秀逸な作品。つまりここで物理学者と言われて頭に真っ先に浮かんだのは、柳楽優弥さん演じる石村修だった。

で、これはわたしの脳内のいたずらなのでどうしようもないのだが、修と威蕃を比べてしまうのだ。威蕃は修に比べてだいぶ普通だ。頭のネジが1本多くて「何やっとんじゃあいつ」みたいな感じが全然しない。

話を少し横道に逸らす。
映画『太陽の子』の公開時、日本の原爆開発のことはけっこう調べた。東大と京大で陸軍と海軍が別々に研究を進めていたこと、日本の研究予算はたった2000万円、対するマンハッタン計画は22億ドルの国家的プロジェクト。1945年7月時点で、日本はウラン235を取り出すことすら出来ていなかった(原子爆弾を作るには天然ウランの中に0.7%しか含まれていないウラン235を取り出さなければならない)。連合国側との開発競争に勝ち目はなかった。なぜって、人形峠のウラン鉱山が見つかるのは戦後になってからで、そもそも日本には開発プロジェクトを進めるための人もモノもカネも絶対的に不足していたのだから。その辺は『正三角関係』の中でも「竹で原爆開発」のあたりで描写されているけれども・・・

そもそも人形峠のウラン鉱山が戦前すでに見つかっていること、ロシアと日本が原爆の共同開発をしていたことという作品の設定自体が「もし~ならば」の世界だと思っているし、別にそういう仮定の中でお話を作るのは普通のことだと思っているから、それは良いとして。

話を本筋に戻す。
わたしには色々と分からない。
脚本上、ロシアと日本が原爆の共同研究をしていたとする理由は、
(そういう史実があるのでしたらただの無知です。すみません)

原爆開発競争はどっちが勝つかわからなかった

「それは落とされる側の人間が言う言葉だよ」というセリフに「どっちが落とされる側になっていたかなんて、状況次第で分かんなかったんだから」
という意味合いを込める

こと以外に思いつかないのだけども。
だとしたら、威蕃と教授との間に開発競争に負けるかもしれないという焦燥とかがイマイチ見えないし、威蕃と富太郎の関係はもっと「兄貴を利用して世界的に有名になってやる」というギラついた野心が感じられてもいいような気がする。威蕃がちょっと優等生過ぎる感じがあった。科学者としての純粋な狂気も感じられないし。

富太郎はやさぐれてるし女好きだし働かないし、どうしようもない奴だがピュアである。一方威蕃は働いているし女癖も悪くないしやさぐれてもいないが、量子物理学に憑りつかれた野心家だ。この二人が芝居でぶつかって化学反応を起こしてくれた感じがしない。この化学反応にグルーシェニカが絡んでくれたら面白かったのに。

つまりは、結局のところ下手ではない役者の1+1+1が「3」になったという風情で、いつものNODA・MAP公演に感じる「1+1+1+アンサンブル=∞」みたいな感じが無かったのだ。NODA・MAPの主演を張る人は皆、「えげつない身体性をいかんなく発揮してくれる人」と思っているが、あまり感じられなかったこともあるのかもしれない。

そういう意味では、この芝居のカギを握っていたのは威蕃だと言えなくもないなあと書きながら感じている。ウワサスキー夫人との間にも、富太郎との間にも、化学反応を起こし得る存在。

あとは、リフレインの使い方に上手く意味を持たせられていない箇所があるようにも感じた。富太郎の「俺はこんなことのために花火を上げる巧みを磨いてきたわけじゃない」という2回目のセリフと1回目のセリフには、「落とされた側の人間が言うことだよ」の2回目と1回目ぐらいの重みの差があるはず。だけど、客席からそれは感じられなかった。

結局ラストの富太郎の「長崎の悲劇を生き延びたものとして、いつか立ち直って人々が笑顔で空を見上げることができるように」という意味合いのセリフは、不要不急扱いされた演劇そのものに対する野田さんの思いのように聞こえた。で、そこにもっていくまでに、当時基礎研究の域を出なかった日本の原爆開発をフィクションを入れてまで絡めた意図が分からなかった。

書いていて気付いた。もしかしたら、コロナ禍のブロードウェイでも不要不急扱いされた演劇へのエール、ということでもあったのかもしれない。

もし、野田さんの意図がわたしの書いたところにあったのだとしたら、これは大変に難しい脚本であり、実際に舞台でうまく観客に魅せるのは至難の業だろう。事実わたしには届かなかった。

それとも考えすぎで、素直に「長崎に原爆落としたことについて、[戦争を終わらせるためにああするしかなかった]とかお前らが言うなよ?こっちが言うならともかく?非人道的行為だったんだぞ?」が最終メッセージなら、『Q』の「戦争が終わる日に、戦争は終わらない」級の重さのセリフがどこかにあって欲しかった。身体表現が今回はあまり効いてない感じだったので、余計に。

残念ながらもう観る機会はないので、配信とWOWOWでの放送を待つことにする。ラストのロンドン公演は11月。それまでにまだ進化を続けるのだろうから、テレビカメラが入る日の公演が、わたしが観た時よりも進化していることを期待しておく。

追記
書きながら気づいたのだけど、映画『太陽の子』が名作として頭に残りすぎているせいで余計なことを考えてしまうのかもしれない。威蕃を量子物理学者にしたのだって、別に「長崎への原爆投下」を持ってくるための手段に過ぎなかったのかも。そう考えると『カラマーゾフの兄弟』もロシアも、単にそれへの導火線に過ぎず、あれこれ考えるものでは無いのかも。だがそうは思えないから、消化不良のままなのだ。あとは映像で確かめよう。

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はるまふじ
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