見出し画像

三浦春馬さん映画「天外者(てんがらもん)」を10倍楽しむために 五代友厚の足跡振り返り


映画「天外者(てんがらもん)」の試写会が行われ、キャストの舞台あいさつに三浦春馬さんがいないことに一抹どころか激しい寂しさを感じておりますが、「天外者」の公開が迫ってきている今、もういちど五代友厚の足跡を振り返っておこうと思います。


青年期

長崎海軍伝習所で学び、翌年藩命を受けて長崎へ留学、日本の外から世界を見る目を養う。薩摩藩主・島津斉彬の思想の影響を強く受ける


幕末動乱期

薩摩藩は大名行列を外国人に横切られて切りつけるという「生麦事件」をきっかけにイギリスと対立、薩英戦争が起きるが薩摩藩が負け、この時五代友厚は捕虜となる。

イギリスはしれっと横浜当たりで五代(と寺島宗則)を逃がすものの、当時の薩摩藩は武断派が多いことで有名で、五代も寺島宗則も「戦いもせずつかまって自決もしない腰抜け」「外国かぶれ(当時から五代は開国派)」と言われていたであろうことは想像に難くない。

その後、二人はなかなか薩摩に帰れず長崎に潜伏。なんだかんだと働きかけをして、帰藩を許される。その後グラバーの手引きで薩摩藩から英国へ派遣され、海外の進んだ文明を自分の目で見て、自分の歩むべき道「実業家として国を富ませる」を確信する。

だけど、彼の地元・薩摩は強くてなんぼ、刀を振るってなんぼなところがある土地柄。五代友厚にとって、針の筵だったのではないかと思う。

明治初期

まだまだ攘夷だ!とか言っている武士の多い中で、フランス兵が測量のために上陸しようとして起きた「堺事件」。フランス兵側に多数の死者を出す惨事となった。

この処理を巡って奔走する五代友厚。寝ずにあちこち奔走したこともあったよう。事件を起こした土佐藩の武士の切腹で手打ち。時代が明治になっても薩摩のお国柄は急には変わらない。五代友厚は政府高官として高給を得る、外国かぶれと揶揄されていたようだ。

実業家

実業家としては、「金銀分析所」で儲けたお金をほぼ全額鉱山業への投資に充て、鉱山の開発に努めた。商工会議所のはしりを作った。大阪市立大学を作った。

功績はたくさんあるのに、なぜか歴史の教科書には「開拓使官有物払い下げ事件」でしか載っていない。教科書の記述は誤りなので訂正して欲しい。

簡単に振り返ってみました。五代友厚は、逆風にめげず、生涯自分の信ずる道を進んだ偉大な人です。詳細に知りたい方は以下からどうぞ


いいなと思ったら応援しよう!

はるまふじ
いただいたサポートは、わたしの好きなものたちを応援するために使わせていただきます。時に、直接ではなく好きなものたちを支える人に寄付することがあります。どうかご了承ください。