時間よ止まれ。
10年ほど前、私が働き始め、遊び呆けていた頃、
母が難病になった。
よくなることも、治療法もない。
緩やかな退化と衰退。
病名が決まる前、寝言が多くなったし、昔より動きが鈍くなっていた。
母も歳だし、老化かな〜とだけ思っていたが、
それが病気の症状だったと知った。
母の病名を聞かされ、真っ先に考えたのが
私の人生、結婚も出産もライフイベントとして起こってないのに、親の介護が数段飛ばしてきちゃったな。
ということだった。
これからどうしよう。
親の介護なんてまだ先のことだと思っていたので、私の貯金も母の生活を支えられるほどない。
今は仕事ができている母だが、退職しても年金は微々たるものしか出ない。とてもじゃないが、生きていけない。
生活の負担を減らすために、たくさん調べた。
介護保険による補助は、段階がまだ低いから受けられなかった。
補助金は、世帯収入が多く、対象外だった。
頼れる親族はいない。
姉は関東に、妹はまだ学生だった。
どうにかしないと。
私がどうにかしないと。
病気の症状によって身体障害者手帳を取得できることを知った。
母にすぐに取るよう言った。
母は、自分が障害者だと認めるのが嫌だと、手帳取得を渋った。
今ならわかるが、自分が病気になったことを受け入れることも、それによって体が動かなくなり、障害者手帳を取得できる基準までいっていることも、そりゃ簡単に受け入れられるわけがない。
でも、当時の私は、手帳を取得することにより受けられる割引や、ヘルパー制度など、自分の負担を軽くすることしか考えていないかった。
それから数年。
急激に症状が悪化することはなく、ただし着実に体は動かなくなっていった。母が勤めていた会社は、母の状況を受け入れ、雨の日の送迎など、手厚く対応してくれた。
そんな母が、仕事から泣いて帰ってくることが続いた。
1人嫌なことを言ってくる社員がいるらしい。その人と喧嘩したと言っては、子供のように泣きじゃくる母が見ていられなかった。
その時には母も60歳を超えていたし、辞めたいならいつでも辞めればいいと私も兄弟も思っていた。
そして、ある年の3月。
「6月末で退職することにしたから。明日から有休消化で、もう仕事には行かない。」と母が言った。
母が決めたなら、私は口出すことではないので「そっか。」とだけ言った。
ただ、母が長年支えてきた会社を、本人がまだ働きたいと思っているのに、体が動かないせいで、会社の人とギクシャクして、辞めざるをえない状況になった事が、悔しくてたまらなかった。
それから母は、毎日決まった時間に起きる必要も、出かける必要もなくなり、家から滅多に出なくなった。
時代は便利なもので、買い物はネットスーパーで済ませるようになった。
毎週私と行っていた近所への散歩も、体調が悪いからと断るようになった。
症状が悪化し、体を動かしにくいだけでなく、動かすのに痛みを伴うようになっていた。
少し歩くだけで「痛い、いたい」と泣く母の横で私はいつも気にしていない風を装っていた。
痛くても、動かないと筋肉がより減って動けなくなる。動かないとより筋肉が固着して強い痛みを伴う。私が変われるものではない。でも、母を歩かせないと、より動けなくなって悲しいのは母だ。
心を殺した。
ただ、横についていた。
家に介護用の手すりや備品を入れることになった。
我が家には縁遠いものだと思っていたが、母は壁づたいでも歩くのが精一杯になっていた。
可愛い色のにしようとか、オシャレなデザインのものにしようとか、なるべく母が落ち込まないように私たちも家にこれらが増えることを受け入れているよとアピールしたが、正直嫌でしょうがなかった。
手すりがないと立ち上がれない母も、家の真ん中で動けなくなって泣き出す母も、全てが嫌だった。
なんでよりによって母だったんだろう。
どうか、これ以上症状が悪化しませんように。
これ以上母の痛みが増しませんように。
少しでも長く母が笑っていられますように。
もう少し親孝行する時間をください。
どうか。
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