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萩原治子の「この旅でいきいき」シリーズVol.10

エジプトの旅 (上編) 2018年11月

ファラオたちの遺物, ナイル河クルーズ & ピラミッド ー 圧巻!

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私はそれまでに世界40カ国くらいを旅していた。他にどこに行きたい?エジプトは?と何回も聞かれていたが、私は有史にしか興味ないと答えていた。つまり考古学の範囲に入る時代にはあまり興味がなかった。エジプトの古代史には象形文字というのがあり、ナポレオン遠征中に見つかったロゼッタ・ストーンによって、解読もされていたわけだが、それはかなり宗教的な儀式についての官僚による記録だと聞いていた。さらにここ20年くらいはテロ事件やアラブの春があり、危険でエジプト観光は下火だった。その状況が近年少しずつ改善し、ユニワールドというリバー・クルーズの会社は、2年前からこのツアーを復活させていた。そのカタログを見ると、「ナイル河をクルーズ」とあり、白い薄布の天幕の下がスパのようにみえるサンデッキの写真を見て、「いつかはこんなクルーズも!!」という想いはあった。

その会社から、11月末出発のツアーを25パーセント値引きしますという手紙が、9月半ばに舞い込んだ。モロッコ旅行を1週間後に控えていたが、間に1ヶ月あることが確認できると、私はすぐに申し込む。この会社はなかなか優雅なリバークルーズを提供している。私は過去にセーヌ川をパリから河口のオンフリーにいくクルーズ(2010年8月)と、ロシアのヴォルガ河クルーズ(2016年6月, Vol. 2,3&4 )に参加したことがあり、スミソニアンの次に好きなツアー会社だった。ロシアの時は、私は2回目のお客さんということで、部屋に白いバラが1ダース生けてあった。そういう会社(社長が女性)。

もちろん、一度はピラミッドを見ておきたいという気持ちも強かった。早速エジプトの旅行書を2冊買って、読み始めると11月から1月が一番気候的にいい時期とある。ラッキー! 9月末からのモロッコ旅行は、12泊のツアーの後、ジブラルタル海峡を渡って、かなり寄り道をしたので、ニューヨークに戻ったのは10月15日。それから約5週間でまた旅に出ることになるので、今回はツアーの後、カイロ滞在を3日延長しただけで、他の寄り道無しの2週間の旅となった。飛行機の予約よりも大事なことは、ビザ取得。ユニワールドが勧める会社を通して申し込むのだが、これだけは間違いないように、細心の注意を払って手配。

行く前に一応勉強

モロッコから帰って4週間、2冊のエジプト旅行書をつまみ読みしたが、出発前までにほんの基本的なことしか頭に入っていなかった。見る前に深く勉強することは、私は苦手。

基本的な知識とは:
• 有名なギザの3つのピラミッドは、カイロから見えるくらいの近距離にある。カイロはナイル・デルタの3角形の頂点に位置する。
• 古代エジプトはそれまでに私が行ったギリシャ、トロイ、クレタなどより、ずっと古く、5千年の歴史があること。
• 古代エジプト史は大きく3つの期間に分けられ、古王国期Old Kingdom, 中王国期Middle Kingdom, 新王国期New Kingdomと呼ばれる。新王国期ですら、1580年BCから1085年BCで、この頃にエジプト王国時代のピーク時は過ぎる。そのあとアレキサンダー大王に征服される333年BCまでは、いちおう王朝とはいえども、純なエジプト王朝ではなくなり、近隣国とのいざこざでさらに弱体化する。何れにしても、エジプト古代史は他とはくらべものにならない古さなのだ。しかもギザのピラミッドは、4500年前の古王国時代の建造物だから、もっと驚く。
• 古王国期以前にも、王国は存在したが、紀元前3100年頃ナイル河の上流の王国と下流の王国が統一されたことを持って、古代エジプト史の始まりと歴史学上なっている。

前回までの記事

vol.9 モロッコ旅行初めてのアフリカ国2018年9月
vol.8 パリと南仏の旅 2015年5月
Vol.7 オーストラリアとニュージーランドの旅2017年10月(下編)
Vol.6 オーストラリアとニュージーランドの旅 2017年10月(上編)
Vol.5 アイスランドの魅力 ベスト5」 2017年夏
Vol.4 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(下編)
Vol.3 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(中編)
Vol. 2 ヴォルガ河クルーズの旅 2016年6月(上編)
vol.1 アイルランドを往く

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ツアーの始まり

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カイロ到着の翌朝、全員がホテルの大広間で集合。全部で72人。その前のスミソニアンのツアーよりはずっと多数。家族連れも多いよう。2組に分かれて、それぞれガイドもバスも別。私はA組で、ガイドは色白の50代くらいのエジプト人男性サメー。ツアーのカタログにガイドは全員「エジプトロジスト」と書いてあった。彼は長い間(確か40年と言っていた)エジプトロジーの研究員だったと自己紹介した。

ツアーではいくつかのサイド・トリップを選択、希望できる。その申し込みを終えてから、バスに乗り、まずは町中へ。

第1日目は、時差ボケ、温度差もあるので、軽いスケジュール。カイロのイスラム地区と、絶対見逃せないエジプト博物館をザッと見て歩く。こうしてツアーはカイロから始まったが、ギザのピラミッドを見るのは、1週間のナイル・クルーズの後となっている。

ナイル渓谷をクルーズで観光 

カイロから空路でルクサーへ、ナイル河の河畔を上から見る

翌朝カイロ空港からルクサーに飛ぶ。私はその前の晩、ホテル内にある小さな本屋でナイル河の地図に考古学的に重要な遺蹟が記されているものと、古い順にリストされた王朝と名高いファラオ名が並んだ年表を買う。これから次々見るテンプルや墓所などについて、少しでも頭の中で整理できるように。

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ナイル河は世界1、2の長い川(アマゾン河と競っている)で、エジプト国土内では、南のスーダンとの国境から、北の地中海まで、四角の形をしたエジプトの国土の東寄りの3分の1あたりを縦断している。ルクサーという町はカイロから635キロ南に行ったところで、南の国境とは、ほとんど中間地点にある。
カイロ空港を飛び立ち、市街地を過ぎると下界の景色はすぐに、まっ茶色になる。砂丘的ではないが、全く草木のない荒野になり、その表面の形態はいろいろあったが、飛行時間1時間半のほとんど、この茶色地帯が続く。

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ルクサー空港着陸10分前にようやく緑の畑が見えた。かと思うとすぐに河も見え、しばらくすると、それが大きくカーブして、両サイドが緑の畑になり、中洲の緑の島も見える。もう一度河を横切って、左(東)岸にあるルクサー空港に降りる。

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ガイドのサメーがナイル河は「文明の父」どころか、ナイル河が「この国のすべての源」と説明したのが、少し理解できた。この国の国土は全く乾燥した砂漠地帯で(カイロの年間降雨量は25ミリ、6月から10月まではゼロ)、その中をナイル河がすべての生き物が必要とする水を運んできてくれるから、人間を含めてすべての生命が生存できているのだ。

ルクサー市の古代名はテーベ、 カイロから635キロ、上流(南)に行ったところ

ルクサーという市名は紀元後10世紀くらいに、イスラム教が浸透した頃からの名前、古代エジプトでは“テーベ”と呼ばれていた。

ルクサーからクルーズ船に乗って、1週間の船旅をする予定なのだが、まずはルクサー空港からバスで、ここで一番有名なカルナクというテンプルに行く。

最初の見学は圧倒的に巨大なカルナク神殿

カルナク神殿は、私が買ったLonely Planet旅行書エジプト編の見どころ第一位(第2位がギザのピラミッド)。私はこの観光案内書を読むまで、この名前を聞いたこともなく、全く知らなかった(私の古代エジプトに関する知識は高等学校で止まっている)。ここに来る前に詰め込んだ私のエジプト史の基本知識にも、入っていなかった。

ここは古代エジプト一の宗教センターであり宮廷。巨石柱のテンプルで知られている。エジプト古代史はナイルの上流王朝と下流王朝が統一されて始まったと書いたが、古王国時代は、首都はカイロのデルタ地域にあるメンフィスだった。中王国の時代になって、全エジプトが再統一されたとき(‘古’と‘中’の間で国情が乱れる。第一中間期という)、中心がこのルクサーに移動した。そして、数多あった神々の中でもアメン神の勢力が強くなり、それを祀るためにこの神殿建設が始まる。年代としては、建設開始は中王国の11期(紀元前18世紀)だが、ほとんどの建造物は、新王国時代、紀元前15世紀から13世紀に、何人ものファラオが建て増しして、超大な宗教センターとなる。

イスラム教侵入以後19世紀まで、崩れて半分砂に埋もれていた。

パイロンという神殿の塔門

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切符売り場のある建物から敷地内に入ると、遠くに日干しレンガで造られたような巨大な茶色の建造物が並んでいるのが見えた。パイロンと呼ばれる門構え(辞書には「塔門」とある)だった。このような巨大建造物が、ここには全部で6つあり、これが1番目。その門までの中央参道には羊のスフィンクスが2メートルおきに100メートルくらい続いている。パイロンは日干しレンガを積んである。羊は砂岩を彫ったものらしい。

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第1パイロンの内側は大広場で、羊の参道は続き、次のパイロンとその奥にかなり背の高いコラムが並んでいるのが見える。私たちは説明を聞きながら、羊の前を通り、第2パイロンに近づくと、両側に10メートル以上の高さの横向きのファラオの立像がある。紀元前13Cのラムゼス2世の像で、右側の像は右足を一歩踏み出した姿。左側のは両手を胸でクロスしている。こういうポーズはエジプトのファラオ像によく見られるもので、右足を踏み出した像がファラオの生存中に造られたもの。手を胸に当てているのは死後造られたものだという。初めて見る立像で、その大きさに圧倒される。

神殿の中心ハイポスタイル・ホール

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第2門の内側に入り、コラムに近づく。中央参道は幅4メートルくらいの道、その両側に高さ20メートルもありそうな巨大円柱コラムが並んでいる。上から5メートル辺りで段があり、その上に何やら円盤のようなものが見える。円柱は直径3メートルくらいの太さで、1メートルの高さの円盤型石塊が積まれて柱になっているのがよくわかる(崩れたのを積み直してある。修復中、足りない部分はコンクリートで補っている)。前を向いても、右左を見ても、この巨大柱が並んでいる!この巨大な円柱は、全部で何と134本!もあるという!

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巨大円柱の林の真ん中で、サメーは説明する。ここは神殿の心臓部でハイポスタイル・ホールと呼ばれる。柱はパピルスの茎を束ねた形、てっぺんの円盤に見えたのは開いたハスの花だった。中央参道から入った列には蕾んだ花のものもある。柱は上に行くにつれて多少窄まり、柱の側面にレリーフ絵が描かれている。色は褪せているが、カラーだったことは間違いない。

柱と柱の間隔は3メートルほど。柱には土台になる4角の石が一番下にあり、そこに腰掛けてさらに詳しい説明を聞く。サメーは特に、ここは神殿の心臓部で天井があった部分だと強調する。そう言われて見上げると、天井の一部の巨石ブロックが残っているところもあり、そこにはカトーシュが見える。
カトーシュとはファラオの印で、細長楕円型の輪郭に囲まれた中には、絵文字があり、ファラオの名前を示している。ラムゼス2世など大ファラオは、自分のレガシーを残すため、ありとあらゆるところにカトーシュを彫らせているとサメーは説明する。

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彼はさらにこの心臓部分のホールの天井は全域巨石で覆われていて、ホールの中は真っ暗だったと説明。神が御坐すところだから、暗くするらしい。ここから想像するのは難しいが、明日行くことになっているテンプルにはもっと天井が残っていて、当時の美しく装飾された神殿の内部がわかると思うと言う。

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いやこの巨石柱の林の真ん中で、私たちはすでに圧倒され、これ以上のものを翌日見ることなど、どうでもよかった。

右奥に向かって歩き、「聖なる湖」を見る。僧侶たちが祈祷前に身を清めたところ。全て神への祈祷儀式用に設計されている。その先にも塔門がいくつかあるらしいが、心臓部より、後の時代に造られたらしい。広大な敷地で、炎天下、隅から隅まで見るなんていうことはできない。しかも、修復中のところが多い。崩れた巨大ブロックを元の形に戻すのは、大変な作業。

神殿の次はオベリスク

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一旦、中央参道に戻り、さらに奥に向かって歩くと、崩れた巨石ブロックの中にオベリスクが2本立っている。何代かのファラオたちが造らせた。特にハトシェプスートという女性のファラオの時(15世紀BC)に数本造られ、ここには計10本あったという。現在ここに残っているのは彼女のもの。高さ約30メートル。ナイル河のルクサーよりもっと上流の、アスワン近くに産出する赤グラナイト石が使われている。

数日後、私たちは製造途中で放置されたものをアスワンの石切場跡で見るのだが、グラナイトは硬い石。それを鉄以前の銅製工具でこれを作り上げた。その切り出し、運搬方法はもちろん、これを最終的にどうやって立てたかはいまだに、想像の域を出ない。立ててからレリーフの装飾を施した。そして一番先の尖った部分は金色に塗られ、毎日、山の向こうから、昇ってくる朝日が、一番にその金色の先に光り輝くように、デザインされているという。

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19世紀初頭の統治者モハメッド・アリは、「近代エジプトの父」などと、一般にはその功績が現在も認められている人だが、古代エジプトの文化遺産については全く価値を認めず、当時援助を押し付けてきた仏、英、米などの大国に、そのお礼として、これらオベリスクを贈呈(だから十本あったのが2本しか残っていない)したという。パリのコンコルド広場にあるオベリスクはルクサーのテンプルにあったもので、メトロポリタン美術館の後ろにあるのも、同様な状況でニューヨークに運ばれたそう。これで私の長い間の謎が解けた。

辺りは崩れた日干しレンガの建造物や、同じ茶色の大きな石の塊などの山で、このカルナクの遺跡修復作業はまだまだ半分もいっていない様子が伺われた。

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その日はまだ暑く、朝は4時起きだったこともあって、ここの見学で私たちはすっかり疲れてしまった。
この巨大な石のモーニュメントは、「美しい!」という、または「美しかっただろう!」という感激もあった。しかし精神的にもっと圧倒された。この巨大な建造物を4千年も昔に、かなり原始的な道具で造った人々のことを考えると、うなされそうだった。

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誰が造ったか?

私がエジプトのピラミッドを観に行くと娘に言うと、だって、あれ奴隷が造ったものでしょ?と言う(だから彼女は興味ないと言いたげだった)。私はこの会話前に旅行書をもう少し詳しく読んでいた。以前はそう信じられていたが、最近の調査(近くに集合住宅的なものが発見され、発掘された)で、農閑期の農民と、かなりの数の専門職人たちによって造られたという説に変わってきている。奴隷が造ったという先入観には、多分にハリウッド映画の影響がある。特に映画「十戒」。チャールトン・ヘストンが演じるモーゼが、100人くらいの奴隷が綱で引く巨石の下に潤滑油をさす老婆(これが映画ではモーゼの母親とわかる)を助けるシーン、思い出す!

ナイル沿岸の特殊な自然環境

この国家的大プロジェクトを可能にしたのは、ナイル河沿岸の特殊な自然環境があったから。まず、エジプトの1年は3季節しかなかった。河の水はもっと南(上流)の赤道近くで降る熱帯雨が源。雨季には水はナイル流域から溢れ、アスワンから北(下流)は7月から徐々に、辺り一面大洪水になっていった。9月には雨季も終わり、11月には水が引く。その後、種まきが始まり、3月から収穫になる。
このサイクルだったので、洪水期間中、農民は農耕ができず、ファラオへの税金の代わりに、ピラミッド建設などに従事したというのだ。ファラオは彼らに衣食住を与え、特に食事はよく、農民らは喜んで労働力を提供したという記録もあるらしい。
またピラミッドの巨石ブロックやオベリスクも、洪水期に水を利用して運搬。さらに運河などを作り、近くまで運んだだろうと言われている。そのあと地上でどう運んだか、どうやってピラミッドの頂上まで巨石ブロックを運び上げたかなどは、まだ完全にはわかっていない。
この途轍もない大きさ、途轍もない古さ、考えるだけで疲れてしまった。

クルーズ船、トスカに乗り込む

トスカという名前のクルーズ船に乗り込む。ユニワールド所有の船で、ナイル・クルーズ船のうち、一番大きいというが、小さめの船だった。乗船したのは私たちのツアー参加者72名だけというのがいい。
乗船手続きは、暑さでボーとした中で行われ、サンデッキはカタログで見た通り、スパの準備ができていたが、涼しい部屋に入るとすぐにお昼寝。そして夜ご飯。
クルーズはいい。これから1週間、荷造り、荷解きをしなくていいし、食べるものも飲むものも、いつでもいっぱい用意されている。

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2日目はデンダラ神殿を見学

翌日も朝は早く、7時にバスで出発。その日の目的地デンダラというテンプルはルクサーより下流(北方)にある。普通はこのクルーズ船で乗り付けるらしいが、11月末ともなるとナイル河の水位が低く、クルーズ船のような大きい船では行けなくなっているという。バスで行き着いたところはクエナという町の近くで、どうも前日、飛行機から見た、ナイルがぐうっと湾曲しているところのようだった。

神殿内のハイポスタイル・ホール

ここのテンプルは時代的にはカルナクより千年以上新しく、紀元後グレコ・ローマン時代、プトレマイオス王朝期のものだった。その後、19世紀まで砂に埋もれていたので、天井石が残っているし、レリーフ絵のカラーも鮮やか。

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前日、カルナクで、サメーが説明した通りだった。巨石円柱の上に同じような巨石ブロックの天井が乗せられ、ホール内は暗かった。

ここはハサーという女神の守護寺。ハサーは愛、快楽、文化の神で、頭に太陽を象徴する円盤と牛の角を掲げている。

カルナク・テンプルと同じように、建物に入ってすぐのハイポスタイル・ホールには、巨石円柱が並んで立っている。全部でたった18本だが、ここの石柱の最上部には、昨日のハスの花の代わりに、柱4面にハサーの顔が彫られている。3角形の顔に小さい牛耳がつき、頭に水色の縞が入ったヘッド・スカーフをかぶり、両端が耳から下に垂れている。その部分がふっくらと厚く、立体的に彫られているので、インパクトがある。

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そして確かに天井が全て巨石ブロックで覆われ、そこには翼を広げたタカのモチーフの連続模様とか、天を司る女神の長―く伸びた絵が描かれている。

(下の写真は顔と手の部分を拡大したもの)柱のハサーの顔の下にはエジプトらしい儀式の絵が描かれている。かなり綺麗な水色が残り、天井石にもタカの連続模様のボーダーにも使われている。装飾は水色に統一されているらしい。

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神殿の心臓部は神の住居であり、僧侶たちが祈祷したところ。だから真っ暗にしていたそう。そういえば、オペラ「アイーダ」の第3幕で、反逆罪に問われたアイーダの恋人の判決を、僧侶たちが祈祷して神にお伺いを立てるシーンは、巨石で囲まれた真っ暗な神殿の中だった。

少し薄暗い神殿部の中を上を向いてウロウロ、写真を撮りながらホールを過ぎて、歩き進むと、両側に個室がある。祈祷室のよう。

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ここには地下室もある

この神殿には、地下室がある。多分そこが死の世界、ここでミイラ造りの作業が行われたのではないか? 英語ではクリプトと書いてあるので、ファラオの遺体保管場所だったのかも知れない。ぐるりと3辺に続く石の階段を降りると。地下には6畳くらいの部屋が二つあり、1メートル幅の廊下でつながっている。全ての壁が象形文字を含むレリーフ絵で覆われている。それもかなり硬い石が使われているのがわかる。ここのレリーフ絵は素晴らしかった。カトーシュもいたるところに見られる。

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このあと、今度は建物の2階に行き、天文ゾディアックの天井レリーフ画を観る。有名なもののコピーで、本物(もっと大きいという)はルーブル美術館にあるという。

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国宝的なものを、19世紀にフランス国に取られた過程には、いろいろ逸話が残っているよう。次回パリ訪問では是非見たい。

唯一のクレオパトラのレリーフ画

次に屋上に出る。建物の反対側にある外壁のレリーフ絵を見るために。有名なクレオパトラが描かれている唯一のものという(カトーシュで判明)。このスリムな姿、そしてシーザーとの間にできた子、シザリオンも描かれていると旅行書に書いてあり、期待したが、足元の4分の一のサイズの絵がそれだった。エジプト古代の彫刻でも絵でも、よく子供が描かれているが、どれもサイズが誇張されて小さい。でも微笑ましくていいではないか?クレオパトラの前に立っているのはシーザーではない。これはファラオ。ナイル上流・下流を統一したファラオの2重王冠をかぶっている。

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ランチとお昼寝の後は、パピルス画廊へ

この後船に戻り、ランチとお昼寝。夕方4時ごろから、ルクサーの町中にある、パピルス画専門ギャラリーへ。その辺の土産物屋で安く売っているパピルス絵はみな偽物で、多分バナナの葉のものだという。本物を見に行く。

ギャラリーの中には額縁に入った大、中、小のパピルス絵が、全ての壁に、ところ狭しとかかっていた。これらが本物とすれば、パピルスというのは土産物屋で見るものより、もっと茶色く厚みがある紙らしい。

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まず、奥の方でパピルスからどうやって紙を作っていくかのデモ。葦のようなパピルスの植物は、エジプト博物館の前庭の池にあった。説明によると、植物としてのパピルスは王家専用で、栽培は独占されていたという。だから、イスラム侵入以降、王家と共に絶滅したという。近年になって、国中を探し回った結果、やっと細々と生えているパピルスが見つかり、再栽培が始まったという。ちょっと信じられない話。

パピルスの茎は1メートルから2メートル。茎の断面は2センチくらいの3角形。それを15センチくらいの長さに切ったものがデモ台の上に置かれていた。説明する男はその緑色の皮をナイフで剥き、厚さ1ミリくらいの短冊にスライスする。その状態で水に5時間くらい浸けておく。パピルスの製紙過程には、人工的なものは一切使っていないと男は強調する。パピルスはサトウキビの一種で、多すぎる糖分を水に浸して抜くのだという。次は何時間も水につけてあったパピルスのスライスを、マットの上に少し重ねて横に並べていく。次は縦に同じように並べる。その上にもう一枚マットを乗せて、これをプレスに挟んで水を切り、乾かして出来上がり。自然に含まれた糖分が接着剤の役目をするという。色は白っぽいキナ色。自然のものだから、時間が経つと茶色になるのもある。その上に白や金色などの絵の具を塗ってから、絵を描く。これが5千年も前から記録のために使われてきた紙だったと、しかも、近年までの二千年くらいは、絶滅寸前だったという。ピークを過ぎ、失われた文明とは、こんなものか? 感慨深いものがある。

古代エジプトには「書紀」という立派な職業も確立していて、王家と宗教的行事の全ては、象形文字で記録された。おかげで30期まで続く王朝の全ファラオの名前と、第3期王朝以降はその年次も私たちは知ることができる。それぞれのファラオは独自のカトーシュ(数個)を持ち、その印を残している。その莫大な量のパピルス紙に書かれた記録は、プトレマイオス朝時代にアレキサンドリアに、建設された大図書館に集められ、保管された。ところがこれがいつの時代かに焼失してしまった。集中しなければ、もっと多くの記録が残って、もっと多くのことが読み解かれたはずという。何とも残念な運命!

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エジプト博物館で見た「書記の像」

パピルス作りのデモの後は、もちろん商売。私たち観光客も、何か買おうと鵜の目鷹の目。私は70x30くらいの横長の、死後の世界を描いたものを買う。葬儀を取り仕切る狼頭のアヌビス神が、遺体から取り出した心臓と羽根を計りにかけるところ、また左の端にはアカシアらしい花が咲いている灌木が気に入った。色も全体が落ち着いた優しい卵色、それに白とブルーが多く使われて明るい。これが絵だけで約100ドル。いい記念品になりそう。10年くらいは壁にかけて、この旅を思い出そう。

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夕陽を背景にルクサー神殿

この後、ルクサー市でカルナク神殿の次に大きいルクサー神殿に行く。
ルクサーは中王国時代に首都となり、第2の不穏な「中間期」を過ぎて、16世紀BCに始まった18期目の新王朝の首都として黄金時代を迎える。9代目のファラオ、アメンホテプ3世によりここの建設が始まる。
後の19期王朝のラムゼス2世は、ここに沢山のモーニュメント的なものを残した。またアレキサンダー大王が来たという記録もある。その後、ローマ時代には忘れられ、砂漠からの砂と氾濫する河から沈積土で埋もれ、台地になったところに、イスラム教徒たちの村ができ、このテンプルの一部はモスクになったりした。19世紀末にヨーロッパ人による、発掘作業が始まった時、最初の仕事はこれら村やモスクを取り壊し、取り除くことだったという。

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このテンプルはルクサーの町の真ん中にあり、ナイル河にも近い。前日に見学したカルナク神殿から、羊のスフィンクスの像が両脇に並ぶ参道で繋がっていた。その長さは2.8キロで、ほとんどが砂に埋もれていたが、現在両テンプルの近くは整理されている。が、その間の参道の発掘はまだまだの状態。

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夕陽に映える、そのうちにライトアップされたテンプルを見て歩く。スタイルとしてはカルナクとデンダラと同じようだが、建設された時代の違いで少しずつ違うところがある。
またラムジス2世のカネシュの戦いというヒクソスとの戦いの様子が壁画になっている。

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ラムゼス2世の10メートルくらいもありそうな坐像がここでは有名。このファラオは後世までその威名を残した人。長い古代史も時代を下がった紀元前13世紀のファラオだから、遺したものも多ければ、遺っているものも多い。特にこうした、彼の立像(カルナクにもあった)、坐像は多くある。

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また1本立っているオベリスクは25メートルの高さでピンク・グラナイト製。2本の対になっていたが、1本は現在パリのコンコルド広場に立っている。

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長い歴史の間にはいろいろなことが起こる。
私たちは暮れ行く空を背景に3度目の巨石柱の列を眺めた後、船に戻る。

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夕食後はベリーダンスと、全てをクルクル回す男性のダンスが披露される。

翌日は対岸にある王家の墳墓群を観に行く。

ナイル河の西岸、新王国期のネクロポリス

西岸の意味

対岸というのはナイルの西岸で、古代エジプト人は太陽が西に沈むのを毎日観察して、その向こうが死の世界だと信じた。だからほとんどの墳墓、葬儀用建築物はナイルの西岸にある。現在、河岸から数マイルは灌漑で配水して農耕地になっている。西側の奥には高さ5、600メートルの乾燥し切った丘陵が連なる。その一つの頂点が3角形でピラミッドに似ていることから、ここが新王朝期のネクロポリス、集団墓地になったという説明。

ギザのピラミッドは2500年B C、王陵の谷は1500年BC頃から。ここに移した理由としては、ピラミッドではあまりに墓泥棒に荒らされて、あれだけのものを造る意味がなくなったからという。また王朝の首都も中流のテーベに移された。墳墓はここでは岩山を奥深くまで掘ってできている。ツタンカメンの墓もここにある。

その朝は6時から気球乗りに出かけた人が10人位いて、彼らの帰りを待って、まず顔がぐしゃぐしゃの壊れた巨大な二つの坐像の説明からはじまる。

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ハトシェプスートの葬祭殿

王陵の谷に行く前にハトシェプスートの葬祭殿を観る。遺体から、正式なミイラに仕立てるには時間がかかるので、山近くの墳墓に収める前に、こうした葬祭殿に安置されたらしい。ラムジス2世のものも近くにある。

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ハトシェプスートの葬祭殿が一番立派。間口100メートルもありそうな建物が河と岩山の間の中腹に東を向いて立っている。特徴的な前面に並ぶ角っぽいコラムのこの建物は、前々日行ったカルナクからも見えた。そう、彼女のオベリスクが立っているところから。この建築デザインはとても近代的に見える。
彼女はエジプト古代史(古、中、新王国期)の唯一の女性ファラオ(1504年から 1484年BC)(18期王朝)だったという(未亡人でなった場合を除いて)。風当たりが強かったことは、大いに想像できる。
それで彼女は自分は女性ではないという神話を自ら創作して、存在の正当性を主張したという。船団を組んで紅海を南の国、プント(現在のソマリア?)まで行っている。そこから持ち帰ったという植物と同じものが中央階段の前に植えられていた。

建物は3階建てでなだらかな中央階段を登ってまずは2階へ、そして3階へ。遠くから見えた角っぽいコラム(縦長の窓が切ってあるように見えた)の前には、彼女の立像が立っている。欠けたところもあるが、10体くらいはある。女性でもファラオの象徴のつけ髭をして、王冠をかぶっている。その顔はふっくらとして、大きな眼と優しい表情で、女性的な美しさが発散している!と私は思った。

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ここの神殿の壁と天井のカラーのレリーフ絵も素晴らしかった。遠征したプントという南方国の植物、動物、賜物などが大胆に描かれている。天井はコバルト・ブルーに5本の金色の針が出た星がいっぱいの夜の空。

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宮殿全体に女性的な優しさが感じられる。嬉しいことだ。建物見学の後、私は東からの強い太陽の光を浴びながら、中央階段をゆっくり降りる。対岸まで視野を遮るものは何もなく、さらにその奥の靄の中に見えるオベリスクを確認して、この3500年前の女性ファラオの成功を想い、晴れやかな気分になる。

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私はニューヨークに戻ってから、メトロポリタン美術館のエジプト展示(世界有数)を見に行った。なんとここには彼女の像がいっぱいあった。理由は、ラムゼス2世のとき、彼女のものを徹底的に破壊する命令が出され、その時に壊された像などの捨て場を、20世紀にこの美術館からのチームが発掘したからだった。

王陵の谷 Valley of the Kings

次にいよいよ「王陵の谷」と呼ばれる地域に入る。ハトシェプスートの葬祭殿の後ろ側に位置している。まずは入り口の案内所で、半透明のプラスチックで作られた3D模型を見る。地面下も作られているもの。まるで分譲住宅地の地図ように、中央道からいくつもの筋道があり、60以上の墓所が点々と散らばって存在する。模型の下を覗くと斜め下に細い管のようなものがいくつもあった。その時はよく理解ができなかったが(というのも、墓所がどういう構造になっているのか、全く無知だったから)、墓の入り口から地下に長く深く掘られた棺安置室への通路の模型だった。

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何でも写真に収めておくと後になって、ああ、そうだったのかっと合点が行くことが往々にしてある。こういうツアーはその位、情報量、歩行距離があり、また想像もしてないこと、ものにぶつかるが、そればかり考えているわけにはいかず、内容を噛み砕くのは後回しになる。そういう時に現代はiPhonesでどんどん写真に収めておけるというのは、旅の体験を密にしてくれる。ここもその一例。

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入り口近くのラムジス2の息子たちの墓所の前で、サメーから敷地内がどう広がっているのかとか、またこういった図解の読み方、また60いくつかあるお墓のうちどれがオススメで、見どころはどこかなどの説明を受けてから、後は自由行動。

セキュリティーを通過して、特別料金を払ってもっと見たい人はここで切符を買う。私たちの一般切符で3つまで見ることができる。

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頂上の3角形ピークがピラミッドに似ていると言われる

発見された順番にK V(King Valley王陵の谷)xxと番号がついている。最初の10くらいはいつの時代からか、オープンになっていた。

ツタンカメンはKV62で62番目(ごく最近までラスト・ナンバーだった)。発見は1922年のこと。ハワード・カーターという英考古学者とスポンサーの英貴族が最初に墓内に入ったが、そこにつながる階段を発見したのは、労働者に飲み水を売り歩いていた少年だという。発見されたものはほとんど全て、カイロのエジプト博物館に納められているので、ここの見学はオススメではなかった。

私は比較的近くのオススメの3つに入る。

【1番目はKV16】ラムジス1世の墓。1817年にベルゾニという考古学者といかさま師の間のような人が発見。美しい壁画で知られている。入り口から5、60メートルのくだり坂の通路がほとんど直線についているが、最初の20メートルくらいの両壁はプラスチック板で覆われていた。いつの時代かの大洪水で浸水して、被害を受け、脆くなっているからという。左右、天井に壁画が描かれている。白や黄金色の下地に空色、白、黒、茶色、赤などでカラフル。狼頭の葬儀の神、アヌビスと埋葬されているファラオの大きめの絵も多く、タカの翼など、すでにカルナクやデンダラでも見て、その頃までにはお馴染みになっていたモチーフが繰り返し、繰り返し出てくる。

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一番奥は20畳くらいの部屋になっていて、そこに石のお棺が置かれている。お棺は硬いグラナイト石のもので、その上にラムゼス1世の像が乗っている。部屋は壁画なしの剥き出しコンクリートのような壁で殺風景だった。

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【2番目はKV14】セテナクとその王妃の墓所。ここはその長い通路から、奥の部屋まで壁画が続き、よく保存されていた。

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一番奥のお棺が安置された部屋には2つのお棺があり(ファラオと王妃)、ゴールド地にカラフルな壁画が描かれている。

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墓によって、色がよく残っているもの、レリーフ画の保存程度も違うが、素晴らしい。どれもその数、大きさはすごい。埋葬されているファラオの実力が、反映されているのだろう。彼らは就任後、直ちに自分のレガシーを如何に残すかを考え、プロジェクトをスタートさせたのだろう。レガシーというより、古代エジプト人は死後も人生が続くと考えていたから、彼らは如何に永遠に美しい生活が維持できるかを考えた。

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【3つ目はKV2】出口に近いラムジス4世の墓所。この日もかんかん照りの暑い日で、午前中といえども、30度を越していた。その中を全く乾ききった、そして日陰のない(私は日傘をさしていたが)分譲地道路を行ったり来たりするのは、大変。しかし、ここも観る価値は大いにあった。

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3つの墓所を見て、どんなものか、大体の感じはつかめた。この日もまた暑かったこともあるが、観たもののスケール大きさ、その数の多さ、壁画の素晴らしさなどに圧倒され、私たちはすっかり疲れてしまう。帰りは橋まで戻らず、トスカが停泊している反対側地点から小さいボートでナイル河をクロスして、船に戻る。

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私たちが乗船すると、船はすぐに出航。アスワン市まで、かなりの距離を上流に向かって移動しなければならない。間に初めてのロックがある。夜中になるが、小舟に乗った物売りが来るという。

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私たちはランチ、シャワー、お昼寝とワインディングダウン。今日もすごいものを見たという満足感にひたりながら。

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船は一晩かけて上流のアスワンへクルーズ

翌朝目がさめると、船はまだ動いていた。私のキャビンは後ろから2番目でエンジンに近く、かなり音がうるさかった、が、まあ熟眠には関係なかった。朝食を食べている頃にエンジン音は止まり、どこかに停泊した。8時45分に下船して、20分くらい河に沿って歩いて、コム・オンボというテンプルにいく。

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グレコ・ローマン時代のもので、クレオパトラの時代を含む。ワニの神様とワシの神様が祀ってあるという。サメーはレリーフ絵を前に、如何にこの時代の絵は今まで観たものと違うかを説明する。顔つきの体つきも違うのだ(ローマの影響)。

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ワニもワシも人間より優秀な能力を持っていると崇められていた。帰りに横にあるワニのミイラを30体も集めたミュージアムを覗く。つい最近までワニはナイル河に沢山いたが、今は河にはいないという。アスワン・ダム建設でできたナセル湖には数万匹いるという。恐ろしい。

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船に戻って、出航。2、3時間で目的地のアスワン市に到着。エジプト国の南の端に近い。

アスワン市に到着

何か雰囲気が今までと全然違う。明るい感じだし、川幅が狭まり、太い川が1本ではなく、河の真ん中に島がある。その後ろにはきれいな黄土色の山並みが見える。砂丘の感じと思ったら、サハラ砂漠がそこまで来ているという。
アスワン市はカイロの次に大きい都市。現代はアスワン・ダムでこの地名は世界中に知れ渡っているのだが、この地を古代エジプト時代から名だたるところにしているのは、ここがナイルの第1番目のキャタラクトがあるところだから。

第一キャタラクト

旅行書にはナイル河には6つのキャタラクトがあると書いてある。5つはエジプト国外の上流。ここが第1番目で、エジプト国内では唯一のもの。
この「キャタラクトCataract」という単語は、アメリカ人にとっては「白内障」のことなので、誰もが(少なくとも私たちの年代の人は)知っている単語。辞書を引くと2番目の意味として大滝とある。えっナイル河に滝?と旅行書の説明を読んだ時から、私にとっては謎だった。

船を降りて、フェルッカという最もナイルらしい光景を作り出す、細長い3角形の帆がついた、ボートに乗る。長さ10メートル位で両側にベンチが取り付けられ、船首にも座れるようになって、いつものバスAのグループが全員一緒に乗り込む。

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両脇には岩が多く、まずは南方向、上流に進む。水は静かで、フェルッカはミズスマシのようにスイスイと水を切って進む。右側のかなり大きな丸っぽい大岩がゴロゴロしている島はエレファンタイン(象の島)と呼ばれ、太古の時代から、象牙の取引が行われていたという。大岩の後ろにはヤシの木や緑の葉をつけた木が沢山生えている。また石ころの上には茶色の砂丘が見えた。地図で見ると、ウェスタン・デザートと書いてあるが、サハラ砂漠の一部なのだ。アフリカ大陸の北3分の1を横断しているサハラ大砂漠は、私がラクダに乗ったモロッコの砂丘が西端で、東端はこのナイル河まで続いているのだ!

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舟の中で説明をする地元のガイドに「キャタラクト」とは何か?と質問すると、英語でラピッド、早瀬というようなものを指すと言う。実物を見せたかったようだが、辺りにそれらしきものはなく、そのままになる。

辺りには、集落もあるよう。ここから南(上流)は、太古の時代からヌビア人が住んでいた地域で、60年代のアスワン・ハイ・ダム建設のため、強制移住となった。移住先は広範囲に渡っているが、アスワン市は観光客が多いところなので、多くがこの付近に移住した。船関係(漁業と観光業)の仕事は皆ヌビアンがやっているという。

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アスワン市の雰囲気が今までと違うもう一つの理由は、ローカルの人々の肌の色が、ダーカーなこともあることに気づく。笑うと白い歯が目立つ濃い茶色。それだけでなく、笑い方が違う。アフリカ文化の笑い方なのだ。あっけらかんと陽気なのだ。そして子供達は魚のように泳ぐのが上手。

ふっと誰かが気づくと、10歳くらいの男の子が私たちのフェルッカ・ボートの外側に掴まって、スイスイとタダ乗りしている! サーフィング・ボードのようなものに乗って。

ボートの中では大人のヌビアンたちが、村で手作りしたという派手なアクセサリーやスカーフを売っている(アクセサリーは皆中国製だった)。

アガサ・クリスティが執筆のため滞在したホテル

30分くらいフェルッカ乗りを楽しんだ後は、東岸に戻り、アガサ・クリスティーが長期滞在して、「ナイルの殺人事件」(1937年刊)を執筆したというホテル、オールド・キャタラクト・ホテルの船着場で下船。このホテルの庭でハイ・ティーを楽しむ趣向。

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ボートを降りて、丘の上までの緩やかな階段を登っていくと、周りの景色がよく見えてくる。陽が西に傾き、ナイルの黒っぽい青の水と、幾艘ものフェルッカのスラリとした白い帆が見え、ヤシの木が多く植えられ、対岸は砂丘色の山並みが波打ち、稜線にアカ・カーンの霊廟の丸い屋根の建物が見える。

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このユニークな光景!今までに見たことのない風景画の要素の組み合わせ!つまり、近くにある木はヤシの木、河の流れはゆったりして、フェルッカの帆が幾つもあり、遠くには全く木が生えていない砂丘の低い丘陵が続き、頂上にイスラム風建物! それらが澄んだ夕方の陽の中に、静かに佇んでいる。思わず、iPhonesで写真をいっぱい撮る。

これがその一つで、私がその時に体感したアスワンの雰囲気がとてもよく出ていると、誇らしく眺めていた。後で気がつくと、D Kという出版社のエジプト旅行書の表紙の写真とほぼ同じだった。ほとんど同じところから撮った写真なのだ。どこにでも独特の景色というのがある。この景色はナイル河でも、アスワンの特徴的シーンだった。

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ホテルの庭でのハイ・ティ―は、大したことはなかった。それほど丁寧に作ったケーキやキュウリの一口サンドではなかったし、お茶も普通のと変わりなかった。まあロンドンのケンシントン・パレスのハイ・ティーだって、特別のことはなかったことを考えると、それは当たり前。21世紀なってみると、差がつけようがないような食べ物なのだ。

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だが西側の砂漠の丘陵の後ろに、黄金色の陽が沈むのを見ながら、乾いた涼しいそよ風を日焼けした肌に感じながら、アール・グレーのお茶を楽しむ!アガサ・クリスティーの頃のイギリス貴婦人のように!こんな贅沢をしている!

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当時はカイロから蒸気船で、3週間もかかってここまでやってきた。このホテルも、クルーズも、19世紀半ばに皆トーマス・クックが開拓したグランド・ツアーの一つだと言う。大英帝国の華やかな時代のことを想う。

だんだん暗くなると、フェルッカの帆は独特のシルエットを作り、ああ、エジプトまで、それもアスワンまで来ているのだと感激は続く。

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アスワンの古代の石切り場

次の日はアスワン近辺の見学。まずはカルナクのテンプルなどで見たオベリスクの石切り場。そこに未完成のオベリスクが横たわっているという。町の中心からそう遠くないところにある。この辺りは赤いグラナイトが古代からの特産品。オベリスクだけでなく、巨大な坐像、立像などにはこのグラナイトが多く使われている。近くでみると、今流行りのキッチンのカウンタートップに使われている石だ。

石切り場でバスを降り、未完成のオベリスクまで、少し登って高台に上がる。するとまるで巨大バスタブの中に横たわっているように、オベリスクが、すでにそれらしき形で横たわっていた。長さは41メートル。上面、両横面はすでに平らに削られ、下面も両脇から半分くらいは掘り進んだように見える。あと少しで切り離せるくらいまで、90パーセントは完成した感じだ。両脇面、下面には、磨く作業用スペースが周りに30センチくらいある。これも石を削って掘られている。放棄された理由としては、ここまで来て、石に割れ目が出たとか、どこかに傷が発見されとからしい。アスワン市街地のそばにあるのだが、周りは石山。

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本屋で19世紀のイギリス人スケッチ画家の本を買う

この稀有な古代の石切り現場を見た後、バスに戻るには、例によって、土産物屋が50軒くらい並んでいる商店街を通らないといけない。商人たちは商品を手に、私たちを待ち構えている。目を合わせないように、通り抜けないといけない。

でも今回はサメーがここにまともな本屋があると教えてくれたので、私を含めて多くの人がそこに立ち寄った。5分くらいしか時間がなかったが、私はここで2冊の本を買う。一つは「エジプトのアートと建築」で15センチ4方位の小版の本だが、厚みが3センチ弱。写真が多く、重たいのが難だが、権威ありそうな内容だったし、エジプトのモーニュメントを理解するには、この位の本が必要と買うことにする。

もう1冊は奥の方から戻ろうとしたとき、偶然見つけたもの。こういう丁寧に描かれた一時代前のスケッチ絵をあっちこっちで見かけて、惹かれていた。ペーパーバック版と都合よく、48ページのスケッチ絵は興味深そうだった。
実はこれは有名な本だった。アーティストはデイヴィッド・ロバーツというイギリス人。「エジプトの旅」という題で、彼が1838年から11ヶ月エジプトを旅した時のスケッチ画集。(ドラクロアがモロッコを旅したのは1832年、英仏のブルジュアは足並みを揃えている! 私のVol.9 モロッコの旅を参照下さい)

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すでにフランス、スペインなどへ旅行し、旅先でのスケッチや油絵画家として確立していた人。まだ写真がなかった時代、西欧諸国では、異国の紀行文も流行ったが、雰囲気を出した風景画は人気があったよう。

この人のピラミッドと首しか出ていないスフィンクスもいいが、アブ・シンベルとかカルナクとかが、崩れて半分砂に埋もれている様子は実に興味深い。そのほかカイロのマーケットとか、女奴隷のグループがヤシの木陰で休んでいるところとか、当時の風俗を知ることもできる。遺跡の巨大さを強調するために多少、プロポーションには誇張があるようだが、当時の面影が伝わるとてもよい本だった。

注記
アスワンは北回帰線上にあり、古代ギリシャの数学者・天文学者エラトステネスは、紀元前230年にアスワンで行った天文観測結果から、地球の円周を計算。その計算値は驚くべき正確さだったという。

世界一のアスワン・ダムとナセル大統領の夢

その後はバスでアスワン・ダムを見にいく。ダムには二つあり、古いほうは1898年から1902年にかけて大英帝国が建設したもの。新しいものはハイ・ダムと呼ばれ、ナセル大統領が政治生命をかけて、1960年から1971年に建設される。これで(少なくとも当時は)国民全員に電気を供給することが可能になる。

ナセル大統領は1952年のフリー・オフィサー革命(これでエジプトは英国から独立)の中心人物で、大統領就任後の政策は社会主義的だった。彼は国民全員の義務教育を第一公約に掲げ、それには電気を国民全員に普及させる必要があるとした。彼はその資金繰りに、スエズ運河を国有化して、そこからの収益で、ハイ・ダムを建設しようとする。世界は冷戦中で、この大プロジェクトにソ連から技術援助を受ける。

ナセルの名前を聞くのも久々だった。考えてみると、1950年代は第2次大戦直後の世界情勢が大きく変わった時代だった。戦前からの列強国管轄の植民地では、内部からの革命や政治改革が起き、列強国は植民地を手放さざるを得なくなった。多くの国が独立した。当時エジプトのナセルだけでなく、インドのガンジー、キューバのカストロ、中国の毛沢東など、国民主義、社会主義、共産主義などを掲げた、革命的政治家が出現し、国民的英雄になる。同時に、有色人種の地位が多いに上がった時期だったとも言える。私の世代の人にとっては、正義が勝つという希望を持たせた時代だったと思う。

ナイル河のキャタラクトとは? 

20世紀初期に大英帝国が建設した古い小さい方のダムの上のハイウェーを渡るとき、下流側の川をみると、そこは石ころだらけで、ナイル河の水はその間を縫って流れている。葦のような草もいっぱい生えている。
ここで私は前日に書いた「キャタラクト」というものが、どういうものかを理解した。それは高い落差のある滝ではなく、あの地元のガイドが言ったように、英語ではラピッドともいうような、日本語なら早瀬、石の塊がゴロゴロしていて、舟の通行はもとより、水の流れも太い川幅でどーっと流れることができない地域のことなのだ。
川底が土とか砂岩なら、水の強い流れで大地が深く削られて、川の流れ筋が形成されていくが、アスワン近辺の大地はグラナイトなどの硬い石で覆われている。だから水の流れが妨げられている。白内障で水晶体に白い曇りがでて、見ることが妨げられるように。これをキャタラクトというのだ!とやっと謎が溶けた。

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ナイル河には6つのキャタラクトがあるというが、エジプト内ではここが唯一。19世紀末にイギリスがダム建設を計画したとき、このキャタクト地点が選ばれたのは、建設技術的にみて当然だった。

アスワン・ハイ・ダム

ハイ・ダムの上でバスを降り、ここでもまたその巨大さに圧倒されながら、説明板を読んでその仕組みを少しは理解しようとするが、難しい。
写真は撮ってきた。
また左側のナイル上流の地図は興味深かった。世界一長い河なんだから。水源はヴィクトリア湖とエチオピアの2つある。その正確な水源地でさえ、はっきりわかったのは、かなり最近のことらしい。

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アスワン・ハイ・ダムの建設

1960年代、アスワンのハイ・ダム建設で、ここら辺一帯が人工湖であるナセル湖の底に沈むことになった。ナセル湖は世界一大きい人工湖(少なくとも建設当時は)、どのくらいの大きさか? 何と比較したらいいのかわからないが、ハイ・ダム建設に10年かかった。ということは、もちろん巨大なダム建設にもかかったが、湖が水いっぱいになるのに、それだけかかったと説明を受ける。この説明をよく考えてみると、ダム建設中もある程度の水を下流に流さなければならない。そうしないとエジプトは文字通り干上がってしまう。ある程度下流に流しながら、同時に水を貯めるためのダム建設も平行して徐々に10年かけて建設していったということらしい。超大だということは理解。

文化遺産保護を世界に訴え、世界はそれに応える!世界遺産の始まり?

広大な地域が湖底に沈むことで、ヌビアンたちの住居、村の移動も大問題だったが、点在するファラオの墓所も問題だった。あの有名なアブ・シンベルもその運命にあり、世界中にアブ・シンベルを救おうというキャンペーンが起こった。

1964年のことで、私もよく覚えている。3300年も昔に造られた、それも巨大な芸術品というべきものを湖の底に沈ませてよいものか? このキャンペーンで西欧諸国は救済に立ち上がり、ユネスコを中心に技術的、財政的に援助して、移動させることに成功した。
「世界遺産」というコンセプトはその頃に、生まれたのではないか? 

新しい問題

この新ハイ・ダムにより、当時国民全員への電気の供給はできるようになったが、有史以前からそれまで、河が毎年沈積土と栄養を運んできていたが、それがなくなり、ナイル沿岸の農業の収穫率は下がっているという(これで原始の時代から、営々と続いてきた一年3シーズンのサイクルも終わる)。化学肥料で補っているという。
それを回避する方法はあったらしいが、技術援助をしたソ連の建設技術は、そこまでいってなかったという。また、数年前、エチオピアに大ダムが完成した結果、下りてくる水量が減少したという。ルクサーに着いた翌日デンダラに行くにも、クルーズ船では行けなかったのも、その影響らしい。

ヌビアン村

この後、船に戻り、ランチとお昼寝。3時ごろから、ボートからバード・ウオッチングをする。そしてその後、対岸にあるヌビアンの村に上陸して、家を見せてもらう。

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ヌビアという民族というか国は、古代からエジプトの南のスーダンを中心に存在した。新王国期あとの「後期王国期」の最後10期の中にはヌビアンのファラオもいた。太古からここは金の産出地域だった。古代エジプトのアートや装飾に使われている金は、皆ここから産出された金だったらしい。アスワンのキャタラクトのため、ヌビアとエジプトはそれなりに自国、自文化を維持できたのだろう。前日見た王陵の谷にあるお墓は新王朝の18、19、20期ファラオのもので、それ以降はヌビア人のファラオの墓所は、アスワン以南点々とあった。その中には湖の底に沈んだものもあるが、、高いとこのあったので遺っているのもある。

アブ・シンペルへ

翌日はいよいよそのアブ・シンベルに行く。追加料金315ドルを払って参加。私たちのバスA組からは60代の恋人同士の一組以外全員参加。
飛行時間30分。ナセル湖の上を飛ぶ。その広さに感心していると、飛行場近くになり、下降しているときにアナウンスがあり、左手にアブ・シンベルが見えると。私はラッキーなことに左手の窓側にいたし、すでにiPhoneで写真を撮っていた。だから、このすごいショットに成功する。

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前の日にクルーズ船内で一日中やっていたドキュメンタリー映画で、この移動の様子を見ていたので、感激だった。あの巨大坐像も小さいながら見えるし、半径を描いた壁の後ろの山は、このために造られたもの。それがどんな形だったかは、そのドキュメンタリーでもよくわからなかった。

小さな飛行場からバスで入り口に行き、そこからこの山の右手に回り、正面にアプローチすると、この有名な像の横顔が見えてきた。

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さらに歩いて前に立つ。坐像は4つ、全部これを造らしたラムゼス2世の像で、一つは顔部分が崩れている(27年BCの地震で崩れ落ちた)。ファサードの高さは33メートル。 ダブル王冠をかぶり、ファラオ・スカーフをして、つけ髭をした卵型のきれいな顔、彫っただけに見える目は、きりっと優しく見開いている。お行儀よく膝の上に手を乗せ、足は少し開いている。全体のプローポーションには誇張がなく、自然な3Dポートレート。優しさの中に威厳ある雰囲気が漂う。

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4体の真ん中に神殿への入り口がある。ファサードの上端にはバブーンの像が並び、ファラオの足元には極端に小さいスケールの子供達の像もある。

炎天下、数本ある木の下で説明を受ける。4体の真ん中が少し広く、神殿への入り口になっている。珍しい形態だという。ラムゼス2世は1298年BC から1235年BCのファラオで、18期王朝のゴールデン・エイジと言われる時代の人(ツタンカメンはその4代前、約50年前)で、新しいこともあるが、彼関係のモーニュメントはすでに実に多く見てきたが、ここが圧巻。ダブル王冠をかぶっている。
エジプトの有史は5000年前ナイル川の上流部(Upper)と下流部(Lower)が統一された時に始まると見るのが普通。上流部が白いスキー帽のような王冠、下流部(カイロ周辺)のそれは赤いツノを立てた冠型(ダブル王冠とはこの二つを重ねたもの)。上流部の象徴がハスの花、下流部はパピルスの花。この上流・下流統一国家のトップということが、時のファラオが常に強調するところ。ラムゼス2世の時代は領土も広く、政治的には安定していたが、ここにこれだけのものを造って、彼自身の神格化と、南部のヌビアやエチオピア人を威嚇するためだったと理解されているという。

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さらに20メートルほど行ったところにネファタリ王妃のための神殿がある。ファサードには女神ハサー姿の王妃とラムゼス2の立像が全部で6体立っている。ここも中央に神殿への入り口がある。ここは今まで見てきた宗教センター(カルナク)やハトシェプスートの葬祭殿や王陵の谷の墓所と違い、あくまでもラムゼス2の偉大さを祀っているモーニュメント。

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神殿の中は相当深く、ハイポスタイル・ホールにはもう少し小型の立像が並び、一番奥の心臓部まで50メートルくらいある。その突き当たりにはラムゼス2と太陽神などの4体の坐像がある。彼の誕生日の2月何日かには、太陽光線が入り口からストレートにこの奥まで照らすような角度に造られていたという。この地に移動された後も、数日の違いでこの現象が起こるという。

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ハイポスタイルの壁には彼が神の捧げ物をするシーンや戦場で活躍する(2頭の馬に引かれた戦車の上から弓をひく姿、または小刀を振り上げ、まさに捕虜の首を落とさんとするシーンなど)(彼はヒッタイトとの戦争で1275年BCにカデッシュの戦いで勝利をおさめる)レリーフ絵が繰り返し、繰り返し、描かれている。

この神殿の古代史後における運命

帰り道、休憩所を覗くと、中に古い写真が掲示されていた。一つはデイヴィッド・ロバーツのスケッチに似た19世紀のスケッチ絵。周辺の様子もわかって面白い。ここは古代ギリシャの見学者が来た時、すでに崩れて砂に半分埋まっていた。それから1813年まで西欧からの見学者は、なかなかここまで来なかったのを、地元少年が遺跡の価値に気づいて案内したという。彼の名前をとって、アブ・シンベルと呼ばれるようになったそう。
再発見したスイス人に同行したイタリア人のベルゾニという探検家はここから持ち出しのできるものを多く、さらっていったという。

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移動の様子

ユネスコを中心に移動が始まったのは1964年。この神殿は1000個以上の大ブロックに切り分けられて、オリジナル位置から少し離れたところの、64メートル高い位置に移動された。作業が始まった時にはすでに人工湖の水が足元近くまで来ていたので、まずは2重の防水塀を張り巡らすことから始まる。石の切り出しも電気ノコギリが使えず、2メートルくらいある鋸を両端から人間が引いて、切り出した。また神殿を覆う岩山も人工的に新しく造られた。この作業は1964年から1967年までかかった。

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現代人も真に偉大なものの価値がわかり、行動できたというこの証拠を見て、私は心から安堵し、一国ではできないことを国際協力で解決したことなど、関係者の大英断、大偉業には心から祝福したいと感慨にふける。

夕方アスワンに停泊中の船に戻ると、すぐに出航。クルーズも残り2日。今日からルクサーに向けて河を下る。

エドフの神殿

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翌朝は中間地点のエドフという村に停泊し、歩いて5分のところにあるテンプルを見学。グレコ・ローマン時代のプトレマイオス朝の初期、紀元前2世紀。ギリシャ人のファラオがエジプト古来の文化への尊敬を表して建てられたもので、今まで見てきたものの集約的な感じがある。全てのスタイルがごちゃまぜ。この頃までには、私たちの頭の中もごちゃまぜ。どっかで見たのと似ているーくらいにしか判断できない。

ナイロメーターを理解する

裏庭から横に回って、井戸のような形のものの説明がある。他のところでも見た。古代エジプトでは「ナイロメーターNilometer」という測定装置があり、1メートルくらいの円形の穴の中にナイルからの水が流れ込む仕掛けがあった。それで洪水時にナイルの水の高さを測って、その年の作物の出来を予測し、強いては税金徴収額を調節したという。

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初めてこの説明を聞いた時、洪水の水深で豊作かどうかなど、どうして分かるのか?テンプルで僧侶がやったことだから、おまじないの一つかと思っていたが、ここで再度説明を受けるまでには、ナイル河の両岸が毎年3、4ヶ月も水面下だったということが、頭に定着していたので、どういうことかここで初めて理解した。つまり、水深を測ることで、洪水の範囲が分かる。洪水の効果は水が運んでくる堆積土。水深が高く、広範囲が水の下だと、農作地面積が増え、当然収穫も多いということなのだ。

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こういう円形の測定管の中には、大昔からの年ごとの水深の目盛が残っている。この知恵はそのうち忘れられ、1822年にその効力が理解されて、しばらく再開されたという。船に戻るとすぐにルクサーに向けて再出航。

帰りはリラックスしてヨガなども

このクルーズは7泊で、ほとんど毎日、とにかくすごい遺跡を次々に見学し歩いたので、クルーズ会社は乗客を飽きさせないように、あれこれ案を練る必要は全くなかった。エドフ神殿を最後に、ナイル渓谷の遺跡見学も終わりになり、最後の半日だけ、少し、ゆとりが出て、クッキング・デモなども行われた。といっても、美味しいエジプト料理はないらしく(英国系植民地!)、特記することは全くなし。
それよりも私はデッキでヨガをする。クラスもあった。19世紀のグランド・ツアーの時代的趣向より、この方が健康的でいい。

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12月3日(月) 船とお別れして、ルクサー空港からカイロに戻る。

今回のカイロのホテルはフォーシーズン。アメリカの最高級ビジネスホテルらしい雰囲気。クリスマスの飾りつけが他では異様に感じられたが、ここでは馴染んで見えた。
幸運にも、西向きの部屋で、黄金色の夕日の中にボーと(カイロはスモッグがひどい)ピラミッドの先の3角形が2つ見える。

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夜はギザのピラミッドとスフィンクスをバックにサウンド&ライトのショウを見にいく。2日前、カルナクのショーで風邪を引いたので、ニューヨークから着てきたオーバーコートを着て出かける。それでも風があり、寒かった。ショーはあまりよくない。観光客用。

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ギザのピラミッド

そしていよいよ翌日はギザのピラミッドを見にいく。ギザはナイル河の西岸にあり、カイロの中心部から車で30分のところ。ここに古王国時代に建てられた3つのピラミッドがかたまっている。

一番手前の大ピラミッドに近づく。クフというファラオが建てたもので、3つのなかで一番古く、一番大きい。建設当時(紀元前2700年)はもちろん世界一高い建物だった。

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古代地中海文明には「古代世界七不思議」というものがあり、ピラミッドはその一つ。7つのうちで現在残っているのはこのギザのピラミッドだけ。古代ギリシャ時代にはすでに観光名所になっていた。146メートルの高さで19世紀まで世界一を保持。

2百万個の巨石ブロックが使われているという。一つのブロックは平均2トン半。このピラミッドには化粧石がなく、大きな石のブロックの段々がむき出しになっている。下から5分の1くらいの位置に入り口が切られている。石一段は80センチから1メートルくらいの高さ。積まれた巨石ブロックは同じ形、同じサイズというわけではない。5、6メートルの高さまで誰でも登れるように小さい階段が造っているあり、それを登って、私は巨石の5段目まで登る。結構高い。皆ここで記念写真。私も。

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それまでにナイル渓谷で見てきたものが、あまりに巨大だったので、それほど大きくは感じない。
遠くから見えた入り口から、日本人のグループが出てきた。内部はどうでしたか?と聞くと階段が多くて大変だったと私よりは若めの女性が言った。私たちは次のピラミッドで内部に入る。

昔は頂点まで登れたらしいが、怪我人が多くなって、30年前くらいから、禁止されている(現在の小池東京都知事はその昔フリ袖で頂上まで登ったそう)。私は5段目で十分。この段々を降りるのも大変だった。まだ足が持ち上がる時に来て、本当に良かったとつくづく思う。

20分くらいの自由時間をもらったので、いろいろな角度からの写真撮りに挑戦する。しかし、皆同じよう。そのくらいこれは綺麗な4面の角錐形なのだ。底辺(230メートル)の4辺の長さは数センチの誤差、4つの面は正確に東西南北の方角を向き、3つのピラミッドの西南の角は南東、北西の対角線状にある。これが4500年前に造られた。

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中には現在分かっている通路、棺安置室以外にも、石の内部にまだ隠された通路や部屋や仕掛けがあると主張する学者も沢山いる。全体にもっと白っぽい色の硬い石で作った化粧石板が載っていたのだが、イスラム教のアラブ人が統治中、中にもっと宝物がないか散々探したが、見つからず、そのあとはこの化粧石版を外して、自分たちのモスクなどの建設に使ったという。

カフレのピラミッドの中に入る

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次のピラミッドにいく。真ん中にあるもので、化粧石板が頂点近くに少し残っているもの。これを建てたファラオの名前、カフレのピラミッドと呼ばれている。大ピラミッドを造ったファラオ、クフの息子。高さは少し低い。私たちは後ろ側からアプローチして、時間待ちなのか、ここでピラミッドをバックにラクダに乗った写真撮影が行われる。私はモロッコの砂丘の上でキャラバンのようにラクダ旅を体験したばかりだったので、ここでは辞退する。こんなツーリスト的な趣向はノーサンキュー!

そのあと、ピラミッドに近づき、今度は内部に入る。閉鎖恐怖症の人と足腰に自信のない人はやめるように忠告される。私はまだ大丈夫と入る。30ートルくらいの緩やかな登り坂になった通路を登るのだ。初めは階段だったが、すぐに坂になる。それだけでなく、天井の高さは1メートルくらい。腰を曲げて登らないといけない。両側に手すりがあるので、それを掴み、体を引き寄せるようにして登る。到着点は20畳くらいの石の部屋。奥に蓋のない石のお棺がある。中身はもうとっくの昔に泥棒に盗られている。天井の高さは5メートルくらい。磨かれた表面の石ブロックに囲まれている。堅い石を使っているようで、通路も天井も、床も、4面の壁面も全て、その堅い石の表面はスムース、手垢で少し黒くなっているところもある。4500年前にできたピラミッドの中の石室、しかもこれを支えている構造は建築学的にも、力学的にもよく解明されていない。気絶しそうな事実だが、この部屋の中は全く、プレーン。何の印象も持てない。

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カフレのピラミッドの内部から出てきたところ

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スフィンクス

またバスに乗り、今度はスフィンクスに行く。3つ目のピラミッドはこの2つよりずっと小さく、見学には入っていない。
スフィンクスは2番目のカフレのピラミッドの一部。カフレの谷のテンプルと呼ばれる付随の葬祭殿からの参道(コースウェイと呼ばれる)の横にある。建物に入る前(前夜ショーを見た辺り)に水路と船着場の跡がある。ピラミッド建設に使われた巨石ブロックをここまで水路で運んだ。ここの巨石は石灰石だけでなく、もっと硬いグラナイトとか玄武岩もある。硬いグラナイトを7面に削り、継ぎ目を補強しているとサメーは説明する。4500年前グラナイトよりも硬い玄武岩を使って、これだけの細工をした。

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スフィンクスはここの台地を覆っている岩盤を削って造られている。ライオンの体に首から上は人間ファラオ。顔は潰されているが、ファラオのしるしであるヘッド・スカーフをしている。付け髭もあったが、折れて砂の上に放置されていたものが、現在大英博物館にあるという。

頭部分はもちろんよく写真で見てきたので、ここでは長い長い胴体の後ろまで見て回る。ここからピラミッドまで相当長い距離の屋根付き参道が真っ直ぐについていて、砂に埋もれていたのを、あのエジプト博物館を作ったマリエッテが発見したという。

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この3つのモーニュメントの見学で私たちはまたもや疲れてしまった。ようやく観ることができたピラミッドとスフィンクス、やはりすごい!それら自身の規模もすごいが、周りにはさらに王妃とか子供達とか、高級官吏の小型ピラミッドも無数に存在する。

次のストップまでバスで1時間以上かかるというので、お昼寝と持ってきたボックス・ランチの時間になる。

メンフィス

次の目的地は古代にメンフィスと呼ばれた首都跡。3100年BCに第1代目のファラオ、メネスが上下流統一国家の初のファラオとして、ここに首都を置いた。位置はナイルのデルタ(旅してきた古代ギリシャ人のインテリが、ナイル河口の超大三角州をデルタと呼ぶようになる)の南端(カイロから50キロ)で、いろいろ変遷はあったが、古王国時代の中心的都市だった。その後宗教的センターはルクサーに移ったが、政府関係の官庁はギリシャ時代の紀元後5世紀くらいまで続いたという。現在は全く寂れてしまっているが、ヤシの木を初め、木が多く、和やかな雰囲気だった。古代にはヤシの群生があり、その佇まいから、神殿などにコラムを並べるようになったと言われている。

ここの見どころは屋根付きの建物に納められたこれもラムゼス2の立像。これがいつの時代かに倒れてそのまま横になっている。片腕と足とか壊れた部分もあるが、とてもきれいなお顔で、彫刻の質の高さを感じさせる。2体同じものがあり、もっと保存度の高いもう一体は、現在カイロの鉄道駅の立っているという。11メートルの立像。石灰石製。

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外の庭にこの他小型のスフィンクスもあり、これはカルサイト製。

サッカラのピラミッドの原型

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そしてまたバスに乗って10分。サッカラの階段ピラミッドを観る。この名前はピラミッド建造についての説明に必ず出てくるもの。
この背の低い5段の階段式のものの近くで、サメーは拾った棒で、地面に図を描きながら説明:ピラミッドは宇宙人が造ったという説もあるが、それは間違い(ここで皆大笑い):我々の祖先がトライ&エラーを繰り返して造ったという証拠がここにある。ギザの大ピラミッドを造ったクフの前のファラオたちはいろいろ実験したという。まず、この形になった経緯:大昔は、遺体を砂に埋めただけだったが、それでは狼(ジャッケル)が掘り起こして食べてしまう。そこで石ブロックで造った台形箱型のマスタバという形のお墓になる。400年後の紀元前27世紀に、それをゾーザーというファラオが6段重ねにしたのが、このサッカラのステップ・ピラミッド。そのあとのファラオは角を埋めて段々を無くし、スムースな線にしたり、トライ。それよりも角錐形の角度がいろいろ試された。どの角度が巨石の重量を一番よく吸収して、崩れにくいかが試された。それから数代後、一番適度な角度のピラミッドが、クフというファラオによって、ギザに建設されたのだった。ギザは大地が岩盤で、あれだけの巨石を積んでも、沈まないことも、ちゃんと彼らの計算に入っていた!
こういう説明をもう頭の中がいっぱいの私たちは黙って聞いていた。風が強くなり、砂が舞い上がり、細かい説明はもう面白いとは思わなくなっていたが、間違いなく重要な遺跡だということだけは理解する。この周辺にはこの他、赤のピラミッドというものもあるし、角度が悪く崩れかかっているのもあるらしい。ピラミッドはエジプト全土に百以上あるという。
1週間の見学旅行では消化できない古く長い歴史、膨大な数の遺跡類、彼らの頭脳と知恵。そういうことがわかっただけでも、ここにきた価値があったというもの。

ツアーはこれで終了

ここからカイロに戻り、ホテルのロビーでオフィシャリーにツアーは終了する。10日間、実に精力的に説明をしてくれたサメーに、皆絶大な拍手を送り、それぞれ握手やハグしたりしながら、チップを米ドル(貨幣価値が安定している)で渡す。
彼は私が今まで体験したガイドの中でも首席クラス。エジプトロジストといっても、ピンからキリまで、さまざまだろうが、彼は特別にこの仕事に情熱があった。英語がうまく、内容を熟知していて意見があるだけではなく、愛する母国の偉大な文明を外国人に知ってもらおうという熱意が伝わってきた。ローカル・ガイドはそれが一番。私はチップをオススメ額の50%増しと弾む。

エジプト古代文明のあと

とにかく古代エジプトの遺跡群はすごい。その数、その大きさ、その古さ、ほとんど皆ファラオの快適な死後の生活を願って造られた。3000年もの間、レリーフ絵やパピルス画のテーマ内容は、ほとんど変わっていない。死後の世界は西にあり、舟に乗って行く。そこには狼頭の葬儀神が待っていて、最後の審判をする。その時よいお点をもらうために日頃から捧げ物に精を出す。

ピラミッドやカルナク・テンプルの巨大さ、壮大さは地中海を超えてギリシャにも伝わり、憧れの気持ちを抱かせる。小国マケドニアの王子アレキサンダーもその一人。隣国からちょこちょこ突っつかれながら、彼らは金属の改良、強いては兵器、兵法の改良をして、勝ち軍を造る。エジプトは彼がここに到達する前に降伏したという。3千年間、同じことを繰り返してきたエジプト社会には、それに対抗することは無理だったのだろう。ギリシャの征服者たちは、古代エジプト文明に敬意があり、地元文化と混合しながら、王朝(プトレマイオス)を継続させるが、そのあと引き継いだ実行型のローマには完全に征服され、エジプト王国期は完全に終わる。

私見オブザベーション

私は10何年か前に初めてギリシャに行った時、その建築、彫刻の素晴らしさに驚嘆した。西洋文化の発祥地はギリシャという考えは、イタリアで16世紀に起こったルネッサンスが、古代ギリシャに戻ろうという運動だったことなどを、学校で習ったから、そういうものだと思っていた。古代ギリシャ文化が西洋文化の発祥という既成観念。
しかし、今回エジプトを観て、ギリシャの前にエジプト文明、文化があったことを痛感する。ここが生み出した文化は西洋に引き継がれている!のだ。古代ギリシャ人が突然巨大なコラムが並んだ神殿、実に芸術性の高い彫像を作り始めたのではない。彼らはエジプト古代文明・文化を(見)聞き知っていたのだ。(注記:歴史家トインビーは著書「歴史の研究」で、世界における文明社会を29あげ、その内で他の影響を受けずに自ら文明を創造したのは、エジプトとシュメールだけと書いているそう。)

もう一つの私のオブザベーションは、ハリウッド映画に出てくる服装飾アイデアの多くはパピルスに絵に描かれた古代の衣装、化粧、アクセサリーのデザインに負うところが多いということ。それにしても透けた布とか、三宅一生のようなプリーツのトップやスカートはどうやって作って、どうやって、維持したのだろう?アイロンがあったとはどこにもヒントがない。

これこそがグランド・ツアー

旅行好きな私は、一昔前のグランド・ツアーに憧れて、よくこの言葉を使ってきたが、エジプトを旅して、こういう真にグランドなところを観ることが、グランド観光旅行だと悟る。当時は写真、動画で実物を見ることは少なく、歴史の勉強をして、紀行文などで書かれたものから想像して、お金がある人は人類の偉大な文明の跡を観に行った。彼らが行ったところの筆頭はこのエジプトだったと思う。
私もタジマハールとか、アンコールワットとか、マチューピッチューとか、万里の長城とか、ギリシャ、ローマも見てきたが、今回のエジプトが圧倒的にグランドだった。あの時代にあれだけのものを建造した背景は実にユニーク。まずアフリカのケニアあたりから人類は発生したので、エジプトは中近東よりも早く文明が発祥しただろう。そして、ナイル河の水と定期的氾濫、アスワン地域に硬い石があったこと。さらにナイルの氾濫跡の農業で食糧確保を可能にした気候。そこに出現したファラオの絶大なる権威。大プロジェクトを正確に動かす官僚の組織力。などなど成功した要素はいろいろある。そしてあちらこちらに出現する天才・鬼才たち。だから歴史はおもしろい。

後書き

エジプト編の(上)は、古代史の遺跡見学を中心に書くだけで、この量になってしまいました。エジプトという国はそれだけではないので、さらに(下)を書くことにしました。3週間後ころに公開する予定です。是非乞うご期待!


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萩 原 治 子 Haruko Hagiwara

著述家・翻訳家。1946年横浜生まれ。ニューヨーク州立大学卒業。1985年テキサス州ライス大学にてMBAを取得。同州ヒューストン地方銀行を経て、公認会計士資格を取得後、会計事務所デロイトのニューヨーク事務所に就職、2002年ディレクターに就任。2007年に会計事務所を退職した後は、アメリカ料理を中心とした料理関係の著述・翻訳に従事。ニューヨーク在住。世界を飛び回る旅行家でもある。訳書に「おいしい革命」著書に「変わってきたアメリカ食文化30年/キッチンからレストランまで」がある。

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