人間ヴェルディ: 彼の音楽と人生、 そして その時代 (18)
著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子
出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年
第二部 ヴェルディアン・オペラ確立期
パリに戻ると、ヴェルディは初めて、ストレッポーニと同じ屋根の下に住み始める。夏の間、彼らはパリ郊外のパッシーに庭付きの家を借りる。1867年にストレッポーニがマッフェイ伯爵夫人に書いた手紙に、郊外に家を借りることは彼女のアイディアだったと書いている。彼女は庭いじりが好きで、それに静かな環境はオペラ作曲中のヴェルディにとっても、静養になると考えたようだ。
新作オペラについてカンマラーノのアイディアは、ロンバルディア連盟軍の攻撃に、神聖ローマ帝国の皇帝でドイツ王のフレデリック・バーバロッサ(赤髭王)が敗北したことを中心にオペラを組み立てるというものだった。レニャーノの戦いは1176年に起こり、レニャーノはその後、中世都市として発展し、今回の「四辺地域」の4隅の一つだった。1848年の革命事件と並行させたい意図で、その夏ヴェルディとカンマラーノは手紙のやり取りで脚本を仕上げていった。
この時期、ヴェルディにはこのオペラだけが進行中だったようだ。10月にナポリのサンカルロ劇場のためにオペラを書くという契約があったのだが。どうも、ナポリは政治的混乱の中でヴェルディに適当な脚本を提供できなかったので、契約は破棄されたようだ。多分、政治的問題は神の仕業で、契約破棄の説明はつく。サンカルロ劇場の興行師フラウトは訴訟も考えたようだが、勝ち目はヴェルディにあり、彼は諦めたようだ。例によってカンマラーノは二人の間に入って苦労する。
ヴェルディがこの契約を素早く破棄した理由の一つに、カンマラーノの祖国愛主題のアイディアが気に入ったが、ナポリでの上演は無理と考えたからだろう。当時の状況からみて、ナポリ王国のフェルディナンド王は絶対に上演を許可しなかっただろう。
一方、ヴェルディはパリでの蜂起が野蛮な残酷さで鎮圧されたのを目撃する。何が起こったかというと、パリの労働者たちは、1830年と同様、自分たちの革命の果実がもぎ取られたと見た、または見たと思った。今回はミドルクラスのために、革新的共和党派によるものだった。労働者たちは労働者の権利などを含む社会主義的なプログラムに関心があり、第2共和制の憲法で支持が約束されていたにも関わらず、実現の見込みはなさそうだとみた。それで労働者たちは暴動を起こした。まず3月に、それから4月にも。最終的に6月にはバリケードに篭った。流血が続き、パリの大司教が平和のメッセージを投げかけて、殺された。共和党が多数の政府は、アルジェリア戦争の将軍、ゴデフロイ・カヴェニャックに独裁者的権限を与えて鎮圧させた。彼は共和党派ではあったが、古代ローマ的タイプの軍人で気位が高く厳格だった。彼は3日間で暴動を鎮圧した。その後の数ヶ月、何万という労働者が裁判なしで流刑になった。カヴェニャックはそれ以来、‘6月のブッチャー(肉屋)’と呼ばれた。このエピソードは共和党派としては、語りたがらないものだった。訓示としては、共和党も刀剣なしでは国を治めることはできないということだった。パリの不穏な状況は、ヴェルディとストレッポーニが郊外のパッシーに家を借りた理由の一つだっただろう。
イタリアでも、6月、7月のことの成り行きは惨事に向かって急降下した。6月のはじめにロンバルディア州はやっと選挙をして、民衆は561,002票対681票でピードモントとの融合案に賛成した。しかし、選挙結果は何の意味も持たなかった。融合への難しい問題は、戦争終了後に召集される人民集会で論議されることになっていた。6月末にはピードモントもミラノとの融合案に賛成投票したが、同様に重要な決定は延期された。7月にはとうとうヴェニスもピードモントとの融合に賛成投票した。そこでカルロ・アルバートは北部イタリア王国を宣言した。それにはパルマとモデナも含まれていた。王国は約2週間続いたが、7月23日から27日の間に、再編成したラデッキー軍は小競り合いを続けて、クストッザでピードモント軍の将校たちを制覇した。オーストリア軍は再編成と援軍で14万、イタリア側は6万5千だった。
この敗戦は惨敗ではなかったが、決定的で、ピードモント側は全ての前線から退いた。パリでは、ヴェルディを含む知名度のあるイタリア人たちが、カヴェニャック将軍に調停に入ってもらうよう嘆願書に署名した。が、フランス政府は自国の問題で手一杯だった。イタリアではカルロ・アルバートは停戦協定に従って、軍隊をピードモントまで退陣させたので、ポー川流域は全てオーストリア軍の手に落ちた。いくつかの都市は、ヴェニスも含み、自前の軍隊で多少長く維持できたかもしれなかったが、ミラノやパルマはすぐにラデッキー軍に再占領された。ピードモント軍がミラノ市から撤退するとき、それまで、ぬくぬくと家に籠もっていた民衆の一部は、「裏切られた!」と叫んだ。彼らは、ピードモント兵士は卑怯者だとし、カルロ・アルバートはユダで、国王の首脳部を取り囲み、彼を捕虜にしようとした。彼は民衆に向けての発砲を軍に許可せず、こっそりと私有の馬車で脱走した。3月の「あの5日間」がミラノの栄光の時とすれば、8月の第1週目は、不名誉の時だった。これによって、政治的にはピードモントとロンバルディア州の間の苦い思いと疑惑が深まった。
ミラノ攻防のリーダーたち、志願兵たち、その他オーストリア軍の報復の対象となりそうな者は皆、直ちにミラノを脱出した。マンゾーニはマージョリ湖のピードモント側にある彼の妻の別荘に移動した。ムチオとマッフェイ伯爵夫人はスイスに逃げた。資金のないムチオにヴェルディは、送金してあげた。マッフェイ伯爵夫人にはこう書いた:
イタリアでは、ピードモント王国が結んだ停戦協定の内容は、ピードモントとその支持者たちがイタリア全国運動を裏切った証拠だと、地方の共和制派は激怒した。ヴェニス、ブレシカなどの市は持ちこたえた。法王領のボローニャはローマから独立した形で、オーストリア軍を撃退した。しかしパルマ公国では、オーストリア軍が再占拠して、カルロ大伯爵をトップに据えた。しかし、ラデッキーはクストッザでの勝利を押し付けることはできなかった。理由はウィーンではまた問題が悪化し、フェルディナンド皇帝は再度ウィーンから逃亡したのだ。彼はハプスブルク家の居城、チロル地方のインスブルックに行った。同じ頃10月25日に「イル・コルサロ(海賊)」がトリエステで初演になった。アドリア海に面したトリエステはオーストリア人にしっかり握られた町で、ルッカはそこの興行師とヴェルディの新作オペラ上演を取り付けた。キャストが良かったにも関わらず、公演は成功とは言えなかった。デュエットとコーラスはよかったが、観客がカーテンコールで称賛したのは、舞台背景画家だけだった。
ヴェルディはパリで次の新作オペラと、イタリアの成り行きに没頭していた。彼はジェノア出身の若い詩人、マメリが書いた愛国的な「トランペットの響き」に、曲をつけ、ミラノからスイスに逃げたマッツィーニに送った。彼は手紙に:賛歌をお送りします。時期としては遅すぎたようです。間に合うといいのですが。私としては、自分の希望する以上に庶民的で簡単なものにしました。よくないようでして、燃やしてください」と。さらに「この賛歌がロンバルディアの平原にこだまする音楽になることを希望します。貴殿に最高の敬意を持った者からの、心からの賛辞をお受け取りください」と結んでいる。マッツィーニはこの賛歌を出版したが、あまり評判にはならなかった。それほどいい曲ではないだけでなく、停戦協定が結ばれ、戦争は終わっていた。これ以前にマメリの「イタリアの兄弟たち」という詩にミカエル・ノヴァロが曲をつけたものに人気が出て、もっと成功した。この曲はリソルジメンテ運動の主題歌の一つとなり、1946年にイタリアが初めて共和国になったとき、イタリアの国歌になった。
ナポリのカンマラーノへ、ヴェルディは新作オペラ「レニャーノの戦い」について、一連の手紙を送っている。彼はオペラの各シーンについて、アイディアや要求を書いている。中には意味がはっきりしないところもある。「美しいレチタティーヴォの後、夫を登場させ、ちょっと感傷的なデュエットを歌わせよう」「夫は息子を祝福して、またはそれらしきことをやらせて、、」とか。そうかと思うと、細かいこと、ある旋律のところで、同じセリフを繰り返すかどうか、またはあるところで、もう一人の独唱を入れたらどうかとか、または、ソプラノのためにもう一つシーンを入れたらどうか、などアイディアを出している。全般に彼の意図するところは、全体を短く、展開の早い話で、ドラマティックな効果を上げること。少なくとも、このオペラでは、ヴェルディは「我が祖国」を強調するために、登場人物より、場面、場面のドラマ性を大事にした。
カンマラーノへの同じ手紙の中に、ナポリでの初めてのマクベス公演について、カンマラーノがフラウトに伝えてくれることを想定して、興行師のフラウトに様々な忠言を書き入れている。彼は亡霊シーンについて、明確な助言をしている。「王様たちは人形ではだめ、彼らが通過するところは、小山でないとならない。上がったり、下がったりする必要があるから。」 彼はロンドンで戯曲の舞台を観てきたし、自身のシェイクスピアの理解度に自信があった。しかし、こうした技術的な助言以外に、彼は登場人物の性格造り、特にマクベス夫人のそれについて、多く書いている。彼はカンマラーノへこう書いた:彼らに伝えてください。このオペラの一番重要なシーンはマクベス夫人と夫のデュエットと、夢遊病歩きのシーンです。ここが盛り上がらなければ、このオペラは失敗になります。ここでは二人は歌ってはいけない:
彼らはしゃがれ声でヒソヒソと演技し、熱弁する。
ヴェールを被って、やらないと感じが出ない。
オーケストラはミュートで演奏。
当時のオペラ上演のスタイルとしては、重要なデュエットとかソプラノのアリアは、オーケストラも歌い手も、最大限の音量出すのが普通だったので、ヴェルディはそうやらせて失敗したくなかったのだ。彼はフラウトにも書いている:貴殿もリハーサルに出席してください。そして、やり直しがあっても、不平を言わないでください。このオペラは私にとって、他のものより、ずっと愛着があるのです。演出は重要です。このオペラに愛着があるからこそ、不成功に終わることは耐えられないことを告白します」と。
リコルディ出版社は次の新作オペラ「レニャーノの戦い」の初演を、1849年の1月にローマ市のアルゼンチン劇場でする取り決めをする。ローマ市は法王と彼の革新的政府とで、オーストリアの検閲または軍隊が及ばない都市だということから、リコルディは新作オペラ初演にもってこいの場所だと判断した。しかしローマにおいてすら、政治状況は最悪になり、11月末に法王が脱走した。
アロキューション(説示(第17章参照))の後、ピオ・ノノの位置は次第に維持が難しくなった。革新派は上から下まで、ピオ・ノノのアノキューションは彼らへの裏切りだと感じ、ジオベルティの法王をトップにイタリア連盟形成するという構想にも、法王は支持しなかったので、その感情はさらに悪化した。一方で、ピオ・ノノは彼の宰相として、ロッシ伯爵を任命した。彼は傲慢な実力者だが、有能な行政官だった。ロッシの政策は、法王の宗教的な面と政治的な面を分けるのではなく、法王領政府を改革するには、もっと効率よく、また透明性を持ってすることだった。それと並行して、彼は町の暴徒化した民衆を警察に委ねたが、この問題の方が悪化した。というのは、北部イタリアでの停戦協定の後、志願兵たちは法王に憤慨し、武器を携えてローマに戻ってきていた。すぐにロッシには友人がいなくなった。彼の性格から、それでも11月15日までは持ちこたえたが、その日、人々からの「シーザーの3月15日」の警告を無視して、市議会に向かい、シーザーのように階段を登ろうとしたとき刺殺される。
刺殺者が所属していた過激派共和党は、ローマのもっとも貧困な地域、トラステヴィア区出身者が多かった。彼らは何ヶ月にも亘って、複数の支部を作り、そこのリーダーたちを通じて、法王にオーストリアに対抗するためピードモントと合体するように圧力をかける努力をしてきていた。ロッシが嫌われた一番の理由は、彼が北部の統一イタリアに真っ向から反対して、ピードモントにも、ヴェニスにも、他の抵抗を続けている都市への援助を全くしなかったからだった。ロッシ暗殺の後、この過激派共和党がローマ市の実権を握り、次第に兵士や憲兵も一緒になって、町の群衆を統制した。次の2日間、武装した群衆、その数一時は6千人もがクイリナーレ宮殿を取り囲み、法王はその中に閉じ込められた。窓に発砲され、司教の一人が亡くなった。生き残った政府は、怖じけずいて、法王のスイス護衛兵を解雇し、人民兵士に置き換えることに同意する。こうして、ピオ・ノノは彼らの捕虜となった。
そこからのピオ・ノノの脱走はうまく実行された。捕虜といえども、彼はまだ外国からの大使との会見だけは許された。カソリックの国々から会見を求められることはしばしばだった。11月24日、フランス大使が個人的に法王と会見した。ドア越しに、フランス人の声がいつまでもボソボソ喋っているのを、人民兵士は聞いていた。その間に、法王は普通の牧師服に着替え、付き人の後について、秘密の通路から裏庭に出て、そこで待っている馬車に乗った。彼はババリア大使と共にラテラン門からローマを出た。彼らは時には、詰問にも会ったが、何とか、国境を超えて、シシリー王国の港町ガエタに辿り着く。そこで他の要人も迎える。ナポリのフェルディナンド王は、法王の擁護者という役割を非常に喜び、法王に城を提供し、いつまででもいてくださいと言った。ピオ・ノノは直ちに声明を発表して、どんな理由でも、彼自身の意志以外では、絶対にローマには戻らないと宣言した。その冬、法王はガエタで過ごすことになる。ガエタの人々は、法王の存在は収入に繋がると喜んだ。
ローマの民衆は喜ばなかった。単純素朴な民衆ほど、動揺した。彼らの多くは法王の支持者が掲載した告示が読めなかったが、彼らのリーダーたちは、法王が自ら望んで逃亡したことを隠すことはできなかった。彼らには法王を脅かす用意があったが、反対に脅かされる危険もあった。しかし、14世紀もの間、街の中心に法王がいることに彼らは慣れきっていたし、彼らなりにピオ・ノノを愛していた。彼の自ら望んだローマからの逃亡は、人々の心の中にぽっかり大穴を作った。それは共和党弁士の弁舌では埋め合わせることができないものだった。穏健派にとって、法王の脱出は大惨事だった。遠くガエタの政府と毎日の政策について、連携を取ることは不可能だった。それでローマに残った聖職者政府は運営停止になった。過激派共和党が政府の実権を握り、直接選挙で選出された代表からなる人民議会の設立を公示した。1849年2月5日に召集される議会で、法王領政府の新しい形態が議論されることになる。法王は選挙に反対で、カソリック信者に投票を禁じた。その結果、共和党がほとんどの議席を勝ち取り、2月に召集される時には、法王領は共和国になることが確実になった。イタリア中から、共和党員がローマに集まり始めた。その中にマッツィーニとガリバルディがいた。ヴェルディはオペラ初演のリハーサルをするために1月初めにローマに到着する。
1849年1月27日、彼は「レニャーノの戦い」の初演で指揮をした。初演は熱狂的興奮に包まれた。おそらく、この環境ではどんなオペラでも旗が翻り、「我が祖国」の合唱が入れば大成功になったと思われる。しかし、「レニャーノの戦い」はそれ以上のオペラだった。第3幕のフィナーレで、ヒーローは塔の中に閉じ込められているが、仲間が吹く、バーバロッサ攻撃の出陣の合図のトランペットが聞こえる。彼は仲間に追いついて自身の名誉を守るため、塔の窓から下の堀に飛び込んで脱出する。音楽がさざめき立ち、遠くに聞こえる行進曲と対象的に彼の焦りが表現される。何度目かの上演では、天井桟敷にいたある兵士が、興奮のあまり、コートをかなぐり捨て、天井桟敷から飛び降りるという事件が起こったほど。彼は運よくオーケストラの上に落ち、無事誰も怪我はしなかったようだが。
興行師は歌手たちの声が続く限り、何回も上演を継続した。そしてほとんど毎回、全第4幕がアンコールで繰り返された。観客たちの熱狂的な興奮の様子も続いた。皆花飾りリボンをつけ、テープが投げられ、合唱はいつも、歓声で中断された。最初の数回、ヴェルディがまだローマにいるときは、彼は何回もカーテンコールで呼び出された。「ビバ、ヴェルディ!」と「ビバ、イタリア!」が交互に繰り返され、彼は祖国愛運動のシンボルとなる。彼はそれを嫌い、急いでパリに戻った。
「レニャーノの戦い」の驚くべき事実は、1849年に興行的に大成功だったことではなく、オペラとしての質の高さだ。プロパガンダものの基準を高く持ち上げた。ヴェルディとカンマラーノがしたことは、プロパガンダものの常套手段、2つのお話をくっつけたこと。一つは史実に基づく話、もう一つは個人のロマンス。二つの話は非常にうまくからみ合わされ、一つのシーンまたはセリフに二つの意味合いが出てくる。例えば、バリトン役はテノール役が妻を誘惑したと信じ、彼を塔の中に閉じ込める。テノール役は彼の軍団と共に出陣して、名誉を挽回するため、塔の窓から堀に飛び込み、イタリアのために戦う誓いを果たす。この個人的なお話に、ここで史実が入ってくる。最終幕では、「祖国のために死んだ者にやましい心を持った者はいない、皆清らかな心を持っている」というセリフが繰り返される。これには二つの目的があり、死を前に、テノール役はバリトン役に彼の妻が貞節だったと告げ、さらにプロパガンダの目的も果たしている。全てがたった4幕、2時間のうちに繰り広げられ、しかもかなりの盛り上がりがある。
プロパガンダは初めから終わりまで、聞かれる。全ての登場人物は、どこかで「祖国愛」を歌い、ヴェルディがこだわったシーン、バリトン役が息子を祝福するシーンは、妻への別れの言葉になり、彼は妻の貞節を信じていることを暗示している。父親は幼児の息子を抱きしめ、「彼はイタリア人だった」と歌い、さらに「彼は神に誓って、祖国の栄誉を」。ヴェルディのメロディは、力強く、アリアは短いので、感傷的というより、歓喜に満ちた効果がでている。
プロパガンダ映画などによく見られる大げさな筋や、喜劇的なシーンは、ヴェルディの好みではないので、ここには現れない。また敵の大将バーバロッサは、第2幕で登場するが、歴史が伝えているように、あくまでも尊厳ある、騎士になっている。悪者はコモ市政府の重鎮たちで、ロンバルディア連盟に加入することを拒む。彼らですら、バーバロッサ同様、正直な市民代表者であって、ただ、考え方が間違っていただけ。ここにはラッパの合図に暗いうちからの起床や、汚物掃除係などの冗談は全くない。ヴェルディは「祖国」に強い感情を持っていた。それは彼の心に高貴な感情を沸き立たせ、他の人々も同様な感慨があることを知っていた。村や町から若者たちが勝ち目のない戦いに勇んで志願する。ヴェルディとしては、戦い相手の敵をくだらない人間にするとか、戦場で安っぽい冗談を入れて、彼らの崇高な行為の価値を落とすようなことは一切しなかった。
ヴェルディが人々に呼びかけたかったことは、イタリアの統一だった。彼は共和党派だったが、決して、非現実的な空論者ではなかった。史実を使うことで、当時まだはっきりしていないイタリア統一の方向性を示す必要はなかった。彼のヒーローたちは中世の町出身で、彼らは間違いなく、「ビバ、ミラノ!」「ビバ、ヴェロナ!」と叫んだと思われる。ヴェルディのオペラの中では、彼らは「ビバ、イタリア!」と叫んだ。1848年と1849年の統一運動の失態は、数年後に明らかになってきた将来へのレッスンだった。ヴェルディはそれに早くから気が付いた。多分彼がマッツィーニなどを読んでいたこと、彼自身の政治的理解、または田舎に育ったことで、イタリアの中都市国家への過度の愛着と誇りを持っていなかったからかも知れない。しかし、彼が状況をよく理解していたことと、オペラを通してそれを民衆に訴える能力を持っていたことが、のちに彼をリソルジメンテのリーダーとならしめた。しかも彼は音楽家で、感情を直接扱うことで、彼は特に民衆に愛されたのだ。
音楽的に「レニャーノの戦い」は、オールドファッションの、すでに確立された手法を用い、コーラスに始まって、レチタティーヴォに、スロー、ファーストのアリアとなっている。ヴェルディは古い手法を使って、確実な効果を狙ったようだ。これは彼の13番目のオペラ(「ロンバルディア隊」の仏語版「エルサレム」を除くと)で、彼はそれまでに、繰り返しなしに重要な部分を冴えた音楽にする技術を会得していた。最終幕ではたった15分の間に、ソプラノの誓い、牧師と民衆の安全を願うコーラス、勝利の宣言、勝利の合唱、ヒーローの登場と死、そして最終のコーラスを無理なく詰め込んでいる。全ての登場人物は、それぞれの音楽で独立し、話を混乱させることなく、または急がせることなく、進行、決着している。ヴェルディはすでにメロディーを歌詞とぴったり合わせる術を習得したので、以前はスタンザが必要なシーンでも、ここでは一旋律で思うことを表現できた。メロディーは「エルナニ」ほどのものではないが、オーケストレーションはずっと巧みになっている。ヴェルディの初期のオペラと比べると、「レニャーノは戦い」ではシーンが多いのに、シンバルやトロンボーンのがなり立てが少ない。前奏部分でさえ、ロンバルディア連盟軍のマーチと、対照的なソフトなテーマが中心だが、金管楽器のがなり立ては抑えられている。
もちろん、彼の観客はそのような音楽的分析などどうでもよかった。彼らは劇場で歓喜余る夜を過ごし、大満足で家に帰った。役者の一人も大満足だった。テノールのガエタノ・フランシーニは、この「レニャーノ」がヴェルディのオペラの3番目で、「アルツィーラ」と「コルサロ」でも主役を歌っている。
【翻訳後記】
第16章の最後に、ヴェニス共和国の志願兵になったピアヴェに出した手紙の中に自分は演説がうまくないので、ミラノ共和国が成立しても参加できないらしきことを書いています。それどころかラデッキーを追い出したあとの2ヶ月間で、ミラノに共和国が成立することなどは無理だとわかってきていて、やはりイタリア人がもっと団結して、自ら戦いに身を投じなければ、とヴェルディは気づき、プロパガンダ・オペラを書くことにしたのです。
1848年6月パリに戻る帰路、ヴェルディはアイディアを脚本家のカンマラーノに送り、半年後の1849年1月にはローマで初演に持ち込みます。彼は作曲家としてのイタリア統一に関与できることは、愛国心を煽るプロパガンダ・オペラを書くことだと悟り、実行に移したのです。
この間にピードモント、ミラノ、ヴェニスは融合案に合意して、カール・アルバートは上部イタリア王国を宣言しますが、2週間後には「4辺地区」の内側でオーストリア軍に敗れ、逃亡します。
この時のことは、中公文庫「世界の歴史―第12巻」のp398に「望み絶えたイタリア」という小見出しでこう書かれています。
ローマでは弱気になったピオ・ノノは護衛団に人民兵を入れ替えたため、事実上彼らの人質になってしまいます。そこで彼はちょっとした芝居を打って、クイリナーレ宮殿から脱出して、ナポリ王国圏内に逃亡します。
この時まで私はローマ市とそれを囲む法王領の実体を理解していなかったことに気づきます.
クイリナーレという聞き慣れない名前に、私はちょっと調べてみました。まずこれは古代からローマの地形を象徴する「7つの丘」の一つで、一番北に位置した丘です。カソリック教会としての心臓部はバチカン市にある聖ペトロ大寺院とそれに付属する法王庁政府の建物ですが、湿地帯だったせいか、伝染病が発生しやすいこともあり、夏涼しい地に法王のための別荘を建設することになり選ばれたのがクイリナーレの丘でした。地図で見ると、古代ローマの心臓部は真ん中にあるキャピトリンの丘とパラティンの丘です。クイリナーレは端に位置するだけでなく、バチカンにも近い位置あったからでしょう。15世紀位に夏別荘の建設が始まり、その後数世紀にわたって、政府の主要機関がここに移動したようです。
私は昨年10月のシシリー島の旅の後、ローマに寄って、このクイリナーレ宮殿を見てきました。場所としてはトレビの噴水にも近い、丘の上。城壁を兼ねた建物が3辺を囲む広大な敷地。現在は(多分1946年にイタリアが共和国になった時以来)大統領官邸で、現在のジョージア・メロニ大統領が住んでいます。ここから法王が芝居を打って脱出した話は面白いですね。フランス大使は共犯者です。逮捕されたのでしょうか?
第18章はヴェルディがパリに戻った1848年6月から翌年1月までの約8ヶ月の経緯で、10月25日にはその年1月にルッカ社のために完成させた「イル・コルサロ(海賊)」がトリエステで初演になったとあります。悪感情のあるルッカ社との契約だったこともあり、ヴェルディはその初演をルッカに投げて何もしなかったようです。それから1世紀半、このオペラは彼の26のオペラの中で24 番目とありますが、それは正しい評価だったか、ちょっとここで観てみたいと思います。
これはメロドラマティックな活劇です。ヴェルディらしいアリアやデュエットがいくつもあります。ヴェルディは「マクベス」の後、このオペラをロンドン用に作曲し始めたとありますから、彼は自信があったと思われます。
YouTubeで探してみると、全オペラのものが2つありました。まず生誕200年記念行事の一環で、ブセットのヴェルディ劇場で上演されたものをご覧ください。正味1時間半です。ヴェルディ自身がその建設に猛反対したヴェルディ劇場は、300席足らずの小劇場。その舞台もオーケストラ・ピットもとても小さいことなどをみることができます。
YouTubeではサブタイトルを日本語にすることはできませんが、これで筋と舞台の様子がわかっていただけると思います。キャストもなかなかです。海賊と言っても、故郷をオスマン・トルコに略奪されたイタリア人。叛逆のため長く危険な航海に出る夫を慕って、妻がアリアを歌います。ハープとフルートの伴奏が入ったバラード風アリアは、コンサートなどでもよく聞かれます。第2幕はオスマン・トルコのパーシャの屋敷で、彼の愛妾グルナーラがそこから脱出したい心を歌います。そこに海賊が侵入して屋敷に火を放ちますが、彼女を含む女奴隷たちを救出しようとして、海賊たちはパーシャに囚われてしまいます。その勇敢な行為もあり、グルナータは海賊の首領コッラードを愛するようになります。その夜、彼の牢屋を訪れ、武器を渡し、パーシャ殺害を提案しますが、コッラードは躊躇。その間にグルナータは寝ているパーシャを殺害、コッラードと船で脱出。最終幕では、夫の悲運のニュースに絶望し、メドーラは毒をあおります。そこにコッラードが戻るのですが、時すでに遅し、彼女は死んで、それを儚んで、彼も自殺。
美しい曲がいくつもあるのに、このオペラの人気が最低だったのは、この活劇ができるテノール歌手が19世紀にはいなかったことも一因だったと思います。ここ20年位、スター的オペラ歌手も役柄にあった容姿(痩身とか、美人とか)で、どんな姿勢でも(寝た格好でも)でも歌えるし、2、3分の活劇もできることが現代のオペラ舞台の質を上げていることもあると思います。
そして次に豪華キャストのCDをお聴きください。海賊コッラードをホセ・カレラス、彼を死ぬほど愛す妻メドーラをジェッシー・ノーマン、回教徒の親分の愛妾グルナーレをモンセラット・キャバーレが歌っているのです。コーラスはアンブロジアン・シンガースという英国で有名な合唱団です。特に第1幕、第2幕第1場、そして第4幕が素晴らしいです。
次にこの章のタイトルにもなっていて、1849年1月にローマ市で初演になったプロパガンダ・オペラ「レニャーノの戦い」。これもヴェルディの26オペラのうち、上演数25番目の成績です。この事実は前の「海賊」と違い、内容的に平和の時代には全く合わないので、上演されないからだと思います。それでもこの著者が書いているように、プロパガンンダものであるにも拘らず、一番の欠点は敵の大将であるバーバロッサを偉大な将軍として描いていると、ある批評家は書いています。
この著者は1930年代に生まれた人ですから、第2次大戦中にハリウッドで作られたプロパガンダ映画を沢山見たようです。日本でも戦争中、多くのプロパガンダ映画が作られたとは思いますが、その実態は私は知りませんが、多分、反戦ムードを抑える悲しい、時には残酷なものだったと思います。ハリウッド製はエンターテインメントに徹して、予算も少なく、従って、マンネリ化していたと思います。この著者は戦後テレビが普及した時代に育ち、こうした映画を数多く見たと思われます。
このオペラにもいい音楽は全体にありますが、ラッパが鳴って、戦闘近しを暗示するメロディ以外には残念なことに、前出の「海賊」のような印象に残るアリアやデュエットはありません。しかし、ドラマの展開は早く、それでも各シーンは充実していて、全体の流れがきっちり進行するのは、セリフがいいからだと思います。それがカンマラーノの腕でしょう。この中に出てくるバーバロッサ、赤髭王は歴史上名将で知られていますが、この戦いは彼が50代の時。神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたにも関わらず、イタリア王国が彼のものにならず、何回にもわたって、北部イタリアを侵攻します。最後にこのレニャーノの戦いで敗れるのですが、直接原因は彼が落馬して傷を負ったか、または病気になったからだということです。いずれにしても彼の勢力はそれ以後回復しませんでした。
このオペラでは主人公アリッゴが最後バーバロッサに一撃を加え、自分も致命傷を負った英雄になっています。アリッゴはヴェロナ出身。ヴェロナはレニャーノと並んで、「4辺地域」の一隅です。バーバロッサはすでに北部イタリアの都市を征服していましたが、このオペラではミラノとコモを含む都市が同盟を組んで、対バーバロッサ戦を勝ち取り、イタリア北部はその後何世紀にも亘って、独立を維持したということですから、これほど当時のプロパガンダ・オペラにふさわしい題材はなかったと思われます。
YouTubeで探したところ、やはりヴェルディ生誕200年記念行事の一環で上演されたものが一番良いので、ここに入れます。オペラ・ハウスはトリエステのヴェルディ劇場です。できれば日本語の字幕が入ったものをYouTubeで探していただくと、内容がよく理解できると思います。複雑で早い筋の展開だけでなく、舞台の演出も一風変わった手法で、字幕なしでは、理解が難しいと思います。
それにしても、この初演に至る経過を読むと、全国から共和党有志たちがかけ参じて、法王庁のローマ市が共和国になる前夜に、ヴェルディも祖国愛を高揚するオペラを持ってローマ市に行ったことに、何か運命的なものを感じます。