人間ヴェルディ:彼の音楽と人生、そしてその時代 (3)
著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子
出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年
第一部
目次
第3章:ブセット町 その2
マンゾーニと彼の小説「許婚者」
ヴェルディは16才の時、マンゾーニの小説「許婚者」を読んだ。この本は彼に絶大な印象を与え、53才の時、彼は友人にマンゾーニについてとその時のことを、若いころの情熱を持って、手紙を書いている。「多分君も知っているように、私はあの作家に最高敬意を持っている。彼の小説は我々の時代の人間の頭脳が生み出した最高傑作の一つというだけでなく、人間への愛情そのものです。私が初めて読んだのは16才の時でした。それから私は多くの本を読み(中には偉大な作家のものも)、老年になって読み返すと、自分が思っていたほどではないこともある。しかし、この本だけは時代を卓越して、偉大なまま、いや、以前よりさらに偉大なものになりました。これこそ、“真実の本”、または真実そのものだと思います」。それから数年後、1874年にマンゾーニが亡くなった時、ヴェルディはその畏怖ともいえる敬意を「レクリエム」に表現した。
当時のイタリアの方言問題
「許婚者」は素晴らしいイタリア語の小説である。これはイタリア人にとって、スコットとディケンズとサッカレーを一緒にし、さらにトルストイの精神を吹き込んだものとされている。発表になった1827年当時のイタリアの社会の状況により、それ以降徐々に文学以外の面でも、重要な影響を及ぼすようになる。というのは、初版のイタリア言語に問題があった。
1827年当時のイタリアには、国語というものが存在しなかった。次第に国語になっていったトスカーナ地方の方言も、その頃はまだそこの方言でしかなかった。イタリア中の各地域には、時には、都市にも、その土地個有の方言があったので、ナポリの人は、ヴェニスの人の言葉を理解するには、ダンテが使った方言を元に発達したトスカーナ方言の仲介が必要だった。政治的にバラバラに分かれた当時のイタリアでは、国々の宮廷言葉や公的言語はマチマチだった。たとえば、公的言語としては、ピードモント王国とナポリ王国はフランス語、ローマ法王自治国はラテン語、ロンバルディアーヴェネチア、パルマ、トスカーナ、モデナなどのオーストリア帝国管轄下の公国ではドイツ語だった。しかも宮廷で話される言葉と民衆の家で話される言葉は全く関係がないことも多かった。たとえばミラノでは、マンゾーニと彼の家族はフランス語かミラノ方言のイタリア語で話し、ニースではガリバルディは家族とフランス語、またはリグリアン方言のイタリア語で話し、ブセットのヴェルディとバレッツィは皆パルマ方言で話した。19世紀の多くのイタリア人にとって、イタリア語は2番目、または3番目の言語だった。またヴェルディの両親のような田舎の人々は、そこの方言しか話さなかった。
イタリアの方言はイタリア国をバラバラにし、お互いを疑いの目で見る結果を生んでいた。19世紀になって、イタリア人が一国という意識を持ち始め、統一と独立を求めて形成されていったいわゆる「リソルジメント」運動の展開に、トスカーナ方言から発達した共通語の普及は大いに役立った。こうしてマンゾーニの小説は国語と分法の統一に大いに貢献することになる。
マンゾーニも、イタリアの他の見識者たちも、トスカーナの方言が、一番語彙が豊富で、美しい方言だという意見で一致していたので、彼は一般向けの小説を、この方言で書き始めようとするが、問題にぶつかる。まず権威ある辞書が存在しなかった。一番いいのは「Vocabulario della Crusca」で、この名前の学術院が発行したもの。辞書には14、15世紀のトスカーナ地方の作家の作品から語彙が取り入れられていた。従って、言葉は時代遅れで、16世紀以降には通用しない‘もの’や‘こと’が、ほとんどだった。騎士ものや宮廷のラブストリーを書く詩人にとっては良い辞書だったかも知れないが、19世紀の小説家には全く不十分だった。
さらなる問題は当時の美辞麗句の文体だった。18世紀を通して、イタリアでは芸術と生活の優雅さを奨励しようとする学術派の試みが盛んだった。ブセットにも2つあり、結果はさらにもう一つの方言というか、「文学口語体」とも言えるある種の新言語を生み出すに終わった。それ自身は良いことで、純粋で、些細なことの表現が可能になり、洗練さも増した。しかし、知識人でも、教育のある貴族でも、日常にこの口語体で話すものはいなかった。ましてや、ミドルクラスや農民の間では使われず、作家や文学者、政治家はそれを嘆いた。言語とはコミュニケーションへの橋ではなく、障害物だった。
マンゾーニの本はその障害を打ち破る最初の本だった。初版段階では、「文学口語体」での説明的な記述と、ミラノ方言による会話を混ぜることで、文学書として成功した。語彙はロンバルディア方言、トスカーナ方言、フランス語とラテン語から取り入れられ、さらにそのいくつかの単語の変形か、新造語が使われた。文体はシンプルで直接的だった。話の筋は、戦争あり、飢饉あり、疫病ありで、「17世紀のミラノの物語」という副題がついていた。マンゾーニは話の中に、史実に基づいたことや、現実に起こりそうなことや、誰にも一つくらいは通じるような脈絡をいくつも織り込んだ。治世クラスの無責任さ、主人公である農民たちの実直さ、ミラノの絹織物産業の創成期の様子、大惨事に面した時の人間の適応力、それに、話に一貫して漂う邪悪な人間への告発。イタリア半島で何百年ぶりに、読書力があるものは皆、ヴェルディのような田舎町の少年でも、同じ本を読むことができたのだった。
マンゾーニが1840年に、言語の一貫性などの修正を入れた改訂決定版を出すまでに、何度も訂正が行われた(現在まで520版)。彼は1827年にフィレンツェを訪れ、トスカーナ方言がイタリア全国の統一国語として、一番適当だと確信する。それから版を重ねるごとに、彼はトスカーナ言語に書き直しを続け、そのため、“アルノ川の水で洗われた‘という表現まで生み出した。マンゾーニは語彙だけでなく、文章の構成も口語体に近づけた。彼の小説は学校の基本教科書となり、ようやく編纂されたイタリア国語の辞書となった。他の国なら、ホーマーとか、ラシーヌとか、シェイクスピアが使われるところ、イタリアでは小学校の生徒はマンゾーニを朗読するようになる。現在、イタリアの公立学校では9歳からマンゾーニの勉強を始める。1830年にこれが始まった時、政治的にも重要な影響を及ぼした。この本、またはそれに相応するもの無しで、イタリアの統一は、可能でなかったと言われている。
ヴェルディの「許婚者」に対する感激は、政治的ではなかった。が、多くのイタリア人と同様に、彼は感動のあまり、進歩派や愛国主義派と感情的に自分を並べたと思われる。小説は政治的プロパガンダなしに、話は進む。しかし、主人公が悪政下のミラノ公国を出て、もっと民主的なヴェニス共和国に移住した時、人は自分で自分の世界を切り開く努力をすべきで、その決断において、政治形態は重要な要素だと言っている。この小説の前にマンゾーニは他の著書で(ヴェルディはこれも読んでいる)、もっとはっきりとその点を書いている。貴族的な祖国愛の悲劇と、ナポレオンの死(1821年5月5日)を扱ったものの2冊である。
後者のナポレオンへ「オード(捧ぐ)」は、ドイツやイギリスの同様の本をはるかに追い越し、ヨーロッパ全体で大評判になった。ゲーテはドイツ語に、グラッドストーンは英語に、ブラジルの皇帝はポルトガル語に訳した。マンゾーニは友人にこう書いている:ナポレオンの死のニュースに、私は世界には何か重要なものが欠けていることに気がつき、あの「捧ぐ」をかっ飛ばしてやろうという気持ちになった」と。彼は3日で「捧ぐ」を完成させ、その間ずっと、妻に軍隊行進曲をピアノで弾かせたらしい。
ヴェルディは「許婚者」を読んだときに、多分「捧ぐ」と悲劇の本も、発見したはずだが、プロヴェージの勧めで、もっと早い時期だったかも知れない。これらの本にもヴェルディは強い共感を覚え、1840年に「捧ぐ」に曲をつけ、悲劇にはコーラスを入れた。彼はこれらを例によって出版させなかったが、ある時古い作品を処分している時、この曲だけは捨てずに残した。それは彼にとって、いかに意味あるものだったかを示している。
ナポレオンとイタリアに残した彼の進歩的思想
ヴェルディの幼、小、青年時代のイタリアにおいてナポレオンの名前は、もっとも憎まれ、もっとも議論され、もっとも敬愛された。彼の肖像画は家々の暖炉やドアの上に飾られ、何千という男の子は彼に因んで、ナポレオンをいう名をもらった。多くの親にとって、近代において途轍もない人間エネルギーを爆発させた男が、世襲的にはイタリア人だったというだけで十分だった。コルシカはずっとイタリア国の一部で、彼が生まれる5ヶ月前に、思いがけず、フランス国になったのだった。その他の人々にとっては、そんなことよりも彼の彗星的出現で、財産や生まれではなく、本人の能力が社会における地位を決定し、芸術、政府、法律などの分野では特に、血統や社会的特権は必ずしも成功に結びつかない民主主義的世界を意味した。現実に、彼は北イタリア地方からオーストリア帝国を追い出し、ミラノ、パルマ、モデナの公国、ボローニャとフェラーラの法王領、それにロマーニャ地方から、ヴェニスとスイスの端まで含むチサルピナ共和国を設立した。その国の国境がどこまでということより、イタリアでもっとも躍動的で革新進歩的なミラノ、パルマとボローニャを含む地域が入っていたことが重要な点。彼らはその時に味わった自由と自治政治の短い体験を、一生忘れられず、それを求めてひたすら動いた人も多かった。
ナポレオンを嫌う人にとって、理由は簡単だった。彼の兵隊達は、自分たちは自由と解放をもたらす革命軍ということを忘れ、彼らが追い出した前圧政者の軍隊となんら違わない行動だったからだ。1805年、ナポレオンは共和国の憲法を廃止し、イタリア王国の国王として、ミラノ大寺院で王冠を自ら頭に乗せた。彼は奴隷狩り同然の徴兵制度で、イタリア兵をかき集め、彼がロシアに引き連れた兵隊のうち、フランス兵はたった3分の1だった。金や影響力がある人間は(ロッシーニはその一人)、それを使って徴兵を逃れたが、農民はそんなことはできなかったので、彼らはナポレオンを恨んだ。社会の全てのグループが災難を被ったが、ナポレオンの物資調達や強制供出などからのインフレもあり、常に一番苦しまされたのは農民だった。聖職者と敬虔な信者も、彼を嫌った。彼は無神論者と言いながら、宗教の目的は平等の考えを天国に掲げることで、金持ちが貧乏人に殺されないようにするのが目的と言い放った。そしてイタリア芸術を誇る人々、特に芸術品所有者達は、ナポレオン軍の組織化されて、よく研究された略奪行為を憎んだ。ナポレオンはその意図的な方針により、最高の芸術品で動かせるものは全部、新しいローマ、つまりパリに送るように命令した。例えば、ヴェニスからは1797年に4頭の青銅の馬の彫像、サンマルコの獅子像、胸像、浮き彫りレリーフ、特別に貴重なカメオ1点、絵画16枚、230枚の古文書、それに写本253点が持ち去られた。その他バチカンを含む全ての都市では、その地でベストの芸術品を差し出させられた。当然のことながら、所有者達の不平不満は募り、彼への怨恨の原因になった。全イタリア人にとって、とにかく屈辱だった。
後になって、戻ってきたものもあった。1815年10月23日と24日に、200頭の馬が引く41の荷馬車がイタリアに向けてパリを出発した。4頭の青銅の馬の彫像は、それぞれ特別に作られた箱に入り、6頭ずつの馬に引かれて、アルプスを越え、18年前に引き抜かれたサン・マルコ広場で荷解きされた。しかし、多くの作品はパリに残ったままで、1926年になっても、略奪品の多くは、兵隊のやったことだからとか、もし兵隊が絵画を持ち出したというなら、彼らも理想的に行動したからだろうとか弁解して、ルーブル美術館のカタログに載ったままになっていた。ナポレオンに関しては、常に良いことと悪いことが、両極端で起こった。ルーブル美術館はこれらの芸術作品を人類史上初めて一般公開したので、ヨーロッパ中のアーティストも、ツーリストも、一般市民も、それまで私設ギャラリーに入っていた芸術傑作の数々を、見ることができるようになった。ナポレオンのイタリア攻略の結果、20世紀では当たり前になった芸術の民主化が、大いに促進されたのだった。
ナポレオン第2夫人マリールイーズはパルマ公国の領主
ナポレオンの失脚で、イタリアは芸術品の一部を取り返したが、国内の自由解放度は以前と変わらなかった。ウィーン会議で、ミラノとヴェニスの2地方はオーストリアに与えられ、属領イタリア王国として再編成された。パルマ公国はマリー・ルイーズに与えられ、ルッカ公国はナポレオン攻略前にパルマ公国を統治していたスペイン系下級ブルボン家に行った。その他、モデナとトスカーナの王国は、それぞれ以前のオーストリア帰属の治世者に戻された。真の意味で独立を保てたのはナポリとピードモンド・サルディニア王国だけだった。
こうした強制的な再編成の水面下で、ナポレオンがイタリアに初めてもたらした民族主義や立憲政治などのアイディアは、引き続いて疼き続けた。そして彼の失脚もその後の死も、これらのアイディアについてのイタリア人同士の対立を解消したわけではなかった。これらアイディアを好んだのは進歩的な貴族、種々のアーティスト達、ミドルクラスの一部だった。反対したのは教会と地方自治政府の職を維持できた貴族と、教区教会の牧師の言うなりになるほとんどの農民だった。意見の相違はありとあらゆる濃淡を呈していた。一番大きいグループは、初期のナポレオンの革新的法律と憲法を尊重する共和党員たち。他にはナポレオンを皇帝とする政治的理論を好む人々、その他、立憲君主制を好む人もいた。小国の中でも一番小さく、一番おとなしいパルマ公国にある、小さな町のブセットでは、時代の政治的動きの主流から、遠く離れていた。しかしヴェルディがその問題について無関心だったとは思われない。彼の読書リストを見ると、そうではないことがわかる。それに彼の二人の教師、プロヴェージとセレッティは対立する考えの持ち主。ヴェルディがプロヴェージから音楽以上のことを吸収したことは、当然の成り行きだっただろう。彼はいつも政治のことはわからないと言い、若い時は政治的行動や共謀参加などは避けているが、彼は共和党シンパで、反オーストリア帝国で、反聖職者だった。
1831年の反逆未遂事件
陰謀は常に計画され、反逆未遂事件は定期的に勃発した。多くは2、3人が関わり、犠牲者の数は少なかった。初期の、そして一番重要な未遂事件は、フェデリコ・コンファロニエリ伯爵が殉教者となった事件だった。彼はジェニー機織り機を北イタリアに持ち込み、地域の木綿布産業をスタートさせたので有名だった。彼はポー川で最初の蒸気船を走らせたことでも知られていた。彼は共和党員で、革命の試みは1821年4月にミラノで起こった。
計画ではピードモント王国の立憲君主主義者の政党と手を組んで、オーストリア軍をミラノから追い出すはずだった。時期が悪かったし、全てにおいて運が悪かったが、最終的にはピードモントの皇太子、カルロ・アルバートの説明のつかない躊躇と裏切りだった。彼の野営隊補佐官はアルバートの変心に慄き、皇太子の頰を打ち、足で剣を折り、外国に亡命した。
コンファロニエリは囚われ、死刑は避けられたものの、終身刑でボヘミアにあるスピルバーグ政治犯用の牢に繋がれた。1840年に、死を前にした父親を見舞うため、仮釈放された時には、すでに彼のスピリットは砕かれていた。
コンファロニエリに判決が下った時、ヴェルディは8才で、まだロンコレ村に住んでいた。村の農民たちがこの事件を知っていた、または気にかけていた、または論議していたとは思われない。これはミラノで起こったことで、ミラノは外国で、行くにはパスポートが必要だった。しかし、もっと大きなコミュニティであるブセット町で、彼はこの問題についての論議、口論を常に耳にしただろう。コンファロニエリ事件以降にも、何人もの殉教者が生まれ、次の反逆事件は、彼のお国、パルマ公国が絡んでいた。
事件は1831年2月3日にパルマ公国のすぐ南と東に位置するモデナ公爵領で始まった。ヴェルディは17才だった。この時革命家たちはイタリアの国王はナポレオンの唯一の嫡出子であるべきだという声明文を出した。レイヒスタッド大公(=ローマ王)のことで、当時彼は20才弱で、ウィーンで宰相メッテルニの金の鎖に繋がれていた。声明文では彼は不死のナポレオンの血から生まれた国王だからという理由だった。大公の母親はナポレオンの元王妃のマリールイーズで、パルマ公爵領の領主である。革命家たちがパルマ公国の領主を、イタリアでナポレオン2世と呼ばれた若い大公に据え換えると声明文で主張すると、近隣のボローニャも、フェラーラも、ラヴェンナもフォーリも賛成を表明し、1週間後にパルマ宮殿は攻撃された。ナポレオンに付き添ってエルバに行くことを拒んだマリールイーズは、ウィーンに行って息子に会うことも、滅多にしなかったのだが、この革命家たちの囚われの身となった。しかし、4日後、彼女は脱出に成功し、(誰も彼女を傷つけることなど考えていなかった)オーストリア軍が固めるピアチェンツァに逃げた。ブセット町はパルマ市とピアチェンツァを結ぶ主要街道上にあり、人々は大公爵夫人の護衛騎士団と騎馬隊が駆け抜けるのを見たし、駅署で馬の交換をするために、馬車が止まったところも目撃できた。市民はそれぞれの政治的な立場により、進行するドラマに一喜一憂した。
マリールイーズが、パルマ宮殿で監禁になった時は、実に勇敢に抵抗したし、ピアチェンツァへの脱出は、ちょっとした武勇談として、ウィーンで評判になった。革命家たちはパルマ市に革命臨時政府を結成したが、1ヶ月後オーストリア軍が両公爵領地の治安を取り戻した時には、彼らは地下活動家または外国亡命者となった。イタリア国王候補である若い大公は、母親を救助するため、軍隊を率いるとウィーンで喚いていた。彼はイタリアに行ったことがなく、パルマの母親を訪ねたこともなかった。母親もそれを望まず、ましてやメッテルニヒが許さなかった。彼の名前と境遇は、あまりにも扇情的だった。18ヶ月後、マリールイーズは無事パルマ公国の領主の座に復帰し、息子は結核を患ってウィーンで死ぬ。彼はオーストリア帝国政略のポーン駒で、彼自身の家系の虜だった。
この革命ザタがあったにも関わらず、マリールイーズは1847年に亡くなるまで、ヴェルディが覚えている限り、無事領主役を維持することができた。当時のイタリアの標準から行くと、彼女の治世は長く、穏健だった。長い治世はオーストリア政権が、彼女の息子の扱いを変えた結果だった。ウィーン会議の決定では、息子が彼女の跡を継ぐことになっていた。ところが、父親のナポレオン1世がエルバから脱出し、さらにワーテルローの100日をやった。彼は敗戦を認識した時、皇帝の位を退き、代わりに息子がフランス帝国の皇帝、ナポレオン2世だと宣言した。しかし、パルマ公国の皇太子はまだ幼く、母親とウィーンにいた彼は、大渦巻のパリよりも、パルマの淀んだ地を選んだ。メッテルニヒと他の政治家は、あの「100日」の苦い経験を忘れていなかった。マリールイーズは息子の後継者権を諦めさせられ、後任権はルッカ国でくすぶっていたスペイン系下級ブルボン家に行くことになった。このことが彼女の長寿につながった。パルマ公国では誰もあの残酷さで知られたブルボン家に支配されたくなかったのだ。
彼女の穏健な治世は彼女の性格を表している。ナポリのブルボン家王、ローマの法王、モデナ公爵などの支配下で喘いでいた人民は、パルマ領民をうらやましがった。彼女の宮廷はオーストリア人に占拠され、彼女の政策は全てウィーンのメッテルニヒによるものだった。しかし、彼女自身、残酷な人柄ではなく、また個人的に悪意を持っていなかったので、おっとりとアートなどを奨励した。彼女は今でもパルマ市に健在するテアトル・レジオを建てさせ、彼女自身その劇場での観劇に浸った。時には、ちょっとまずい状況にもなった。彼女はナポレオンがセント・ヘレナで死んだ事実を否定していたので、ロッシーニの「セビリアの理髪師」の中の、それに関するセリフは、彼女に聞こえないようにしないといけなかった。その頃までには、彼女は縁遠くなった皇帝への思いも残ってなく、彼のデスマスクが医師から送られてきたとき、彼女はそれを侍女の子供のおもちゃにあげたらしい。彼女が好んだのは‘男’で、最初の恋人はオーストリア人のニッパーグ伯爵。彼女を満足させ、妊娠させるのに成功した。彼との間にモンテヌオボと呼ばれた私生児が何人もでき、ナポレオンの死後1ヶ月以内に、彼と結婚した。長い間、私生児についても、結婚についても、ウィーンにいる彼女の父であるオーストリア帝国皇帝に隠し通すことができたことに、当時のコミュニケーションの難しさが表れている。ニッパーグが1829年に死ぬと、また男狂いが始まり、彼女の寝室への往来は監視された。その後彼女は、政治的重要性も、個人としての評判にも全く欠けた領主になった。
慈善基金協会
パルマで革命未遂が勃発した1831年、バレッツィはどうしても、ヴェルディをミラノで勉強させる決心をしていた。ヴェルディはソラーニャ村のオルガン師の職がダメになった後、引き続き、ブセット町でプロヴェージのもとで勉強し、またアシスタント役をやっていた。彼は地元ですでに有名だった。他の町から、人々は彼の音楽を聴きにブセットにやって来たし、彼は交響楽団を引き連れて、ブセットの周りにある町村へ演奏に出かけ、指揮をした。彼はそのときブセットを出て勉強を続ける(それには多額のお金が必要)か、または音楽家として、ブセットで種々の仕事をしながら、経済的に自立していくかの2者選択を迫られていた。父親のカルロ・ヴェルディは後者の選択で、そろそろ実家に戻って、家族を助ける時がきたという意見。たとえそうなったとしても、父親のように、塩などの行商をする必要はなかっただろうが。
バレッツィの考えは違った。その頃までに、彼はヴェルディの才能は底知れずで、最高の勉強のチャンスを持つべきだと考えていた。ということは、適度に良い音楽院と宮廷劇場のあるパルマ市ではなく、イタリア一の音楽院と最高峰の劇場、スカラ座のあるミラノだった。ヴェルディがどう感じていたかは不明だが、彼が意志に反して、ミラノに行ったのではないことは確かだろう。が、彼が、話が持ち上がっているミラノ行きについても、常に深い思いやりを見せていた家族への責任などについて、どう思っていたか、まるで証拠がない。もし、プロヴェージが昔言ったこと: お前のように音楽を愛すものが、それに十分にコミットしなければ、一生失望と苦い思いを抱くことになると忠告したことを忘れたのだろうか? 残念ながら、それに関する記録は何もない。しかし、彼の一生をみても、後年の彼の手紙やオペラのセリフからも、彼はこの種の葛藤には気がついていて、だからそう簡単に決心ができなかったのだろう。
バレッツィの計画は、町の慈善基金協会が出している奨学金制度に応募することだった。これは17世紀のコレラ流行の後に、ブセットに設立された機関だった。疫病で子供を失った人々が、死んだ子供を記念して基金を作り、町の困窮している人々を支援し、貧しい家庭の子供の教育のために奨学金を出す目的で、この協会を設立した。バレッツィにせっつかれて、カルロ・ヴェルディは1831年5月14日に、自分自身の希望には目をつぶって、この基金に奨学金申請書を提出した。「わが息子はすでに、目覚ましい音楽の才能をみせてきたが、音楽芸術をさらに完うする勉強のために奨学金を出していただきたい」。だが、基金からは何ヶ月も何の返事もなかった。
ヴェルディ、バレッツィ家宅に移り住む
カルロ・ヴェルディが奨学金申請をした同じ日に、バレッツィはヴェルディに彼の家に住んでくれるように頼んだ。もう何年もヴェルディは、ますますバレッツィ家の一員のようになっていた。彼はほとんどの食事を彼の家でした。彼はバレッツィの店の会計の仕事も手伝った。彼はバレッツィ家の子供たちにピアノを教えた。だが、彼の家に引っ越すことは、バレッツィ夫人のアイディアだった。その2晩前に、近所に住むアイザック・レヴィが殺害された。強盗は農園を売却したお金を狙って、召使いの手を借りて夜中に忍び込み、彼を起こし、口輪をして、屋根裏でノドを刺した。犯人はまだ捕まらず、バレッツィ夫人は、彼女が証人とも言えることから、自分の家が次に狙われると恐怖におののいた。彼女はヴェルディが夜中まで、作曲やら読書やらで起きていることを知っていて、この17才の青年がちょうどいい用心棒になると思った。夫人はバレッツィ氏に、彼は毎日一日中、この家にいるのだから、夜いたっていいじゃないと言った。バレッツィは、それはいい考えと、すぐにヴェルディに引っ越してくるように頼む。
彼とバレッツィ家の長女、マルゲリータは恋に落ちる
当時バレッツィ氏の家族は、妻のマリア、3人の娘、その下にジョバンニという息子、それに赤ちゃんのデメトリオだった。長女のマルゲリータはヴェルディより5ヶ月下で、穏やかで、綺麗で、音楽好きな娘だった。数ヶ月、同じ家に住み、笑ったり、デュエットを歌ったりしているうちに、彼は彼女を愛すようになり、彼女も彼を愛すようになる。彼は彼女を‘ギータ’と呼んだ。彼らの間の最初の愛の手紙とかノートとかは存在しない。いつも一緒だったからだ。
時が経って、この相思相愛の関係が気づかれた。どうやってかはわからない。バレッツィ夫人がある日ピアノのそばで、手を握っている二人を見つけたのだろうか?それとも弟が、二人がキスしているのを見て、騒いだのか?それか彼がいつも彼女を特別扱いしたからか? 多分最後だろう。当時の習慣では、キスはスキャンダルになり、すぐにバレッツィ家との関係は切れただろう。少なくともヴェルディとの個人的な関係は。当時の恋愛は、特にバレッツィ家のような家庭では、家族生活の中で花開くのが普通。そして、年齢に関わらず、劇場に行くにも、マーケットにも、通りに出るにも、娘にはいつもシャペロンがついて行った。シャペロンは姉とか兄とかのこともあるし、とにかく出かけるときには必ず‘二人で一緒に’だった。現在でも、特に南イタリーなどでは、女の子の最初のキスは、牧師が祭壇で二人を結婚させた後という。どうやって、彼らの恋が発見されたかはわからないが、バレッツィ氏は喜んだ。夫人の方は多分、行動にいろいろ注文をつけただろうが、二人の関係は正式ではないが、公に認められた。ヴェルディはその後も、彼らの家に住んだ。ということは、両親から信頼されていた証拠だろう。マルゲリータは、町一番のリーダー格で金持ち市民の、長女なのだ。彼女は結婚適齢期に近づいていたので、町の親たちは、ヴェルディがいつも一緒で、結婚相手として妥協せざると得なかったのではないかと同情したかもしれない。景気のいいビジネスマンとしては、ただただ音楽を作曲したいという貧農の倅との結婚は、不釣り合いだと考えただろう。
しかし、バレッツィは普通とちょっと違っていた。彼の子供たちがヴェルディの存在を、疎ましく思ったことがなかったのは、バレッツィ氏の育て方と、真の愛情を持って接していた証拠だ。ヴェルディの方も、自分の身分を恥じたことはなかったようだ。バレッツィ家の子供たちとヴェルディは、大人になってからも良い関係が続いている。バレッツィのヴェルディに対する寛大さから、彼の人格はぼやけて、他には何もない、うまく世渡りした、単なる田舎の金持ちくらいに見られることもあるようだが、それは違う。彼は成功したビジネスマンで、町のリーダーで、それでも、神童ではないが天才的才能を持った子供を発見し、養護するエネルギーと興味が彼にはあったことを忘れてはならない。そして、ヴェルディがイタリア一の偉大な作曲家になったとき、バレッツィは何も見返りも求めず、ただヴェルディがどうやっているかのニュースを欲しがった。彼のヴェルディに対する寛大さは、2重の愛情から生まれた。彼自身の音楽への愛情、そしてブセットで何年にも亘って、育まれてきたヴェルディに対する愛情。二人共が単純に、そして常に信じたことは、ヴェルディが偉大な作曲家になるだろうということだった。
バレッツィ氏は奨学金を確保して、ヴェルディをミラノに留学させる
慈善基金協会への申請書は1831年の5月に提出されたが、12月になっても、何の知らせもなかった。バレッツィとプロヴェージに相談し、カルロ・ヴェルディは再度息子に代わって請願した。今回はパルマ領主のマリールイーズに直接嘆願書を出し、それまでの経緯と申請書の目的を説明した。公爵夫人は領主として、彼女の領域内にある慈善事業の経営に興味があり、内務省を通じて、この経緯を調査し、すぐに返事をよこした。それによると、4つの奨学金は全部進行中で、1833年の10月まで空きがないと説明された。まだ18ヶ月も先のことだが、1832年1月、ブセットの町長が、バレッツィとカルロ・ヴェルディに、ヴェルディの奨学金は1833年11月から下りると通告してきた。基金はミラノでの高い生活費と学費を考慮して、4年分の奨学金を2年間に支払うことを約束する。それに対して、ヴェルディに要求されていることは、毎年、担当の教授から、彼の能力、就学進行状況などを書いた証明書の提出だけだった。若いヴェルディはすでに並外れた音楽能力を持ち、さらに行動も規律正しいので問題はない。
バレッツィはすぐに1年分の奨学金を立て替えて、ヴェルディが1832年11月からスタートできるように提案する。学期年は11月から6月末まで。さらにバレッツィは6月にミラノ音楽院の試験を受けさせるため、ミラノ行きの費用も(他に誰もする人がいないため)支払うことになる。ミラノに行くにはパスポートが必要で、ヴェルディはすぐにパルマ市の国務省に申請し、5月の末に受け取る。多分、その月、ヴェルディはロンコレ村まで歩き、村のオルガン師として、最後のお役目を果たした。9年間務めたこのポストから退任したのだった。
6月の初旬、彼は父親とプロヴェージとミラノへ出発する。彼はそれまで大都市に行ったことがなかった。それどころか、ブセットの近隣地域の外側に出たことがなかった。彼のパスポートにはこう記されていた: 年齢:18才、身長:高、髪の色:栗茶色、目の色:グレイ。前頭:高い、眉毛:黒、鼻:鷲鼻、口:小、髭:濃い、顎:楕円、顔:細面。肌:青白、特記事項:顔にアバタ跡
【翻訳後記】
この章から、この著者が得意とする「その時代」の歴史的、社会的背景が、多く説明される。
[マンゾーニについて]
彼の「許婚者」がヴェルディに与えた影響だけでなく、この本の成功がイタリアの国語の成立に繋がった経緯は、非常に興味深い史実。
2021年秋にミラノのブレラ地区にあるピナコテカ(イタリア語でアート・ギャラリーの意)に行った時、思いがけず、マンゾーニのポートレートに出逢う。本文に入っている彼のポートレートのスケッチ絵の挿し絵は、この油絵をスケッチしたようだ。
さらに、このポートレートの隣に、どこかで観たことのある絵がかかっていた。それは私が持っている英語版「The Betrothed (許婚者)」(ペンギン・クラッシックス版)の表紙に使われていたことを思い出した。パリス・ボルドーネ(1500~1571)による「ヴェニスの恋人たち」という絵だった。マンゾーニの「許婚者」は副題が示すとおり、17世紀のミランのお話だが、雰囲気はよく出ている。さすがペンギン社だ。左奥からボーッと寄ってきた男は何者か?いまだに、わかっていないとのこと。「許婚者」の話には、それらしきことがあるのかも知れない。早く読んでみたい。
[ナポレオンと美術館について]
ナポレオンについて、学校では習わなかった歴史的事実に触れている。当時のイタリア人からどう評価されていたかなども興味深いが、ナポレオンがイタリア王国を設立して、夥しい数の美術品を押収して、パリに持っていったことは意外な1面。ルーブル美術館の一般公開について調べると、フランス革命政府は、1793年に、それまでルイ王朝家のものだった美術館を一般市民に開放した。当時は500点くらいの美術品が展示されていたが、ナポレオンが征服した各地からの略奪品を持ち帰ったので、その数は何十万点になる。それを収納、展示するためにルーブル美術館は大幅に拡張された。その過程に指名され、従事した館長は、ナポレオン美術館と名前を変えた。
強制移動の代表的作品はヴェニスのサンマルコ寺院の4頭の馬の彫像。ナポレオン失脚後、これはヴェニスに戻されたところまで、詳しい描写が本文に入っている。この馬の彫像は、イタリア人の製作ではなく、本文にあるように、第4次十字軍遠征中にヴェニス軍がイスタンブールから略奪してきたもの。
私はこの夏ヴェニスで、この馬を見た。サンマルコ寺院正面2階のバルコニーにあるのはコピーで、本物は中のミュージアムにある。銅製なので、汚染された空気に弱く、こういうことになった。
[パルマ公国君主マリールイーズについて]
パルマ市にある彼女の宮殿跡が彼女のミュージアムになっている。宮殿と言っても町の真ん中の大きなブロックを占めたタウンハウスで、彼女が建てさせた宮殿劇場から、徒歩5分。現在は一部郵便局やオフィス・ビルディングになっている。
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