毒親ならぬ毒娘?:『真綿の檻』5巻を読んで考えたこと
久しぶりに、読後しばらく余韻にひたるような漫画を読ませていただきました。これは考えさせられます。『真綿の檻』(尾崎衣良著)5巻の感想です。
こちらの作者さんの漫画はいくつか軽く読んだ程度ですが、「〇○だと思っていたら実は▲▲だった」といったミスリードを誘うのが十八番なんでしょうね。絵柄もきれいで読みやすく、1話1話の完成度が高くて素晴らしいなと思いました。
!!ネタバレ要注意!!
ざっくりあらすじ
「母と娘」がテーマのオムニバス作品、3話目に該当します。ザックリとあらすじを書きます。ひとつの親子の物語が、娘・母親・息子の3視点で語ることでまったく違う見え方になっていく仕組みです。
1章では「毒親に育てられ、傷を負った娘」の視点で語られます。ここだけ読み娘に同情していると、次の章にて裏切られることになります。母親と息子の目線では、自分のことしか考え行動できない娘と、やはり自分のことしか考えていない父親、不器用ながら娘と息子を愛し守ってきた母親の奮闘が描かれます。
娘は徹頭徹尾自分の見たいものだけを見ており、「子供の自分は丸ごと許容されるべき、親は少しの疵瑕も許さない」というなかなか強引な生き方をしております。それが親を「毒」と言い放つ前章の背景でした。
そう、毒なのは親ではなく娘だったのです。
母も娘も、そして深いトラウマを抱えているだろう息子も、きっと完全に救われることはなさそうです。もうなにが悪かったかと言われれば、あの父親と結婚して子供を産んだのが間違いだった、男を見る目と見限るタイミングがまずかった、となりますね。
旦那の支払った養育費合計6万て。ペットの養育費だとしても足りないわ。
毒親の境界線
親ガチャ・毒親といった、よろしくない親に対して非難する言葉が浸透して久しいですが、その言葉が語られるとき、親側の目線が抜け落ちた一方的なものが多いように思います。この物語ではなんとなくモヤモヤしていたことに焦点を当ててくれたという感想です。
自身の親の名誉のために言うと、私の親は精神的にも経済的にも子供を愛し守り育ててくれた、「ふつう」の親です。にも拘わらず私は毒親に代表するような親と子の関係性について以前から興味がありました。
どんな「ふつう」の家庭の中にも歪みは発生するし、100点満点の家庭なんて幻想はあるわけありません。国民的アニメサザエさんの家だって、カツオに対しての当たりの理不尽さやタラちゃんへの躾の甘さなどツッコミどころがたくさんあるのです。
ちょっと「毒親」の定義について調べてみると、完璧な家庭というのはない、というのは前提でした。ネガティブな働きかけを継続的にしていること、自己愛が強く、よって子供の人生を支配してしまうこと、というのが毒親のようです。
うーん、いろいろと紙一重というかんじがします。
もちろん本物の毒親に苦しめられている人たちに、「親の立場になってみろ、完璧な親なんていないぞ」と、溺れてもがいている人の頭を押さえつけるようなことが言いたいわけではありません。
ただ、毒と呼ばれる親とふつうの親との境界線は、言葉ではっきりと引くことはできないだろうな、と思いました。
この作品の母親は毒親だったのか?と問われれば私はNOだと思います。完璧な母親ではなかったでしょう。ですが娘のアレルギーと戦い、クソ旦那のDVから息子を救い、たった一人で家庭を守り抜いてきました。そこに自己愛は感じません。
でも娘の苦しみが嘘だったかというと、少なくとも娘の主観では真実です。人の感情に客観的な診断は意味がありません。たしかに自己中で倫理観にも欠けており、決して友達にはしたくないし身内に居たら嫌すぎる人間性ですが(笑)、「さみしい」という気持ちを抱えて歪んで大人になってしまったことは否めないでしょう。
毒だと一方的に論じてしまうだけだと、親側も子供側も本質的な苦しみが何か分からなくなってしまう危険性があると思いました。
私の考える「多面的に人を見ること」
「娘が悪かった!母親が可哀そう!」という感想ではこの物語の伝えたいことと真逆になってしまいそうです。
どうしたら一方的ではなく多面的に人を見ることができるのでしょうか。
私は、人間が本当の意味で多面的に人を見るのって不可能だと思っています。なぜなら事実・事象と感情を完全に切り離すことはできないから。認知の歪みは感情とセットです。
私は普通の家庭に生まれ育ちましたが、自分にも他人にも攻撃的な人間性をはぐくんでしまった自覚があります。相手のバックグラウンドも知らずに否定したり、よく知りもせずに批判したりなどお手の物です。自己嫌悪でよく落ち込みますが、それも延長で攻撃の矛先が自分に向いただけです。
多面的にみるための私の結論は、「ジャッジしない」ということです。
抱えた感情もジャッジしない。感情はある程度オートで発生するものだから、どんな嫌な感情だとしても否定しない、比較しない、評価しない、を鉄則にしたいです。ネガティブな気持ちを抱えてしまうのは個人の自由です。外に出さなければいいだけです。
同じく人間関係も、目の前で起きた事象も、「いい」「わるい」でジャッジしてしまうと本質から逸れてしまう気がします。発生している問題や自身の感情・思考に対し誠実に向き合い、それぞれの結論を出していくしかないんでしょうね。
ふんわりやわやわな結論になってしまいました。今後また自分の考え方も変わっていくんでしょうけど。終わらないテーマです。
現実にあった怖さ
この作品を読んだ直後、SNSでこんな発言を見かけました。
といった内容です。すぐにこの作品を思い出しました。
これに対してのコメントが怖いと思いました。「かわいそう」といった同情、「あなたの素晴らしさは分かる人にはわかる」といった励まし、「そんな上司はきっと幸せになれない」といった上司への呪い。
これ、わかんないじゃないですか。この発信した部下がどんな人か。
もちろんただただ上司が口の悪い、相手を不快にさせる達人さんだった可能性はあります。
でもたとえば、この部下がめちゃくちゃ人の話に被せてくるタイプの人だったら?何か上司が話そうとしても被せて自分のことばかり語ったり、何か指摘をすると必ずほかの人への愚痴に転嫁させるような話をする人だったら?
そしてそれを、何年も何回も我慢して、つい口から溢れてしまったセリフだったのだとしたら?「言った方は忘れている」のは、部下側の墓穴発言だったのだとしたら?
すべて可能性の話です。でもその可能性があることを知っているか知らないかで、何を口にするか変わってくると思います。
作品の結論は、息子の婚約者に委ねられています。彼女は娘のSNSを見て、独白を読んで、息子の話を聞いた上で「目の前にいる優しい息子と母親を大切にしたい」という結論を出しています
そんな風にフラットにいられたらよいのですが、できるようでできませんね。がんばりたいものです。