優しくて損をするとき
誰かの講義などの話を聞くとき、その話の質が悪いなと思ったら自分は話に傾ける耳を30パーセント程度に抑えて残りの分でほかに自分のやるべきことをするのだが、せっかく話してくれているのに申し訳ないなと思ってしまう。その申し訳なさは自分からすれば厚かましさにも思え、相手からすればありがた迷惑にもなるだろうに。特段話を聞かなければならない状況でもない限り自分のことに時間を使うほうが大切なのであろうに。人の気持ちになって考えていて偉いねと言われることがしばしばあるが、その分自分、自分を捨ててます。結局自分が自分に思う’やさしさ’も、今さっき言った申し訳なさも自分を捨てているところからきている。
自分はそんな時にさらなる挫折を味わい、また、優しいから何もしてこない=何をしてもいいとか思っている人間を見てきて、今、とうとう優しさのない別の人格を自分の中に作ることにした。蹴落とし、裏で工作し、暴力や恐怖も用いながら人を服従させられる、’力’ある別人格だ。もちろん普段の人格では当たり障りのない笑顔を用いてこの’力’を良い方向へ使うつもりだが、優しくする価値のない人間もいるので、その時のための人格だ。これから罪を犯してでも大事なものを守るときが来るかもしれない。そのときのために価値のない人間の殺害を合法化できるくらいの’力’を手に入れておくのも得策なのかもしれない。