優しさの無力感
自分は優しいと言われることが多かった。
自分でもそう思っていた。
でも違うのか。
思いやりと理性に満ちた優しい世界であってほしかった。でも違う。軽いノリなのかもしれないが多くは他人に無意識に優劣をつけ、自分磨きと言いながらも内心は他人より優位に立ち自分の理想を押し付けられる状況をつくり、自己に満足するのを望んでいる。私自身はどうなのかというとそうだ。私は人生において’余裕’を持ちたいなんて思うのだがそれは自分や他人が温かい心でいられるようにするためだ、というのも実はただの建前なのかもしれず、結局自分の人生における’余裕’とは他者より優位にあることに依存し、自分が優位(と哀れにも思い込んでいる)前提があるから他人に優しくできるのかもしれない。
自分は優しく生きてきた(つもり)。自分を殺してでも家族や周りの人々を思いやった。それを悪用された。結果自分が消えた。それから自分を探した。探す途中で形成されもした。そしてさらにありきたりを嫌って自分を作った。そしてあまり他人に理解されなくなった。そのころには自分の本心ともう一つ自分を観察するオブザーバーを飼育した。大きなエネルギーを使って本心と違うことを何度もした。自分の自意識過剰も少なからずあるが、優しくしても無駄な人間もいる。これからはこうした人間に多面的な’力’を用いて、あわよくば理性と思いやりにあふれるほうへ、だめなら多面的な破滅へと自分で手を下すことなく導いていきたい。もう性善説なんて信じられない。