資本主義のための革新 俺がめっちゃ得意なことだけをやって、他の仕事は全部、人に頼む。そして飛び抜けた成果を出す。優秀さはこう使うのが、1番周りを豊かにする

イノベーションが、つまり革新が無いと利子と利潤が0になり、資本主義から社会主義に変わり、社会が回らなくなると。

まあ多分そうなんだよな。金が余ってても回らないってのは、ほしいものがないから貯金するから景気が悪くなると。だからどんどんほしいものを作って、経済を回さないと。でもそれで良いのかな、って気もするよな。社会主義的で良いじゃん、っていう。これは結構先見的で、その通り、ってか、シュンペーターもそう言ってる。100年前に。

利子が2%を切ると流動性の罠にハマるから、つまり消費も投資も増えなくなってケインズ系の施策も全部効かなくなるからそれだけは駄目だと。流動性の罠はマジで勉強したい。ケインズの理解を徹底したい。

価格は市場が決めるものだし、人間は疎外される。それを命令して動かそうとしたら上手くは行かない、ってか、経済は悪くなる。ってのを不動産に対してやったせいでバブルの後からずっと景気が悪いと。市場で決まるものは市場の好きにさせろってのは、ケインズとかってか経済学のベースだったと思う。

科学的な思考ってのは別にそこまで難しいもんじゃないんじゃないか。なんとなくこれじゃね!ってのは科学的思考ではないが、なんとなくこれじゃねと思うけど、他に似た条件のものを持ってきて、それと比較して、っていう、条件統制をして重要な変数は何か、ってことを分析するのが科学的ってことではなかろうか。

単純に経済が発展したら資本主義は生まれるのか。そうでもない。中国とかエジプトとかでも、貨幣もあったし流通もしてた。例えば宋代の中国とかは農民まで貨幣を普通に使ってた。それでも資本主義にはならなかった。

行動的禁欲ってのは、一つの目的のために他のことを断念すること。要は、神に使える行動として労働があり、てか利益の最大化があり、かつ、その金で贅沢しよう、とかは抑えられた。金を稼ぐってことが目的になって、それ以外のことは捨てられた、断念された。これが行動的禁欲。行動的集中、とかいった方がわかりやすい気はする。

ビジネスにおいては、自由市場で戦うので、相手を負かすためにできることを全てやるのが普通である。行動的禁欲。

中世ヨーロッパだと利子をつけて金を貸すのは禁止されていた。キリスト教的に罪であった。それは、ビジネスが普通の生活と同じ感覚で判断されてたからである。つまり、ビジネスだったら自己中心的にいくら稼ぐかを考えてていいが、それを、日常で友達とか家族と過ごす感覚で判断してたので、当然、これは駄目だろ、ってなった。

中世ヨーロッパにおいて、金を借りて増やそう、って考えてた人はいなかった。それは罪だと思われてたし、金を増やすことは卑しいこと、とされていた。金を借りるのは、利子がまずつかないし、目的は基本的に生きるために一時的に金がいる、みたいなことだった。病気になった、とか。

キリスト教では、自分の利益を考えずに相手を助けろ、ってのがある。隣人愛ね。なので、利子をつけて金を貸す、とかない。まずいことって思われる。

金稼ぐのはどうなの、ってのは、カルヴァンが出てくるまでの基本的なキリスト教の、つまり中世ヨーロッパの考え方だった。

資本主義の前の世界では、貨幣は死蔵される。つまり、金庫とか箱に入れられて放っておかれる。

中世の中でもだんだん商業が発達すると、利子とか金儲けはダメっていいつつ、偉い人はみんなやるようになりつつあった。

カトリックは利子とか利益追求はダメだっていいながら、でもなんだかんだみんなそれを無視して利益の追求をする。でも建前としては、てか通説とか常識としてはダメってことになってるので、思いっきり発達はしなかった。

それに対してカルヴァンは、予定を唱え、かつ、神に選ばれているなら、最低限選ばれていることを示す行動をするだろう、ってことを言った。それは、何かお祈りをしたからいい、とかそういうレベルじゃなくて、神に選ばれて全て予定されているが故に、全ての行動が組織化されて合目的的、つまり目的を向いたものでなければいけない、って話になってきた。それ故に、神のための利潤追求が堂々と行われるようになった。

なんかこれってあるよなと思って、使命を感じると、それがキリストだろうがヴェルトガイストだろうが、全人格的に影響されるよな。何かちょっとすれば良い、ってことではなくて。

隣人愛に抵触するので利益の追求はダメなんだ、ってところがあって、そういう心理的な抵抗があるとなかなか資本主義は本格始動しない。

資本主義においては利潤は生産から得られる。前近代資本主義においては利潤は価値体系の違いなどから得られる。生産の付加価値ではなくて、他のところで売ったら高いとか、あるいは騙したり暴力で稼ぐこともある。

宗教で呪術から独立してるものはほとんどない。キリストもそうだし、仏教も最初は金持ちがやってる哲理を求めるものだったけど、だんだん大衆に普及させていくにあたって現世的な利益を出せって言われるから呪術を取り込んだ。

中国に至った仏教は、インドだと修行僧って位が高いけど、中国だとえぐ低い。故に生活費を稼がなきゃいけないし金を稼いででかい寺とかも建てるようになった。が、金を稼ぐこと自体は悪いことなので、金を稼ぎつつも、ああやばいことやってんなあ、って気持ちはあった。だからさ、いかに、合目的的に全てが再形成されることってのがでかいことかってことよな。

呪術からの解放と、経済行動に対するポジティブってちょっと違くない?なんで混ぜて語ってるの小室さん。と思ってたら、回答が来た。目的合理的ってことが資本主義の精神には重要であると。目的合理的ってのはつまり、目的に対して手段が合理的か、論理的に正しいか、最良か、ってことね。で、その目的合理性が社会全体に普及してないと、資本主義の精神は成立しない。不合理なことがいろいろあると、資本主義が動けなくなると。で、その阻害の大きい二つが、呪術と伝統主義であると。で、呪術で言うと、宗教はほとんど呪術を内包するので、その意味で資本主義が成立できなかったと。現代の日本の場合は呪術よりも伝統主義、つまりこれまでやってきたが故に今日もそれが正しい、って考え方が邪魔で資本主義が成立しにくいと。呪術にいくら払えばいいかわからんしな。

疑問を持ちつつ本を読むと、軽く読むところとしっかり読むところにグラデーションがつく。それでもいいなと。それじゃなきゃダメとは言いません。なんでもいいです。工夫しながらだと楽しいんじゃないでしょうか。

革新とは、既存のものの結合方法の変更である。既にあるものを新しく組み合わせること。これが革新。

革新はイノベーションって訳されて、イノベーションは新結合と訳される。全部同じ。

公教育が成立する前、中世ヨーロッパとかでも、19世紀のイギリスとか、だとしても、下級の人たちは金がないので子供を勉強させられず、工場とかで働かせていた。故に、下級の人たちは馬鹿で上に行くチャンスもない、だから普通選挙なんてやったら大変なことになる、ってのは常識だった。金がないなら教育も志もないってのはヨーロッパじゃ常識だった。が、日本の下級武士は、クソ貧しいけど学問があったし、だから志も持ってた。

日本が鎖国を辞めたのはなんでか?国際交流?いや、中国とインド以外の国は野蛮だと思ってた。金?いや、日本の中で全部時給できたし、海外の何かが欲しいわけではなかった。鎖国を解いた理由は、黒船を見て、これを自分で作れないと制服される、と思ったから、つまり国防である。戦争である。で、普通の国とか民族は、強い武器とかを知ったら奪うか買おうとする。が、日本の場合はそれを自分で作ろうとした。そのために、外国人を招いたりした。

日本は近代化しようとして、ヨーロッパの法をそのまま取り入れた。その結果として、国民生活と法律にズレができた。法はヨーロッパの生活の中から生まれたものだから、日本の生活とはズレてるし、日本は生活を、現実を法にはめ込もうとして嘘をつく。彼は法みたいだ、っていうとヨーロッパだと褒め言葉らしい。日本だと、融通が効かないやつ、とかだろ。

前近代資本主義から近代資本主義に移るには、伝統主義が邪魔である。これまでこうやってきたからこれでいい、って言われちゃうと代替されちゃうので、それが邪魔。それを崩すために重要なのが、都市の交代、ってか、金持ちの交代。これまでの金持ちがぶっ飛んで、新しい人たちが新しい方法と共に金持ちになる。これがあるから資本主義は前近代資本主義を振り切れる。これが、イギリスで産業革命の時に南側の都市が栄えてたのに滅びて、北西の都市に覇権が移った、って話である。伝統主義が邪魔、に対しては、そりゃそうだな、でいいけど、それが実際には都市の切り替わり、ってことになった、みたいなのはどうでもいいなって。

日本が資本主義に至るタイミングは黒船の後、ってか明治に転換する時だが、そのタイミングで経済を担ったのは下級武士であった。で、それまでは丁稚奉公から入った人がそのまま育っていって、経営に参画する、みたいな形で、かなり終身雇用に近いような共同体的企業の形が強かったし、であるが故に伝統主義の影響が強かった。

封建ってのは要は、土地が資本の中心ってことである。だから、土地が信用とか収入の基盤になる。で、これの弱点は、要は基本的には穀物とかの物で収入がきちゃうし、それって土地の広さに基本的に依存するから、インフレに対してめっちゃ弱い。貨幣が流通して物の価格が上がってんのに毎年の収入は一定量の小麦とか大麦、ってなると、それは実質収入が低下してる。ので、まあだんだん貨幣で地代を納めろ、とかなるんだけど。基本的にはこれで農民が強くなり、封建有力者は財政がキツくなる。

端的に、金を稼ぐことについてポジティブかネガティブかって話であって、キリストの隣人愛が、とかを論じなくても、何と無くネガティヴってのはわかるだろと。でそれが邪魔だと。

たまに忘れるけど、キリスト教って外面の規制がないので、教会がとか、祈りがとか、そういうの全部どうでもいい。牧師とか教会とか教皇とか、全部ない。元々はね。勝手に偉そうな人間が、てかカトリックが作っただけで。聖書隠してやってたから確信犯ではある。

基本的には生きるのに必要な以上の金を稼ぐのはダメ、って考えてるので、金自体がダメってよりは、利益追求がダメなのよな。金があると堕落するから、っていう。

金を稼ぐことをほんとはダメだよなあと思いつつやってるので、生活をそこに全振りすることができない。何と無く良くないなあと思いながらやってるから、いまいち経済のスピードが上がらない。

近代資本主義になるには、労働と金を稼ぐことにポジティブである、そして、そのための手段として複式簿記がある、この2つが重要。で、金稼ぐことにポジティブになれた社会ってのがずーっと無かったと。

売れば全部売れる、がセイの法則。say’s lowとかだった気がする。で、欲しいって言ったら供給される、がケインズの有効需要。

複式簿記がでかいのは、単式簿記とか、もはや記録しないみたいなザルは言わずもがなだけど、いくら売り上げが出て、いくらコストがかかって、いくら利益が出てるかこの辺がきちっとわかるから。単純に、ないと経営とか無理。計算できないってのは、利益とかコストもそうだし、納期に関してもそう。いつまでにできるとか、いつまでに届けるとかわからない。から、受け取る方もすんなり受け取ろうとしない。計算できないと無駄が果てしなく生まれると。

科学で重要なのは、演繹か条件統制。つまり、確実に説明できること、かなあ。

中世ヨーロッパではキリスト教が広まった、というが、実際広まったのはカトリックであり、カトリックって聖書を隠して呪術やら教会やらサクラメントやらやりまくってるので、実際はキリスト教ってかなんかよくわからん宗教が広まってた。呪術がなんかすげえ、でしかなかったし、それで広がっていった。

目的合理性って、要は単純化なのよな。現実は複雑で、無限にパラメーターがある、考慮すべき要素がある。その中で、ある一つに注力して、他は全部捨てる。この意味で、目的合理性ってのは科学とかモデルビルディングに近い。捨象と単純化によって、判断を簡略化すること、てか、簡単にすること。

資本主義の対義語を、伝統主義、と憶えても差し支えない。というか、実際そう。伝統主義的に、金儲けは悪いこと、とか、これまでのやり方でいい、みたいに考えてるから効率化に全振りできない。それが良い悪いは別としてね。

基本的に、寒かろうが暑かろうが、飯が食えなかろうが、勉強はするもん。ただ。俺の言ってる勉強は限られすぎている。本を読んでも良いけど、人と話したほうがいいし、かつ、お茶とか酒を飲みながらでも良い。つまらん勉強に終始しすぎている。それは本当にそうだなと。色々専門がある人から勉強したいね。まあそのためには1人でも勉強しないとなんだけど。

まあでも最近は、賢い人と話す、ってことを結構取り入れるようになったし、話しててだんだん遜色無くなってきたな、という感じもある。まあまだまだ足りないのは明らかなんだけどさ、その辺にいる賢い人、ならなんとかなるなと。小室さんは無理。まだ勝てない。まだ勝てないが、一生勝てないって諦めたらそれはそれで失礼だから、いつか勝ちます。勝つとかっていう表現はあんまり適切じゃないけど、まあ勢いを表す言葉として使う分にはそんなに外してないなと。

官僚は家産から依法へ。中国は家産のままだったけど。要は、権力が私的に国家とか国民を所有するのか、官僚や権力はシステムであるとするのか。

明治政府は華族制を作った。まず、こんな最近なの?ってことが驚きな。その上で、社会階層構造として貴族制は根付かなかった。それは、貴族だけ作ってもダメで、その下にも身分的階層構造が、つまり 平民に至るまで階層構造に含まないといけないことを理解してなかったからである。で、代わりに学歴が階層構造を構成することになった。

科挙は3年に一回くらいあり、一回の合格者は300人くらい。受験者は数百万なので、数万分の一、が倍率である。で、50歳とかで受かるのが普通だった。上限が70歳。

リヴァイアサンが、つまり国家権力がめっちゃ強いが故に、罪刑法定主義、つまり疑わしきは罰せず、がある。逆に官僚はリヴァイアサンなので、官僚に対しては疑わしかったら死ね、という形になってた。

ノブレスオブリージュは、自分がやらなきゃ人々はどうなるだろう、やばい、って意識である。だからこれも、駆り立てられる意識の一つなのよな。やらないとダメだ、っていう。優れている、とか、優者、みたいな余裕綽々のことを言ってないで、俺がやらないと大切な人はどうなる、くらいのネガティブ由来の駆り立てで良い。

科挙は科挙で、2段階ある。上手くいってた時と、駄目になった時と。ポイントは、学習内容が規定されたかどうか。最初科挙は一定儒学を学べ、くらいの方向性はあって、四書五経くらいは当然として、でも何を勉強するかがかっちりは決まってなかった。が故に、思想はかなり自由で、いろんな人がいた。が、明で皇帝が教科書をわざわざ自分で書いて作っちゃったので、それ以降は完全にそれに規定されるようになった。結果、思想が偏り、てか、教科書通りのやつしかいなくなった。で腐ったと。

科挙はえぐい大変で、特に内容が決まってからはそれさえやれば良いってことで受験する人が一気に増えた。とした時に明で大量生産されたのは、言われたことだけやって自分で判断できない高級官僚の群である。でこれは、利己心だけで勉強するからそうなる。なんでノブレスが消える?

ノブレスオブリージュに対して合目的的に組織された人間が優秀な人間である

シュンペーターの理論はzero to one と同じで、独占しろ、競争するな、とはいえ独占は、つまり新規ニーズの掘り起こしとそこに新しくサービスをぶつけることにはすぐ人が群がるので、時間の問題で競争になり、競争になればコモディティ化するので利潤は急速に低下する。が故に、常に新しい独占を求め、獲得しないといけない。

企業者と経営者は違くて、経営者は既存のやり方でやると。一方で企業者がやるべきことは、新しいことをすること。新しいサービス、新しい販路、新しい組織、新しい供給源、新しい生産方法。何でも良いから、新しくて改善できることをやれと。そしてそれは、新しいが故に計算合理性を一定無視する、というか計算できないので、それを乗り越えてく目的合理性が、全体の目的への再編成が必要であると。

企業者はたいそう消えやすい。新しいことやって起業してるうちは企業者だが、軌道に乗ってルーティン化したら経営者になる。ほんとに一時的なものが企業者であると。

企業者は新しいことやってる時だけ企業者であって、だからその意味で断続的というか一時的であると。これあれだな、ケインズとシュンペーターを読め、って小室さん何かで書いてて、その続きだな。

新しい何かを作ることが企業者であり、前例踏襲した瞬間に経営者とか、専門家とか、そんなことになる。新しい何かをやろうと。

新しくないなら、価値としてカウントされない。新しいってのは、新結合である。世界に全く何もなかったことをしろってわけじゃない。世界にあるものの中から、新しく繋いでみろ、ってことである。ニーズに向けて

新しいものだけが価値としてカウントされる。新しいもの、革新、新結合、これは同じだけど、これらだけが価値としてカウントされるし、これ以外は価値としてカウントされない。

シュンペーターの場合は、ケインズとか古典派と違って、あんまりきちっと数式化されてないし、数式化しにくい。したがって、結構精神論みたいなところがある。まあでも、それでも結構本質的なところをついているんではあるけれども。

新しいものだけに価値がある。そして、新しいものを作るには失敗に対して粘らないといけない。これまでを覚えないとな。失敗したくないって気持ちはずっとあるなって。俺の中に。

同じことやってると、それは違う、経営とか、その部類である。規模の拡大もそう。同じことをしてるならね。それをやってると、競争になって、利潤が消し飛ぶ。だからこそ、新しいこと、つまりは新しい結方を産まないといけない。新しいサービス、新しい生産方法、新しい販路、新しい組織、新しい供給源。なんでもいい、その場に対して新しいものを持ち込めと。少しでもいいから新しい構造にしろと。伝統主義がやばくて、新しいものを持ち込める、組み込める土壌であれと。

革新ってイノベーションって訳すから、あるいは新結合って訳すから、まあどっちでもいい。で、これをやると、新しい利潤を掴める。が、そこに対してすぐ競合が群がって競争になり、競争が始まるとみんなで利潤を取り合ってコモディティするので、最終的に利潤が死ぬと。であるので、ポイントは新結合、あるいはイノベーション、あるいは、新しい何かを持ち込んで組み込むことを常に行ってニーズを新しく掴み続けることであり、それが企業者だし、それができないならコモディティ化して死ね、と言うのがシュンペーター。いや、できないなら死ね、は俺が勝手に付け足したけど、まあそう思ってるだろう、っていう。

人に言われたことをやってれば金になる、っていう利己心でやってるやつほど使い物にならないやつはいないし、大企業ってそれの塊なのかな、と言う気もしないではない。まあそんな一概に大企業とかまとめるなよ、ってところはある。まあでも端的に科挙の失敗はあるので、言われたことを利己心でやるやつに官僚が切り替わった瞬間に、たとえそいつがその事務能力できつい競争に勝ったとしても、判断能力がないので組織が終わる。ノブレスオブリージュの不足と、事務能力ばっか高いやつが上に来ちゃうって言うことね。どっちもあればいいが、せめて片方ないなら事務能力を捨ててノブレスを取って欲しくて、教科書を決めて受験戦争をやると、その逆の事務能力があるだけでノブレスがないやつが勝っちゃうっていう。

ブルジョアジーって資本家ね。資本家ってブルジョアジーね。覚えようね。

資本家の経験は、別に個人の魅力を高めるものではない。金持ちだから、社長だからって、別にその人がすごくなるかって言われるとそうじゃない。社長って凄そう、っていうけど、実際あったらただのおじさんおばさんだったよ、ってよく聞く話でしょ。これを言ってるのがシュンペーターだからすごいよな。炯眼だなと。資本家に限らず、商業的な行為ってのは別にその人の人間的魅力を高めるものではない。いい給料をもらってても、なんでこの人が?みたいな人って、まあ言ったら悪いけど、これまでちょこちょこ会ってきた。その意味で、個人的な、人間的な魅力がある上で金を稼いでる人はいるが、金を稼いでるからって必ずしも個人的な魅力があるかって言われるとそれはそうではないし、その二つは割と独立している、てか、因果関係はあんまない。金を稼ぐこととその人の凄さは別。で、金を稼ぐ人たちはむしろ政治が苦手、というか、金を稼げるからって自分に人間的魅力があるわけではないことを知ってて、むしろカリスマ的な人ってのがいる、特にそれは貴族なわけだけど、だったらその人たちに政治をやってもらって経済を守ってもらった方がいいって考えたので、貴族に金を流す一方で政治をやってもらい、それで経済とか治安を安定させてもらった上で経済活動をしてたと。マルクスは資本家が、ブルジョアジーが資本主義を支配してる、って言ってたので資本主義っていうと資本家が支配してるイメージになるが、実は資本家は貴族に頼っていたと。資本家は資本主義の王者ではなかったと。これがシュンペーター。

時代の中で、ビジネスに向いてる時代と向いてない時代がどうもあるらしい。で、物が欠乏していて、どう解決するか、みたいな戦後1950年代とかの日本みたいなタイミングであれば、それは企業者とかイノベーションが山ほど起こって、それはもう楽しかったと。でもだんだん資本主義が進んで、特に投資機会がなくなってくると、イノベーションとか新結合ってのは大企業が官僚制の中で偉い人の会議とかで計算可能性の上にやることになるし、確かにそれで時代の要請に応えることになる。が、それってそんなに面白くなくねってことで、資本主義の最初の段階で大きな役割を果たしていたような人たちってのは、どんどんビジネスからイグジットする!ビジネスがもはや面白いものではないとして、資本主義から人材が流出する!そんなこと考えたことなかったわ。ビジネスからのイグジットか。まあでも確かに、金を稼ぐにしても、新しいニーズにしても、もうほとんど手詰まり感があって、あるいは技術革新とかで何かできるのかもしれないけど、であれば、最低限でビジネスは済ませて、何か好きなことをしよう、ってことになるよなあ。ビジネスがつまらなくなり、英雄的な企業者タイプは、つまりイノベーションを起こすタイプ、伝統主義を排して新しいものを持ってくることを尊ぶ冒険的なタイプは、ビジネスから、資本主義からイグジットする。その結果として資本主義がダメになる。これがシュンペーターなんよな。なるほど。成功するが故に、落ち着いちゃって、それで良くなって、じゃあもうビジネスいいや、ってなると。確かにな。確かにな、そうだよな、配給制でいいじゃん、とか思うもんな。うーん。

と思ってたら、シュンペーターはここまできていた。私有財産と契約の自由が失われて社会主義的になるぞと。いや、慧眼にも程があるな。100年前に俺の考えを読んでるなんて。えぐいなあ。これは熱いわ。小室さんを読んでてつまらんなと思ってたのは、ケインズとか古典派の復習をやたらとしてたからだわ。飽きてた。もうそれ最近やったばっかだよって。でも、シュンペーターを初めて学ぶに至り、ああ面白いってか、賢すぎる、俺の今の考えを100年前にもう準備してる。本に書いてる。どんな人間だよ、そんなことある?っていう。熱いな。やっぱ、賢い人の考え方を新しく学ぶってのは、すごく面白いし、ああそう考えられるのか、っていう。なんかほんとに、蒙が開ける経験を久々にした。

勉強して、それが身を結ぶまでには結構時間がかかる。とはいえ、繰り返しはつまらない。やっぱ歴史に名が残る人の考えはおもろいなと。思考の幅ってかフレームワークが変わるから、認知が変わる。違う世界に至る。久々に頭の良さにヒットされたなと。起きたわ。2週間くらい寝てた。ケインズやって、ちょっとケインズやりすぎ。

別に、古典は読まなくていいよ。が、歴史に名を残した人たちが、何を考えて人々の認知のフレームを変えたが故に名が残ってるのか、ってのは知らないと、だってその恩恵に与れない。世界の見え方とか考え方がガラッと変わるのって、面白いし、見えてなかった選択肢が急速に増える前提が生まれるわけだから、数学で言うなら公理を一つ変更する、追加する、削除する、みたいなものだからそれってすごく全てが切り替わるスリリングなことよな。どうなるんだろう、全部新しくなるんだなって。

明治政府が公家と武士を廃止した段階で、日本の貴族は終わった。明治政府がイギリスをまねて貴族制を作ったけど、定着しなかった。結果、学歴が社会階級になった。

伊藤博文が明治初期に東大を作ってから、東大が圧倒的な大学になった、が、明治から大正まで、高校を出れば大学には入れたし、受験はほぼ無かった。とはいえ、高校がレアで、明治の時には日本に7個しか無かった。なので、高校から特権的だった、って認識でいい。

日本の大学の目的は、てか東大ができた、というか大学がまとめられて東大ができた時、その目的は、国家のための育成。が、これってエグくて、ヨーロッパの大学ってのは、権力から独立して勉強する、学問をやる、つまり学問の自由のために存在する。真逆。で、どうなったか?つまり、ヨーロッパの大学は学問のためで、日本の大学は権力のため。小室さん曰く、日本の大学は全く面白く無くなってしまった。大学は学歴のために行くけど、あとは面白くもない知識をただ詰め込むだけ。教育として終わってる。

古典派は、レッセフェールがベストだって言ってる。市場に自由にさせればベストであると。が、ベストって何?って話はあって、ベストってのは、数学的に最適値ってことでしかない。なので、古典派を代表するリカードの理論では最終的に、資本家は全員破産、労働者失業者は全員餓死する、って状態に至る。しかしそれでもベスト。リカードの弟子がマルクス。そこの家系えぐいな。家系てか系譜か。マルクスにしてもリカードにしても、最終的には利潤ゼロになり、賃金はギリギリ生活できる最低レベルになる、としていふ。まあだから、競争して食い合って、それするとゼロサムだよねっていう。

もうちょい理論の世界にいて良いし、どうせ実学には投げ込まれるんだから、じゃあ今は理論を鍛えたほうがいい。

セイの法則、あるいは古典派において、失業は無い。それは単純に、作れば売れるから。人が余ってるなら作ればいい。だから失業はない。一時的にはあるけど、ロングスパンで見ると無い。セイの法則自体もそう。売れ残りは部分的にあるが、市場全体で見ると、売れ残りと供給不足はちょうど釣り合う。が、そんなん確認できないので、これを信じるか?って話になる。信じた上で、セイの法則を公理にして展開したのが古典派で、ケインズの有効需要はこれの逆なので、ケインズ革命、ってなる。なんでそもそもセイの法則から始めたかね。

市場の自由ってのはつまり、政府が、市場に手を出すな、規制をかけるなってことである。政府に対して言ってるからね。

市場の価格均衡とセイの法則はなんか矛盾しないか。余るから価格が下がるわけで、それは供給に需要が追いついてない。

失業に対して古典派は、失業があるってことは何かが自由ではない、でそれは、労働力市場だ、ってことを言うわけよな。つまり、失業が出るってことは賃金率を下げればいい、そうすると需要が増えて供給は減る。それを繰り返せば、つまり賃金率を下げ続ければ、いつかはトントンになるだろと。ただそれが成立しないのは、労働組合が賃金率を下げることに反対するからだろうと。だから、それさえなんとかすればいいので、別に失業は存在しないと。

賃金率ってのは単位時間あたりの賃金のこと。賃金だけだと何を指してるのかよくわからない、とはいえ普通に話す時には賃金でいいなと。

この議論何回繰り返したかな。ケインズの有効需要の話な。ケインズによると、失業は出る。有効需要が十分に大きくない場合には、生産が十分に大きくならないがために、失業はでる。だから、それをなんとかしたいなら有効需要を大きくしろ、ってことなのよな。で、有効需要は消費と投資であり、投資は生産材に対する消費であり、それはちょっっと矛盾か?まあ生産材に対する需要と消費財に対する消費であると。で、景気が悪い時には有効需要が足りないってことなので、有効需要を増やそう、消費は増えない、投資は民間投資に関しては増えない。なので設備投資をしよう、ってなってると。これがケインズの要諦であると。金利がなあ。ゼロ金利とか流動性の罠に関して、マジで勉強したいし、多分それは、現状の政策が思いっきり間違ってるってことだと思うんだよな。マジでなんとかしないと、と思いつつ。まず勉強しろよと。てか理解しろよと。政府投資が行われて波及的に経済効果が連鎖することで、生産は大きく増える、要は景気が良くなる。簡単。

政府と外国と時間がないと仮定すると、生産と所得は等しい。企業が付加価値を作り、それに対して値段がつき、その利潤は資本家か労働者に分配される。要は、企業が金を稼いでも、それは国民に流れるだろと。だから生産はすなわち所得になる。

ケインズは需要に供給が追いつく、買わせろって言ったら供給される、って話だが、それに対して、供給が間に合わない場合をクラウディングアウト、と呼ぶ。需要に供給が追いつかない、買いたいのに品物がない。クラウディングアウトが起こってると、有効需要が増えても生産が増えない、所得が増えない。困る。

ケインズには、弱点もある。これは新しいな。有効需要が増えた時、価格が上がったらどうするか。つまり、需要が増えたんだから、価格は上がるでしょうと。そうすると、海外からの輸入に流れる可能性がある。そうなった時に、国民生産は増えない。となると、有効需要の原則が発動しないってか通用しない。機能しない。これはまず弱点の一つ目。

多分俺がやってるのはディスカッションで、それは別に議論ってか喧嘩みたいになる必要はなくて、お互いが好きに喋って、その結果として半ばブレインストーミングみたいになる中で、新しいアイデアとか物の見方を獲得する、ってことよな。だからその意味で、やっぱ設計するな、っていう俺の感覚は正しいんだろうな、と思う。

よく知らないとよく見えるってのは、あるよな。対象aがそれで何回作られたことか。

波及過程の先の先まで読めるようになれと。これをやったらこれに影響して、そうするとこれが影響されて、って形で、ポイントを見抜けと。1番波及するところを見抜いて叩けと。

比較優位説ってのは、絶対優位説に対するアップグレードである。絶対優位ってのは、何かが得意な人はそれをやろうって話だが、そうすると、何も得意なことがない人は何もすることがなくなる。でも、比較優位の場合には、たとえ色々できる人でも、その人が1番できることに注力する、そうすると、他の仕事は余るので、他の人はそれをやれば良い、そうするとお互いの利益のトータルが最大化できる、ってことである。得意だからやるってよりも、得意なことの中で最も得意なことに集中する、そして余ったことを他の人に肩代わりしてもらう、これによってお互いのメリットを最大化しよう、っていう。得意だけに極力集中することで、全体の利益を最大化できる、ってことな。有能な人と無能は人はいて、とはいえ有能な人はその有能な部分に注力すべきであり、であれば、無能な人にもやることはある、っていう話なのよな。無能な人をどう守るかって話に聞こえるな。まあだから、何をやったってできる、でもその中で、1番得意なことに集中することで、無能な人を守り、かつ有能な人と無能な人がお互いに最大の利益を享受できる、ってことな。うまく共生しろと。

比較優位は俺としても大事にしたいよな。そうな。俺が有能であるなら、俺は俺の得意に集中すべきだし、それによって無能な人を守ることができる。これは生来的な責任だから。俺は俺の得意に集中し、その他の仕事を他の人にお願いする。それによって全体の利益を最大化する。ポイントは、俺が飛び抜けて成果を出さないと、結局みんなに分配する富がなくなる、ってことな。得意に集中して、俺が対して得意じゃない仕事は他人に振れ。俺の立場から言い換えるぞ。

俺がめっちゃ得意なことに集中しろ、それ以外は人に任せろ。それで、俺は得意なことで思いっきり成果を出せ。それを分配しろ。優秀さってのはそうやって使うのが1番周りを豊かにするから。



未来の貨幣の現在の価値は、利子率で決まる。一年後の1円の価値は、利子率をrとして、現在は1/(1+r)と評価される。要は、利子でちょっと膨らんで1円になるってことは、今の貨幣としたら1円よりちょっと小さいよねと。これはどこまで行っても同じで、3年後の1円の価値は、利子をrとして、1/(1+r)^3となる。要は、現在の価値をxとして、それに1+rを何回かかけたら将来の貨幣価値だから、割れば良いじゃん、っていうね。

式に外国と政府を入れると、Y=C+I+X-M+T-Gになる。Xはexport,Mはimport、TはtaxでGはGovernment spendingで政府支出。まあ。方程式の時は、事前の式だからこれが成立するかはわからない。これが恒等式になると、事後の式であって、まあ起こったことを記述してるだけなので、当然に常に成り立つ式を指す。

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