定性と定量の入りまじった個別主観的合理性と生きている
俺と父親はかなり似ている。
徹底して合理主義になれるところが。
実益主義とか、実害主義とか言ってもいいけど。
何をどのくらい定量に対して評価するか、ってことが、すごく大事だし難しいんだよな。
同じことをされても、すごく嫌だ、って人もいるし、別にいいよ、って人もいる。
でその、嫌だ、とか、いいよ、って感覚が、つまり訂正的な評価が、数量的な合理性と混ざり合う。
例えば、こんな仕事させられるんだったら、給料は時給100万円ないとやらない、って人と、いや、別に時給1500円でいいよ、って人がいる。
でそれは、その当人たちにとっては、その仕事がどれくらい嫌か、って定性的な評価が、時給って定量的な評価に、当人たちにとっては合理的に融合してるんだよな。
そしてそういう、定量と定性の混ざり合った合理性は、程度問題で、どんな人もそうやって合理的に考えてる。
だからこそ、人間は難しい。
同じものを見て、好きっていう人、嫌いっていう人。
それに値段がついたり、刑罰がついたり。
そんなもんはそれは、フェアではないし、でもそうやってしか社会は回らない。
人が一緒にいる以上は、訂正と定量の評価のずれは必ず起こる。
だからこそ、相手の価値観を理解する、ってのは難しいし、重要なんだよな。
だし、これってAIが一番難しいものだろうな。
本来定量で測れない定性評価を、いかに定量と一緒に合理的な思考として使い、そして、それによって個々人で異なる合理性を擦り合わせるのか。
もっと簡単に言うとね。
その人にとって、ある出来事がどれくらい大事か。そしてそれは、その人の合理的な、つまり普通の考え方の中で、どのくらいウエイトを占めていて、どれくらいの数字に換算されているのか。
その人にとって何がどのくらい大事なのか、それを理解するのが難しいよね、って言ってるの。
まあ、普通のことだね。