経済発展の根本現象
変化について
経済主体は、外部の出来事によって変化しているに過ぎない。
変化に対する抵抗
新しいことをやろうとした場合の抵抗は、2種類存在する。社会的な抵抗と、個人的な抵抗である。
社会的な抵抗について、会社で同僚がこれまでと全く違った方法で仕事をし始めることを考えてみるといい。それは多くの人にとって、実質的な強制力となる。
個人的な抵抗について、新しいやり方をするのは、常に心理的な抵抗を伴う。毎日慣れた生活を送り、余計な意志力を必要とする些細な変化にも嫌気を覚える。
重要なのは、新しいことをするのはより難しいだけでなく、本質的に今までと違うことを含むことである。流れに乗って泳ぐ泳ぎ方と、流れに逆らって泳ぐ泳ぎ方の大きな差が存在する。後者には、前者にはない特別な力が必要である。
人間の行動の二つの類型
経験から学んだことを適用することであり、受け継いできた基盤の上で働くことであり、皆が行うことを行うこと、こうした既存の働き方の内部でだけ固有で自覚的な選択が行われ、理性的と考えられる行動の範囲が存在する。このような状態では、新しいものは決して創造されない。
どの分野でも独自の発展は起こらず、所与の条件からの帰結が受動的適応として生じているだけである。
こうした行動の類型は現実的で一般的でもあるが、それだけが唯一可能な類型ではない。
別の類型、つまり新しい創造的な類型も存在する。
「静態的類型」、「動態的類型」と名前をつける。また同じ意味を持つ用語の組として、「快楽主義的類型」と「精力的類型」がある。
「静態的類型=快楽主義的類型」、「動態的類型=精力的類型」である。
また、行動だけでなく、個人についても類型を適応する。つまりその個人にはその類型行動しか見られないと仮定する。静態的人間は静態的行動のみが見られる、ということである。
視野の拡大や新規なアイデアではなく、拘束に打ち勝ち、実際に精力的に行動することを重視している。
静態的行動が必ずしも快楽的あるいは幸福主義的な動機によるとは言えない。しかし、静態的行動と快楽主義的動機は大抵結びついている。快楽主義的な立場からは、拘束との戦いはほとんど勧められない。快楽主義的な動機は、決断力に乏しく、旧来の軌道に留まる人の特徴となっている。
経済は人間の欲求によって動くと考えられている以上は、非快楽的類型が経済の場面で成立するのか、という疑問が起こる。快楽のために必要だから働いているのであって、精力的に働く人間などいないのではないか、と。しかし、静態的行動に従わない経済主体が国民経済の最良部分に実際に存在する。
経済領域における非快楽主義的な行動とその特徴
この類型は、静態的な絶対多数の経済主体と比べると滅多に姿を表さない。しかし、経済の分野でも静態的・快楽主義的な行動を取らない人たちはいる。その存在は経験上知られているが、分析はなされていない。この類型の分析をしなければならない。
類型の本質的な特徴
第一の特徴をもたらすのは、経済の恒常性を基礎付ける抵抗に打ち勝つ行動である。
しかしこの類型に対しては、そのような抵抗の一部は存在していない。新しいことやなれないことをする必要がある場合に克服しなければならない心理的な抵抗である。これまでになされたことがないという事実は、彼にとって行動を躊躇わせる理由とはならない。
彼が予見するさまざまな可能性も、それがすでに実現されているかどうかという基準で区別されることはない。全ての可能性を同じ明瞭さで見てとり、その中からこだわりなく選び取るのである。全ての可能性が彼にとって現実的なのである。
社会的な抵抗については、事情がいくらか異なる。彼らは他の大多数ほど強い社会的圧力にさらされていない。経済街で特別な位置を占めており、それが経済の分野でも役立つからである。そうでない場合は、彼らも他の経済主体からの積極的あるいは消極的な抵抗に直面する。
ただ彼らは、その圧力に屈することなく戦い続ける。それどころか、そうした抵抗は脅迫というより刺激に過ぎないと言い切ることすら、よく知られた事実である。そうした抵抗は彼らにとっては、行動を変える理由にも、変えることができないものとも見做されることがない。
もう一つの特徴は、精力的な類型は既存の需要やすぐに期待できる需要に応えるのではないことである。彼は自分の生産物を市場に押し付ける。この理論は、供給が需要を喚起し、供給を預言的に実現する、という点で新しい。
精力的類型の心理
精力的な類型は、十分な資産を持っているにもかかわらず、その力をさらに財貨の獲得に捧げ、そのことしか考えていないように見える。従って、欲求充足のために行動している、という説明は却られる。
個人差はあるにせよ、ある額の所得を超えると、まだ満たされていない欲求の強度は極端に下がる。欲求充足が高まるほど、欲求の強度は下がる。
これはそうだろうな。日本人のある程度がこれを満たしてるので、満たされてない欲求に対して強く思うことがないよねと。ゴッセンの法則、というらしい。
精力的類型の人々は、快楽主義的な行動に対する無関心、あるいは嫌悪さえ見られる。贅沢な暮らしをしているが、資産があるから贅沢な暮らしをしており、贅沢な暮らしをすることのために資産を得ようとしたのではない。これは多分に個人的な経験に基づく主張であり、必ずしも受け入れられることを期待できるわけではない。しかし、ほとんど否定されることはなかった。
近代産業を立ち上げた人々は頼もしい男たちで、自分がしなければならない努力が十分な利益を約束するかどうかと、絶えず不安げに問いかけるような心配症の人々ではなかった。彼らはその行動の快楽主義的な成果など気にしなかった。獲得したものを漫然と楽しもうなどとは初めから思っておらず、そんなことのために生きてきたわけでもなかった。他のことができないので、創造するのである。
彼らも財の獲得を目指して努力し、静態的経済主体を導いているのと同じ根本原理を身につけようとする。従って、消費欲求の充足を目指す動機と別の動機からこれらのことを行うことができる、という結論に行き着く。
人々は財の獲得への努力を、それを消費する目的や他の人々の消費に供する目的とは異なる理由から行うことがある。社会的な権力的地位につく喜びと、創造的造形者としての喜びである。
権力的地位につく喜び
表面的な観察だけでも身近に見て取れる。財産は2つの効用をもたらす。消費の満足を潤沢に行う可能性と、社会的および経済的な権力的地位を示すことである。
社会的および経済的な権力的地位と本質的に同じ要因が、成功することの喜び、他者の上に立つ勝利の喜び、というような言葉で表現される。
快楽主義的観点から理性に反するように見える経済行動の多くが、これで説明可能になるかもしれない。
創造的造形者としての喜び
この動機を最重視することとする。
経済活動が権力的地位への願望に基づく場合、経済活動は外部の目的に奉仕する活動にとどまるが、ここではそれ自身が自己目的になりうる。
この動機は、創造的活動の喜びと、活動せずにはいられないこと、の二つに区分される。
創造的活動の喜び
経済関連の新事物を想像する喜びは、芸術家、思想家、政治家が行う創造的活動と全く同じ基盤の上にある。有能な人材がどの分野を活躍の舞台とするかはしばしば好みと適性によるが、それ以上に彼が偶然に置かれた状況による場合が多い。具体的な分野が何になるかは副次的なことである。彼の行動の舞台として見られる限り、どの分野でも同様に彼を生かすことができる。
経済分野でも創造されたものに喜びを感じるために想像することが可能であり、その場合は芸術家の創造活動に通常着せられるような喜びを感じることができる。
経済的活動にもそれなりのロマン的要素がある。ロマンを見つけ出す目がありさえすればよい。行動の人にとっては、その度ごとに示される問題や新しい可能性が彼を惹きつけ、興味を起こさせる。彼は実験をせずにはいられなくなる。
力強い性質を持った生活
自ら設定した目標を達成し、新しい目標を眼前に見ることは、単なる快楽追求以上に力強い性質を持った生活に属している。
自分の全精力を出し切る活動をしたいという欲求は、誰もが自分自身の意識の中に認めることができる。日常生活において看取することもできる。
力強い人は、常に新しい計画を遂行し、それがすむとさらに新しいものに取り替える。彼の場合、活動それ自体が自己目的となっていて、別の刺激は必要ないということになろう。
他の動機を何ら必要としない活動する喜びは、確かに心理的事実として存在する。
類型の人間にとって、示すことのできる休止点も、彼を休止状態に留める経済様式も限界効用水準も存在しない。疲労に配慮しても、快楽主義的な欲求が充足されても、彼の活動意欲は失われない。
消費への欲望と異なる理由で財を得ようとする場合、定められる限界にとどまる理由は全くない。決まった限界なしに絶えず背前進するための衝動が存在するのである。その衝動がやむのは、衝動の担い手の勢力が尽きるか、外部の障害が克服できないことがわかった場合であって、決して欲求が充足されたからではない。
衝動の休止は自発的な理由から生じるのではなく、満足したからでもなく、いつも運命を前にした諦めである。停滞敗北であり、快適な満足ではない。こうした個人が望むのは、常に新たな行動であり、新たな勝利である。到達度は怠惰な休息の理由にはならない。
従ってここには、均衡というものがない。行動の人は、その力を維持しながら引退することは決してない。
利他を結局は自分のエゴだから利己だ、という論があるが、子供騙しである。その論をやった次には、利他と利己で快楽の質が違い、そこから行われる行動も異なる、という議論になる。話を一つ戻すだけである。
受動的な快楽のための経済活動は、ゴッセンの法則に従い、最後に安定した均衡状態になるまで作用する。
快楽主義的行動は、状況を単に受け入れ、状況自体を根本から変えようとは全くしない。
経済の目標が快楽主義的である必要はさらさらない。快楽主義的な見方は表面的な事態に対応しているだけである。
創造的な人物も、やはりごかいとの条件を考慮に入れなければならない。未来において創造されうるのは、すでに現在の中に目として隠されているものだけである。どんなに活動的な人も既存の諸条件の中からその帰結を引き出しているだけである。
行動の人が創造できるものは、機が熟したものだけであることも確かである。しかし彼は、周囲の世界の所与の条件から静態的経済主体の大多数と異なる帰結を引き出す。それは静態的立場から見ると想像的なもので、それにより彼は踏み慣れた軌道に変化をもたらす。
類型は、静態的経済の継続性を中断させる。
創造的人間は静態的経済の予見を変えるのであり、静態的経済はそれに合わせなければならない。創造的人物が事実上、究極の原理である。
発展の外形
新結合
行動の人は、静態的経済の中に存在する財の一部を、それがこれまで役立ち、そのために生産されてきた静態的な仕様から取り上げて、それを別の用途に振り向ける。これが新結合の遂行である。
これまで知られていなかった財の生産、新しい生産方法、新市場の開拓。新しい軌道を敷くことが重要である。
静態的経済の中では、決まった結合のもとで、効果と費用で最適化が行われる。しかし、結合自体はどこまでも改良可能である。
新しい結合はいつでも思いつくことができるが、欠かすことができない決定的なものは、行動であり行動力である。他者を従属させ、目的にために利用し、命令し、征服する能力は、特別優秀な知性はなくても、素晴らしい行動力を生み出すのである。
将来価値の体系
新結合は最初、全く具体的な姿を持たず、幾人かの人の意識の中に存在するだけで、経済のなり行きに何ら変化をもたらさない。それ自体としては、無意味なものである。
しかし、精力的類型の1人によって取り上げられると、自体は一変する。
財には、静態的経済のもとで毎年実現している価値と、新しい利用法に対応し、新結合が実現することで起こる経済発展により実現されるもう一つの価値がある。
新結合の実現により成立する新しい価値体系を、将来的価値の体系と名付ける。また、静態的経済での価値体系を現在的価値の体系と名付ける。
企業者こそが新結合の遂行者で、それをするには非快楽主義的な行動がほとんどいつも必要である。
企業者が自分が立ち上げた会社を静態的に運営する場合、企業者ではなくなる。
企業者は社会的、法律的な地位とは関係なく、生産の要素を結びつけ組み合わせる者のことを言う。
企業者は静態的状態では何の収入も得られない。静態的な状況では生産手段の結びつきは伝統的に固定されているので、決まりきった仕事の他には何も企業者に残されていない。したがって、何も仕事が残されていない企業者には得られる収入もない。
静態的な経済は企業者なしで運営され、静態的経済からの脱出と発展は、企業者によって、彼のエネルギーと非快楽的な行動によって促進する。
企業者の役割
実行する
精力と全人格を投入して新結合をやり遂げることは、企業者の本来的課題である。
アイデアの選択
アイデアを生み出し構想することは、企業者の本来的課題ではないにせよ、副次的に重要になることがある。外部から彼に構想が与えられることも可能であり、その方が通例である。
企業者がいなくてもアイデアや計画はいつでもどこでも溢れるほど存在する。企業者はそれに対して極めて重要な機能を果たさなければならない。つまりあらゆる可能性、あらゆる既存の中から選択をしなければならない。その選択の正しさこそが、企業者の能力の本質的な評価基準である。
企業者が選択決定をする過程については、全ての可能性を精査し正確な結論に達するというように考えるべきではない。そんなやり方では、彼は行動までいきつかない。彼の才能はむしろ、彼が唯一または少数の選択肢を思い定め、他を顧みないところにあるだろう。選択の根拠を詳しく説明することなどせずに、ごく自然にまた無意識のうちに実際に認められる選択肢を掴み出して、それだけに取り組む。したがって彼は、計画を自分で立てているというより、他の多くの可能性からそれを取り上げているのである。
新結合を遂行する際に、企業者は2通りの行動をする。
第一に、多くのことについて成果すーっな評価が全く不可能なさまざまな要因に依存している事柄について適切な判断を下す。これらの要素を徹底的に調査するというようなことができるのは、特別な条件に恵まれたごく少数の人々だけである。
第二に、彼はその決定を実際にやり遂げる。
この二つが、企業者の特質であるとともに機能であり、その成果が経済発展つまり進歩である。
政治家は、自分で政治的なアイデアを生み出すことはほとんどない。政治的なアイデアは、多方面からとてつもなく大量に政治家のもとに流れ込む。政治家の役割は実行することである。そのためにアイデアの中から選択しなければならない。アイデアの価値を正確に認識することは不可能である。しかし適切なアイデアを判断しなければならない。適切なことを行う能力は、支配的な人物と並んで政治的指導者の本質的な特徴である。
軍事的な指導者の分野でより決定的な形で示される。軍事指導者は本部の参謀に全ての可能な計画の検討をさせるような余裕などない。そんなことをすれば何十年もかかる。とりわけ、時間が切迫している中で行動しなければならない時には、他の可能性を徹底的に調べることができないまま正しい選択をしなければならない。そこに適切な命令を下すことの難しさがある。
発明は無数の可能性をただ増やすだけである。企業家ではない。発明家が起業家の機能を持つ場合もあるが、常に発明家=起業家ではない。
新結合を遂行するさまざまな方法
孤立した経済主体の場合、活動的な素質を持つ経済主体であるならば、彼は常に自分の状況の改善を図り、限界を認めることなしに新結合の遂行を図る。それができるのは、彼がどの新計画にも自分の手で取り組み、快楽主意義的な考慮を後回しにしてその実現を図る限りである。勇気を奮い起こし、計画途上で餓死する危険も犯しながら新しい仕事に没頭する。大なり小なり入念に企画の準備をする。
しかしそのようなやり方ではわずかしか進むことができないので、他の可能性がなければ、国民経済は原始的な段階から抜け出すことはできなかったであろう。
より多くのことを達成し、より大規模な計画を遂行するためには、他の人々の協力、つまり行動の人と対立している静態的で快楽主義的な経済主体の大衆の協力が必要である。行動の人も彼らに助力を求めなければならない。
民俗学において、他者たちは助力の提供に慣れていて、その準備が完全にできていると教える。しかしそれは、伝統的なやり方で従来の目標を目指す場合に限られる。
行動の人は仲間と別のこと、新しいことの達成を目指すのである。新しいことのために彼は仲間を使おうと思うが、その目標というのは、仲間たちが考えたこともないような彼らの視界の外にあるものである。それは彼らの大半にとってはすぐに理解されず、その新規さのために嫌われる目標になるだろう。
行動の人は計画に仲間の指示が得られるように努め、説得や個人的な評判も影響する。それで成功する時もある。しかし成功は稀でごく少数にとどまる。新しい思考は、最も明文化された人々も含めて、どのような徴収に対しても、少なくとも最初は反響なしにとどまる。この要求は、将来の不確かな利益のために犠牲を払い、現在の平穏を断念することを含むからである。
人類史において、静態的で快楽主義的な成功を持った多数者は協力するよう説得されないし、それに賛同することもない。彼らは協力するように強制されるのである。
しかし今日の流通経済の中では企業者は命令権を失った。無力なまま多数の快楽主義的、静態的な人々と向き合っている。孤独に努力を重ねても最低限の成功しかもたらさない。
計画の実行に必要なのは、あらゆる種類の財である。労働及び土地、道具と原料であり、場合によっては消費財が加わる。したがってここでいう強力とは、それらの財を起業者に自由に使用させるために引き渡すことであると定義できる。
問うべきは、企業者はいかにして新結合の遂行に必要であってもテニしていない財を労働力を含めて調達するのか、という問いである。
必要な財を手に入れるために起業者がやること、近代的な状況の中で企業者に一般的に可能なただ一つのことは、市場でそれらの財を貨幣によって購買することである。財の提供者は、購入された財が静態的経済のために使われるのか、動体的な経済のために使われるのかについて関心がない。区別さえしない。貨幣は、発達した流通経済の中で起業者が必要とする生産手段に対する支配権を獲得するための手段である。
貨幣という手段の本質的な特徴と存在理由は、協力が必要とされる人々の意見を聞く必要がないということである。その機能は、指導者の計画へ多数の人々の同調が困難であるか全く得られなくなるという事態を回避することである。
主人と奴隷がいるが、外見状それほど目立たないだけである。そのための手段は暴力や命令権ほど目立たないが、明確さと効果において劣るものではない。むしろ逆である。購買力は先の時代における支配者の地位よりも簡単かつ即座に得られるものである。
今日でも国民経済は少数者によって新しい軌道に強制的に引き込まれている。この強制の中に大多数の人々にとっての発展の直接の原因がある。
企業者は生産的用役を購入し、生産的用役の所有者に何も問うことなく、それを動態的経済目的に使用して、国民経済を強制的に新軌道に引き込む。
企業者の購買力と銀行家
企業者はどこから、財を購入する貨幣を工面するのか。そのことが解明されて初めて、経済分野での説明が完全なものになる。
企業家は購買力の所有者ではない。その機能は必要な資金を調達することではない。企業者は購買力を他から、時によっては自分から借りる。典型的な経済家庭は、企業者は自分の計画の遂行のために銀行家に頼る。
静態的な経済にも財は存在する。問題は、その財を静態的な経済目標から動態的な経済目標に用役するために起業家が必要とする購買力である。
地主や労働者などの生産手段の供給者は、財を提供する代わりにすぐに対価を要求する。企業者は将来に資金を得るのであり、現在は何も資金を持っていない。かつ、供給者に対する命令権も持っていない。したがって銀行家が現れる。銀行家は自分の保証で起業者の約束を承認し、財の供給者に対しての支払いを行う。
起業者が王であるとすれば、銀行家は市場の最高監督官である。
何を言ってるのかわからない、ってのが、言い換えられない、ってことで明らかになるな。なんだこれ、意味わからねえ、って、久々に思った気がするな。
オルテガとかもそうだけど、要は頑張ってる人ってなんで頑張ってんの?って分析は、意外と古典にもあったりする。その辺をちゃんと読んでキャッチアップした方がいいなと。人類の叡智を。
目標と、達成を。自分で定めた目標と、その達成を。それが楽しいよなと。俺にできるだろうか?試してみよう、というね。
情報を入れて、順番を整える、ってのが俺の頭の良さだから、知らない状態で発想はできない。
頭がそこまで良くなくてもいい。自分で考えないで、人が考えたアイデアでもいい。重要なのは、それを行動に移すことである。現実に反映することである。むしろ、アイデア自体は誰にでも見える。
そんなにすごいアイデアじゃなくていいし、自分で発想しなくてもいい。やる、ってことに価値があるので。