やるべきことを可能な限りやる。冷たいとか優しいとか、どうでもいい
午前中に理解したこと。
俺は冷たいのか優しいのか
確かに、他人に興味はない
確かに、他人の感情とか、他人が幸福になるかとか、俺が他人からどう見られるかとか、興味がない。
どうでもいいです。
俺が関心を持つのは、他人のニーズと、それに対する俺の努力
俺が関心を持つのは、他者のニーズ。
他者のニーズを理解して、それに対して起案して、実行していくこと。
俺がその努力を、より多く、より良く行うこと。
より多くの、より優れた努力をすること。
そこに対して、俺は興味がある。
その結果として、他者に喜ばれたり、周りから評価されたり。
でもそれに対しては俺は、特になんとも思わない。
冷たいとか、優しいとか、どうでもいい。
俺がやるべき努力をする、それ以外に、俺は特に関心がないから。
協働者が欲しい
ただ、これまでとちょっと違うのは、俺は協働者が欲しい、ということを俺が理解したこと。
理由は2つある。
1つは、俺の弱いところを補ってもらえるから。
気が弱い他者の気持ちに配慮する、とか、具体的なオペレーションの細部とか。
そのあたりに関して、俺は関心がないので、結構適当にやろうとする。
が、そうすると結構問題になる。
その部分を、そこに関心が強い人がいてくれると、俺の代わりに対応してもらえるので、問題の多くを防げる。
ありがたい。
もう1つは、評価者として。
俺が起案して実行したとして。
その起案が悪い、あるいは起案は正しくても、それに向かう努力が少ない、あるいは質が悪い。
そうなると、その人はもう、俺と一緒にやってくれないだろう。
逆に、俺の起案が的を得ていて、そして俺がそこに払っていた努力が正しいものであれば、おそらく、「もう一回一緒にやってもいいよ」ということになるはずである。
俺はこれが、すごく嬉しい。もう一回やってくれるの!、となる。
ここなんだよな。
顧客よりも俺のことをよく見ている協働者から評価されることは、まず俺の生産性とか役割をきっちり果たしてるか、ってところの評価として、実際的な能力の評価として、価値がある。
が、それと同時に、この人ともうちょっと働きたいな、と思う人から、もう一回やろう、と言われると嬉しい。
それは、機能面なのかなあ。それとも心情面なんだろうか。
機能に基づいた心情、暗いが適切なんだろうか。
まあ嬉しいは嬉しいよな。