俺はまだクソだが、マシなクソにはなれている
長く付き合える人がいいのが当たり前、ってところからスタートした。
そこからスタートして、本当にそれでいいのか、っていう疑念が生まれた。
親とか周りを見て、そんなもんが本当にあるのかよって疑問に思った。
それで、色々試した。
これはどうか、これはどうか、これはどうか。
で、結局のところ、色々試して、やっぱ、時間を長く注ぎ込む、ってところに帰ってきた。
入れ替えられない関係性。
それが俺の求めるものだと思うし、それはつまり、記憶の積み重ねでしか生まれない。
そこでは、飽きる、とかって問題があるのかもしれない。
けど、そうやって色々困難があるとしても、入れ替え可能なところに俺が求めるものはもうないなって思うから。
だから、色々試して、最初と同じ結論にとりあえず今は戻ってきた。
長く付き合える人がいいなと。
金で買えるもんは感動がない。
本当に満足したいから、俺が自分で時間をかけて作ってくしかない。
俺は、どうだろうな。
あいつを責めるのはどうだろう。
そこに公共性はあるか?
無いよな。
責めて誰か幸せになるのか?
ならないよな。
なんでそうやって責めたくなるんだ?
俺が俺を守りたいからだろう。
一次反応だ。
時間を無駄にした、俺には能力がない。
それを認めたくないから、俺はあいつを責めようとしてる。
反射的な反応として。
だけどさ、それに流されるような俺じゃ、もうないだろう。
一次反応に流されないために、これまで思考を鍛えてきたんだ。
あいつと時間を費やしたから、俺はわかったんだ。
俺にとって大事なのはこういうことだって。
だからそれは、全然無駄じゃない。
そして、残念だけど、俺には能力がなかったんだ。
それはもう明白だろう。
でもいいんだ。
自分がクソだってことを自覚して初めて、それに対策を打てる。
強くなろう、って考え始められる。
俺はクソだった。
きっと将来の俺が今の俺を振り返ったら、それはそれでまた、クソだったって思うだろう。
だとしても、当時の俺と比べて、今の俺は随分マシなはずだ。
最初から優秀な奴はいない。
いるのは、自分がクソだってことを経験して自覚して、そこから這いあがろうと努力してマシになったやつだけだ。
そしてやっちゃダメなのは、自分がクソなことを受け入れられないで、目を逸らして、ずっとクソなままでいることだ。
俺はクソだから他人を詰りたくなるけど、人のせいにしたくなるけど、そこに公共性はないし、俺の大切なもんはその先にないから。
だから俺は、俺がクソだってことを認めて、他の人のせいにとかしてないで、俺のクソさと向き合って戦ってかなきゃいけない。
その他先にしか、俺が満足できるものはないから。
俺が礼を言うことに、公共性も合理性も無い。
礼を言っても誰も喜ばないし、嬉しくないし、言ったところで何かがどうなるわけでもない。
だから、俺は礼を言おう。
過剰な、贈与として。
ありがとうな、一緒にいてくれて。