社会科学の方法 儒教とプロテスタントのバランスが日本の共同体
講演の記録かな。
経済は、分業による物質的な新陳代謝である。これは確かに。新陳代謝である以上、古く悪いものは消され、良く新しいものが残る。
まず前提として、人間には自由意志があり、非合理なことをする。だからその行動の大部分を予測できないので、自然科学と同じように分析はできない、という考え方が主流な時が長くあった。それに対して反論するところから社会科学は始まると。科学としての社会科学はね。
で、マルクスは疎外を考えて人間の行動を科学的に分析できるとした。つまり、確かに個々の人間は自由に行動している。が、その集積は大きな渦となり、流れとなり、個々の行動の集積が、個々の行動を規定するようになる。これがマルクスの言う疎外である。
それは、例えばめっちゃ混んでる電車の中で電車が揺れて、みんな倒れたくないけどでも結局誰かが倒れるとみんなドミノ倒しになっちゃう、とか、学生運動の時にすごい人数が押し合ってて結局女性が倒れて踏まれて亡くなった、みたいに、全体の行動の中に入ってしまうと個々の人間が何かしようと思ってもそれに関係なく全体が進んでしまうようになる、という話。
その意味でマルクスは、個々の集まりが大きな流れとなって、そうなるともう個人はそれに抗えずに流れるしかない、という意味での疎外を考えたし、であれば、それは自由意志を考慮しなくていいので自然現象と同じように法則性を見出せる、って考え方である。
むずい。集中しててもむずい。
曲解してるかもしれないし、まあ相手が悪いというか相当にむずいから一読して曲解しても特に問題があるとは思わないが、ウェーバーの場合には、二重に見る、ということをする。つまり、マルクスが経済から見た、つまり経済から疎外を考えて社会というか人間を科学したということに対して、ウェーバーは非常にポジティブである。マルクスを肯定する。
が、経済的な面での分析が非常に重要だと考える一方で、それだけではなくて、人間の理念、まあ心理面からの分析もあっていいだろう。これがウェーバーの理論の基本であると。だから、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神はその意味で理念の方の研究であって、宗教社会学の研究がある程度済んだら今後は経済状況からの社会の分析もやるよ、と彼は言っている。やる前に亡くなったが。
理念と経済ってのは、両輪というか、二つで一つ、みたいなところがある、とウェーバーは考えた。正確には、理念が方向を決定し、利害が実際に推進する、と考えた。つまり、理念、例えば宗教とかそうだけど、それに基づいて利害が決定されて、それによって人間は行動すると。
私利私欲のため、って理念の人は、それに基づいた利害が発生してそれに駆動されるだろうし、神への栄光を、って考えてる人は、それに合わせて合目的的に利害が発生して、行動的禁欲をするでしょう。
つまり、自分にとっての損得で人間が動く。それは間違いないが、じゃあ何が損で何が得なのか、っていうのは全人類に対して所与ではない。損得ってのは、その評価基準があって初めて決まるものだし、その基準は各個人にとっての理念、思想、宗教である。から、その理念についてまずは研究するね、とウェーバーは言った。時間があったら経済の方も行くね、と。やる前に死んじゃったが。
人々の生活の仕方ってのは、時代によって全然違う。昔は、っていうか産業革命前のイギリスだと囲い込みがあって、これは土地を区切って、家畜、住居、職人の工房、みたいに分けてあると。で、その生活圏の中で基本的にみんな生活すると。
アレキサンダー然り、人間幸福を最大の目的とするところまではいいよ。でその上で、それだとデカすぎるから、目的を分割することになる。で、一つは彼女を幸せにすること。友達に対してはまだまだできてないが、それも大事。家族も友達と然り。
で、仕事な。これはプロテスタントを援用しよう。彼らは金儲けを二つに分ける。私利私欲のための金儲け、あるいは富を彼らは否定する。堕落するから辞めとけ、と。でも一方で、隣人愛の実践としての付随的な、あるいは一種評価としての金儲けについては彼らは同意する、というか、かなり積極的に肯定する。っていうのはつまり、隣人愛の実践として、つまり、人々が生活に必要な食糧とか住居、衣服、そういうものをなるべく安い価格で作って、適切な値段で売ることで生まれる利益はいいよと。
現在の俺の理解だと、マルクスは疎外を持ち出してきて、人間の自由意志を考えから排除した。その上で一般的な法則を設定しようとした。
対してウェーバーは、認識の方向性として、特定の事象の因果関係を辿る、という認識をしようと。その上で、人間の自由意志は事象の原因の一つとして処理できるものである、として、だから人間が主観的に何を考えているのか、どんな価値判断をするのかを重視したし、その一つとして宗教はエトスを決定する大きな要因として重視した。
プロテスタントにおいて、人間は神が創り賜うた陶器のようなものである。だから割られても文句は言えないし、まして神との交渉なんかできっこない。で、それは、全てを物化する価値観である。全てを神の為の駒と見做す世界観である。俺はこれにかなり近い。
儒教って、たとえ不合理だとしても、共同体規範に則ってみんなで仲良くほんわかに、って価値観である。なので、共同体ではこうするんだ、って暗黙のルール、例えば年功序列とかをきちんと守り、それに付随する礼儀とかを重んじる、ってのが重要であって、それから外れるような情熱とか合理化ってのははしたないものとされる。
共同体のルールにきちんと従って、みんなで仲良くね。これが儒教。めちゃくちゃ日本人的なイデオロギーだなと。頑張ってる人を馬鹿にする、とか冷めた目で見るってのは、儒教のイデオロギーなんだなと。そして、これじゃあ制度改革なんてあり得ねえよなと。儒教ももうちょい勉強したい、というか、ウェーバーのプロテスタントとの比較論を読もう。
儒教は本読んで勉強しろ、って言うので、そのために金稼ぐのは大事だし全然良いよ、っていう。が、これでも資本主義は発生しなくて、金儲けた先が、共同体維持だからかな。
最初にガーっと勉強して、だいたい完全な理解の30-40%くらいになる。でそれをベースの理論体系として、そこにちょこちょこ足したり考えて結合を強化したり、みたいなことをしてくんだよな。
儒教と比較してプロテスタントの強さってかエトスの重要な部分は、罪の意識である。儒教にはそれはない。現世楽しもう〜、くらいな感じである。
が、プロテスタントは根本に人間は皆、罪人である、ってのがあり、そこから救済されるために神に尽くす、ってイデオロギーである。だから、ネガティブから始まってるし、生きてるうちにゴールがなくて、無限にというか天井無しに努力しないといけない。神の栄光を増せ、としか言われてなくてしかも終わりないから、一生合理化に努めろと。
儒教ってのは、今ある共同体の中で仲良くやろうね、がゴールだし、そのために金集めて本読んで修養しろと。なので、共同体、ってところがかっちりゴールとしてある。それでよい。
一方でプロテスタントは、まず現世でのゴールがなくて、最後の審判で神に許されて神の国に入ることが救済である。で、現世で自分が救われるかの判断はできない、わからない。故に、現世でどうこうしろってゴールが無くて、故に現世のものはどうにでも変更可能であり、かつ、合理化は無限に推し進められる。2つは何が根本的に違う?
資本主義を、果てしない合理化、と定義すると、プロテスタントの一生においてはこれが一番の価値というか、最も優先されることである。神の栄光を増し、隣人愛を実践するために、限りない合理化をすること。
が、儒教においてはどうか。もちろん金を稼ぐことは肯定されている。が、それは手段としてであって、目的は共同体の保存である。とすると、そちらの方が優先順位が高いから、合理化よりもそっちが優先される時が、つまり猛烈に働いたり合理化すると冷たい目で見られる、ということが起こる。その意味で、プロテスタントは合理化を最優先し、儒教は共同体保存を最優先する。じゃあ資本主義にはならないよね、というのが基本かなと。
もっと言うと、根本的なエトスとして、儒教は現世を最終的な目的と捉えるので保存をしたがる。今現世に存在するものに手を加えたり変更することを嫌がる。一方で、プロテスタントは現世を手段と捉えるので、神の栄光を増す、とか隣人愛を実践する、という目的に対して恣意的に変更することに対してポジティブ、というか当たり前と考える。
時間がない、という意識があると、駒としての役割をしなきゃ、と思うよな。
プロテスタントは、稼げ、っていうけど、でも同時に、使うな、って言うんです。贅沢するな、それは堕落だ、と。隣人愛の実践の結果、あるいはその評価として金が入るのは良い。が、それを使って堕落するのは許さない、神への怠慢だ、と。
ウェバーを読めば読むほど、こいつどこまで先読みするんだよ、と思う。すげえな。
ビジネスとマーケティングって俺が昔整理したところだな。人類幸福への貢献の結果として金が生まれるのか、私利私欲のために金を作るのか。前者をプロテスタントは選んだが、資本主義が進むとそこから離れることになるであろう、とウェーバーは言った。なぜ、、
山口周の理論を援用して考えてみようか。資本主義はつまり、コストリターンの話になる。かけたコストよりもリターンが出る、それが資本主義のベース。でそれをやっていくと、最初は色々やれることがあって良いが、徐々に話が違ってくる。コストにリターンが見合うものは大企業が独占するようになり、コストにリターンが見合わない問題、弱者救済とか環境問題とか、その辺りが取り残されて、資本主義が取り扱えない問題になる。そうなると、大企業に入れるか、というのが資本主義に残る上で重要になるし、入れないと本来の意味ではない、私利私欲のための資本主義を展開しないと生き残れない、という状態になるのでは。つまり、本来はコストリターンが合わないものを、つまりコストにリターンが見合わないものを、ずれというか皺寄せを顧客に押し付けることでリターンを無理やり作ると。これが電通の鬼の10ヶ条っていって、物を捨てさせろ、とか、流行をどんどん変えろ、とかって、本来必要のない消費の増進を狙う、みたいなことになると。自分のため、が前面に出て、人類幸福のため、がおざなりになると。
でも、ちゃんと読みたいな。人類幸福への奉仕とその付随物としての収入、という形で資本主義を進めて、そうすると途中からそれが崩れる、というね。なぜなのか。ウェーバーさん!なぜ!
文化領域、経済とか政治、法律、学問、芸術、他にも色々あるはずだが、それらは関わり合いつつも、反発関係も持つ。例えば芸術と宗教はかなり関わり合うけど一方で、それぞれを突き詰めた時に、感覚的な快楽を求める芸術を堕落として宗教が忌み嫌うことになった。この意味で、お互いに関わりあうけれども、突き詰めてくと背反というか反発し合う。これは結局、本質が違い、したがってそれが持つ法則も違うからである。故にそれぞれは関係しているとはいえ、それぞれの目的を明らかにしてその法則性を探る、という学問の展開ができる。経済学、とか、政治学、とか。
マルクスは経済を一つの地盤として、それが諸文化領域や歴史を規定するとした。で、ウェーバーもそれは否定しないが、同時にそれだけじゃなくて、もう一つ宗教という面からも見た方がいいよね、と言った。
経済ってのは、伝統主義的である。昨日のファイナンシャルステートメント、つまり経済状況で今日もあれば良い、っていうね。これに対して宗教は日常とは乖離した規範を人間に要求するし、それが伝統主義を壊した、と。そうね。その意味で、経済と宗教の両面から歴史やそれを構成する人間を分析しろと。それがウェーバー。
経済的な意味を含めた利害で人間は動く。が、利害の決定は、というか何が利害なのかという判断は、理念に由来する。プロテスタントが来て、何が善いことなのか、何が悪いことなのかが変わった。そうすると、その基準に合わせてまた利害の追求を人間は行っていくと。なるほどと。
あと、仲良くやろうな。儒教のイデオロギーがあるからさ。
儒教とプロテスタントの入り混じり、というよりは対立があり、どっちもなんだよな。バランスを取れと。共同体の中においては儒教だし、仕事においてはプロテスタントであれと。んーむ。
倫理、あるいは内的な価値観のもとに心理的価値と外的価値が決まる、というのはもう少し考えていいし、まあその意味では、やっぱこの二つのバランスなんだろうな。