妥協点を探す

何を選んだところで恣意的で、であれば俺は、俺が最も納得できる、正しいと思える恣意的選択をしたい。

それで例え俺が望む通りにならなくても、最後に全部失って俺が最初から間違ってたって痛感するとしても、そこまで含めて俺の恣意性としてそれを選択したい。

って上で言うと、俺は相手が幸せになることを以て俺の幸せにしたい。

そのために相手のニーズに合うことをしていきたいし、それが望むなら相手を失うとしてもまあ仕方ない。

もしできることなら俺が相手のニーズに少しくらい影響できたら、と思うけど、それが上手くいくかはわからない。上手くいかなくても誰かのせいじゃない。俺の実力不足と運が悪かったの相乗だから。

俺は、違う恣意的選択を俺の幸福として納得できない、から、こういう選択をしてるな。

相手のニーズを尊重するし、相手のニーズに影響できたらと思う。

無理だったら無理なんだと思うし、傷付くし、俺の判断を疑うだろうし、もしかしたら後になって翻心するかもしれないけど、少なくとも今はそれを選んでる。

失敗して傷付いたり最悪誰かを傷つけたり悲しませたりするかもしれないけど、それでも俺はこの恣意性を選ぶ。他の選択を選びたくないから。

どんなことを考えてて、どんなことが大切で、どんなことを欲していて、俺はそこに必要?って話なのよな。

どうしても俺じゃなきゃダメ、ってことではなくて、俺のおおまかな好みとか方向性を考えた時に、明らかに合わない、とかなら辞めた方がいいよなと。他にも、何だったら悲しい?とか。

でもさ、そういうifthenを重ねても、体験はそれをゆうに超えていく。

だからifthenをしちゃダメってわけじゃなくて、しても全然いいんだけど、結局は意味ないよ、何も保証しないよっていう。

最終的には、好き?一緒に居たい?ってところが答えになるし、それは言語的な条件プログラムじゃなくて、体験、だろう。

だからまあ、あんま難しいこと考えないで、好き?一緒に居たい?に対してYesである間は一緒に居ればいいし、そうじゃなくなったらそれはそれで考えればいい。

そこを究極点として、まあ条件プログラムも一定大事だしやるべきだけどね。相手が何を好きだからこういうことしてみよう、とか。ただ、それは何も保証しないよっていう。


付き合ってるためには、お互いに好きで一緒にいたいって思ってないといけない。

で、俺は原則的に相手を幸せにしたいから、なるべく束縛とか制限をかけることはしたくない。

でも一方で、それで俺にストレスが溜まって一緒に居たくないってなったらそれはそれで本末転倒だよな。

理論上は俺が相手のどんな行動に対しても何のストレスも感じない、ってのがいいんだけどそうはならないのよな。遺憾な気もするし、まあそうだろって気もするし。

現実が理論に従う、って考えるのは悪い癖だな。理論は現実の一部を説明しうる、くらいでしかない。

までもそうなんだよな。お互いに一緒にいたい、と思ってれば成立するし、もういいや、ってなったら成立しない。それ以上でも以下でもないかなと。

お互いに一緒にいたい、と思えるような妥協点を探して、あれば一緒にいればいいし、なかったら合わなかった、ってことなんだと思う。探す努力って大事やなと。

いいなと思ったら応援しよう!