崩壊を加速させよ 雑音を削れ

正しくてもつまらなかったら行動しない。楽しくても正しくなかったら崩壊する。正しくて楽しいを見つけるまで行動を控えた方がいいかもな。あるいは、そこに向かうモーメントを常に持ってた方がいい。

よく考えたらこれってなんでなんだっけ?っていうのは、考え始めると実はそれを支える根拠がないことに行き当たる。で、そこまで至ると、じゃあ社会なんて嘘じゃん、ってことに行き当たる。そうならないためには、それを考えないしかないし、それを考えないためには、みんなも考えてないんだから俺も考えなくていいや、って、ある種の常識というか、集団的な暗黙のルールがいる。で、集団意識、共同体意識が崩れた現代において、一定考える人間は、いろんなことに何も根拠がないじゃんってことに気付いてしまうし、それが社会に対しては危険因子になる。みんなでいいじゃんいいじゃんって流してたことが、みんながいなくなって、覆い隠せなくなった。その結果、社会に対しての不信というか、正統性の欠如に気付く人間が出てきた。それをどうするかと。幸せならいいんだよ。でもそうじゃなかったら、社会に留まる理由がないかもしれない。そうすると危ない。

システムというか、市場とか国家とかを含めて手続きに頼れば大丈夫、ってことになると、人を頼らなくなる。子供を育てるにしても、近所の人に頼むんじゃなくて金払ってシッターさんを呼ぼうとか、そういうこと。その方が楽ではあるんだよな。金払えばいいだけだから。一方で、それをやると、システムが壊れた時にどうにもならなくなるよ、ってのがある。で、システムは今、市場は二極化して、国家も財政が悪化して年金引き上げとか、システムに頼れない状態に徐々に移行してるけど大丈夫そう?って話よな。だから、システムに頼れば済むところを、人との関わりに頼るってシフトをしてかないといけないと。それはもう個人の手の届く範囲でしか成立しないと思うけれど。まあそれが普通か。

手続き化が近代の檻である。でそれは、手続き化、つまり文脈無視化によって個人が入れ替え可能になることである。もっと正確にいうと、システムに従事するときは手続化でいいんだけど、システムから離れたところまで手続化されると、つまり全人格的に手続化されて文脈無視であるが故に自己の損得にしか注目のない交換可能な個人になると、それがクズだと。言い換えるなら、文脈があることで内発性が発動して個人の損得を超えた関わりができるのであれば、それはクズじゃ無いし、そこを俺は求めてるよねと。それが可能な人と関わりたいよねと。それが、呪いがかかる人、だろう。優しい人、でもいいけど。

なんか、一個だけだとダメなんだろうな。経済とか起業のことをしばらく考えてると、だんだん飽きてくる。そうなって他の本を読むと、結構面白い。でもそれをやってるとまた飽きてくる。から経済に戻るとまた面白い。なんていうか、ちょっと進んでは視点を変えて考えてみて、みたいな重複的な思考をしたいんだろうな。そうじゃないと飽きるっぽい。

マクドナルド的に、手続きに従えば誰でもいい、ってことによる没人格化による寂しさの埋め合わせから、消費をして気持ちを紛らわそうって形に社会がなってると。悲しいよな。確かにエストニアにいる時は、金を使わなくても楽しかった。毎日スーパーで野菜と鶏肉と米を買ってきて、みんなで酒を持ち寄って、家で音楽を聴きながら喋って、それで楽しかった。仲間がいたから、消費なんてしなくても楽しかったんだろうな。そういう世界にしたいし、俺が何かを立ち上げていかないと。

家庭の空洞化は30年前くらいからある。どうしたもんかねえ。まあ変化は変わらないから、その先頭に立たないと。

不平等、不安、不服、そういう不があるところにビジネスチャンスはあって、それはつまり、そういう不がある人は動いてくれるからなんだよな。動く動機がある。不を解決してトータルでメリットになる、ってことを提示できれば動いてくれる。だからやりやすいよなと。不が強烈な方がそりゃ反応はいい。外国人研修生とかな。

ねこぢるは、考えてみたら結局全部どうでも良かったんじゃね?って帰結らしい。まあそうだろうな。

すごい普通であるからこそ、これがあるってよく考えるとすごいなって。すごい普通だけどよく考えるとすごいなって。家に帰ったらご飯ある、とかね。

社会ってのは、人倫とか価値観、って言ってもいい。あるいは常識?世界ってのは、物自体に近いと思うんだよな。認識できないとして、ああ、そうなると違うか。なんて言えばいいんだろな。存在すれど、それをそのまま認識することはできない、と言うか、社会ってクッションというかフィルターを通して俺たちはみてるよねと。それはそう。

世界が永遠で社会は一時的、ってのが普通の認識だが、個人レベルで見ると、世界こそ一時的で、てか幼少期から若い時期にしか開かれていなくて、そこから徐々に社会に限定されていく、って意味で、世界こそが儚い一時的な存在で、社会は徐々にそこに閉ざされる永遠であると。

無意識が言葉のプログラムに、あるいは社会に規定されている。であるが故に、無意識から飛んでくる感情ってのは、実は俺のものではない。降りかかるもの、といってもいいし、俺の認識では、一次反応、ってことになる。で、これは俺じゃない。であるが故に、何かしたくなったとして、それに素直に従うことが自分の素直な欲求なのか?と言われたらnoで、何かしたい、ってのは基本的に一次反応、あるいは社会から与えられたものである。それに従うのは自由ではなく不自由で、じゃあどうするか、って話になる。で、俺の場合は、一回考えろ、ってことだと思うんだよな。それをやることでお互いにwinwinになって、お互いの利益が最大化されて、ってことであればやればいいと思うし、それをやりたいと思ったところでやっても誰にも利益がない、みたいな話であればほっとけばいい。やらなくていい。まあダメとは言わないけど、不自由ではあるよねと。

感情に対して、つまり社会から与えられる一次反応に無批判に乗っている場合、人にねだるようになるし、俺が望むものを世界は与えてくれない。俺が一次反応を統制できるようになり、その結果として他人にねだったり感情に流されるのではなくて、俺が俺の意思を統括して、感情の先に俺と他者のメリットの両立を考えることになれば。世界は与えてくれる。考えるべきはそこだなと。

むずいしわからないが、しかし意味がないとは思えないんだよな。目の前に提示されてるのに、それを解読できない。でもそれを諦めようとはあまり思わない。続けてるとちょっとずつわかるようになる気がするのと、意味があると思うからなんだろうな。こういうことってあんま他ではないかもしれないな。

望むなってのは、そんな厳密じゃなくていい。意識の問題くらいかもしれない。今日なんか成長したかなあ。まあ考え方、みたいなところでは多少の成長が、一次反応ではなくて倫理とか論理に則れ、とかだろうか。一次反応から倫理や原則への移行、そこに世界からの与えがある。それはまあ、一般原則かもしれんな。原則に基づいて俺を統制すること。一次反応にブレないこと。

過剰性ってのは、人間の確かに1要素かもしれないな。どんだけ過剰か、ってところでグラデーションはあると思うけど。

俺たちは主観的に生きている、と思いきや。実は最初に与えられた条件に基づいて生きているんじゃないか、というか、最初に与えられた条件に基づいて展開されているんじゃないか、というね。

受動から始める能動、というのがある。能動から始める受動、もある。能動から始める受動、ってのは、まず何かを自分の意思でやり、そしたらそのせいで何かをし続けることになってしまう、ってパターン。石投げるって決めて投げたら物壊しちゃったから金払わないと、そのために働かないと、的な。受動から始める能動ってのは、最初に何かを告げられて、それに対して沿っていく、って判断をする、みたいな。まず何かの訪れがあり、それに対して、それを受け入れるなり反発するなり、能動的にリアクションしていくと。まあどこまでが世界か、って話な気もするが。


結局のところ、誰かのために、ってところに全てが収束帰結する。勉強するにしても、体を鍛えるにしても、俺が何をしようとも、それは自己犠牲を含めた守りたい誰かのために、って内容なのか、ってところに焦点が最終的に定まるし、そこで評価されるべきでもあると思う。

未知なことを知ったり、成長したり、そういうのは確かに楽しい。それは俺の個人の中で独立した楽しさだし、それはそれでいいと思う。が一方で、他者のために自己犠牲を厭わない、ってことも楽しく、また美しい。どっちもあって、日常が形成されればいいと思うし、そこに雑音を入れたくない。

面白いのか?誰かを守ることになるのか?

2つは独立だけど、でもいつか絡むと思うんだよな。誰かを守ることは面白くなるし、面白いと思って学んだことは大切な誰かを守る糧になる。だから、その2つで日々を構成したい。

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