人の名前を覚えるのは、俺の力のためだし、誠意でもある
さっき面談をしてもらって、俺が将来やりたいことに対して、じゃあどうしていけばいいのかって相談に乗ってもらった。
で、俺はもっと情報を取らないといけないし、情報を取らないから足が止まってるってことに気付いた。
俺それさ、すごい恥ずかしいんだよな。申し訳ないなと思うし、何やってんだろ俺は、と思う。馬鹿じゃないかって。
やれよ、情報入れようって話になっただろ。やれよ。人に話を聞く以前に、いろいろ調べて情報を取ってこいよ。その上で人と話せよ。自分じゃ取れないものだけを取るために人と話せよ。じゃないと失礼だろ。適当な質問をして、それで相手の時間を取るって、馬鹿じゃないのか。1番最悪だろ。何かを聞いて相手の時間を取るなら、自分ができることは全部やってからにしろよ。なんでこんな当たり前のことができないんだろう。
と思った時に。
変な話だけど、人を巻き込むと頑張ろうと思える。恥ずかしい気もするけど、これは事実だなと思う。自分のためには頑張れない、って話でもある。
こうやって、自分がこういうことやりたい、みたいなことを人に話して相談させてもらって、相手の時間をいただくってgift(毒)をもらって、それでやっと頑張ろうと思える。恥ずかしい話だけど、それは本当のことだよな。
俺は俺自身を駆動するモーメンタムがないんだろうか。俺に何かペインが降り掛かったら、それはやるかもしれない。金がないとかあったらやるのかもしれない。でも、そんな危機はない。だからやらないのかもしれない。ってなった時に、じゃあどうするのか。
人に相談させてもらって、自分の至らなさを痛感すること。これがあると頑張れる。しょうもない話ではあるが、でも大事だとは思うんだよな。てか、事実としてそうなんだよな。この人みたいになりたい、とか、この人にこんなに時間と意識を使ってもらったんだからやらないと、とか。そういうモチベーションは強いし、それが俺を大きく駆動する。
それはもう、経験からもそうだろう。俺を限界まで動かすのは、そういう力だよな。逆に、俺のため、だけでは何も頑張れない。大した結果も出ないし、頑張ることに自信も持てない。俺は結局のところ、自分の行為とか意思に対して、正統性と、そこへの力を、他者への内発性から調達してるんだろう。
つまり、俺が何かをやりたいと思って本当にやり通すのは、俺のため、じゃ無理で、誰かに憧れて、とか、誰かに申し訳ないと思うから、とか、誰かに恩義を感じるから、ってことなんだよな。それが俺を駆動する1番本質的な力だと思うし、であるのであれば、それはもう受け入れて、そういう場を、つまり、誰かに時間をいただいて相談させてもらう場を設けて行った方がいいのかもしれない。そうやって俺にガソリンを入れていった方がいいのかもしれない。
そして同時に、そのガソリンを長持ちさせたいってところで、名前をやっぱ覚えよう。〜さんが俺のためにあんなことをしてくれた、〜さんがすごく頑張って勉強していて憧れた、そういうことを俺の中になるべく新鮮な状態で、俺を動かす力として留めておくために、俺は名前を覚えたい。記録の中に名前を書きたい。そうやって、頂いた力を最大限使いたい。それが誠意だと思うから。