危機の構造 共同体としての企業の解体と、経済の競争と機能集団化

時間はいくらあっても足りないような、多すぎて持て余しているような。まあ問題はその多寡よりも、多寡に対する認識であるような気もするし、だからするする移り変わるのかなという気もする。

思ったのは、えーと、日本人の行動様式が戦前戦後一貫してるのであれば、把握するのが楽で良いなってことね。

すげえな、東大を焼いたり企業を爆破したりしてたのか昔の学生は。そういう暴力からすごい遠のいたというか遠ざかった感があるよなあ。良いのか悪いのかわからないけど。

エリート中のエリートがなんかやばいことの主犯格になるってのは、A級戦犯、ロッキード事件、オウム真理教のサリン事件、って感じで、結構見当たるな確かに。海外だとどうだろう。ヒトラーとかはエリートだったんだっけ?海外の事例を知らないから、なんとも言えないな。

近代デモクラシーっていうのは、人間が制度を作ったと考える。だから別に、制度がイマイチ社会に合ってないなら変えれば良いじゃん、っていうのが当たり前。こう聞くと、すごいキリスト教っぽいなと思う。イスラムとかでこれはないよな。制度も法律も社会に合わせて変えていくものであると。前例がないからやらない、っていうのは、この認識が徹底してないところに起こる。前例が、とか言ってたらフランス革命もアメリカ独立もない。じゃあ江戸城の無血開城は。システムの変更だから同じじゃね?

制度とかルールが正しい、っていう意識があるので、その中で頑張ろうとすると。ルールは守るもの、ってな。ただ一方で、政治なんて1番悪が少ないものを選んだだけ、とか、権力は腐敗する、とかって価値観があると変わってくるよと。

中学生にわかる事しかわからない人がたくさんいる。その人たちのために勉強するんだろう。で、別に俺は学者になるわけじゃないから、本を読むことが本義だとは言わない。都合いいかしら。

集団が、全体的か、統一的か、と言うのはちょっと新しい。集団にも色々あるぞと。

ちょうどヒトラーについて、ってかナチスについて書いてあった。ナチスの場合は、当時の社会の落伍者から始まってるらしい。薬物中毒者やアル中やゲイなどから。

5/15事件とかの時、将校たちは一般市民に対して害を成すことをすごく嫌ったし、敵である警官にも、自分たちに抵抗しない限りは危害を加えなかった。つまり、中立な立場の人に対しては、あるいは敵ではない相手に対しては危害を加えちゃだめだって規範があった。それが、爆破事件であったりオウムであったり、無差別化してきてるってところがかなりヤバいと。そうやって、規範が失われた無秩序をコンプリートアノミーと呼ぶと。しかもこれが、社会の落伍者ではなくて、普通の社会の中流の人たちに来てることが、つまりオウムとかだったらむしろエリートだったわけだけど、そういう人たちに来てるのがヤバいと。

権力が、ルールとか先例で判断するんじゃなくて、気持ちで、恣意的に判断するようになったらやばい。

自分はエリートであり、人々のためにはあることをしないといけない。それを達成すること以外はどうでもいい。こういう考え方が危ないと。

要は、自分が置かれてる状況の中でベストを尽くすことしか考えないで、そこに心血を注ぐので、それは部分最適ではあるが、合成の誤謬になると。太平洋戦争に突っ込んだのは、軍事的には素晴らしい作戦だったけど、それで講和の可能性は絶たれてしまった。軍事的には正しいが、トータルで日本って国の観点からしたらまずい。部分最適としては正解だが、全体としては致命的に間違ってる。これが日本ではよく起こる。エリートに限らず大衆化している。

目的とか目標をこれって置くと、それを達成することに夢中になる。そしてその過程で巻き込んだり衝突したりするものについては一切無視する。だからいろんな問題が起こる。これが官僚的思考。まあ官僚に限らずビジネスとかでもあることらしいけど。まあそうだよな。これだけやればいい、と思えたら楽だ。ただ、そうやって視野を制限してその中で最高のパフォーマンスを出すってのはそれはそれで重要で、大事なのはそれを総合した時のバランスを取ろう、って仕事をその官僚的役割の人たちに任せていること。そうじゃなくて、その人たちにはそれぞれ最大効率を走らせといて、一方で全体を見ながらバランスを取る責任者がどっかにいないといけない。政治家がそれだろ。あるいはリーダーが。

日本だと機能集団が運命共同体になる。つまり、目的のために組織されたはずの集団が、アソシエーションが、そこに入り、そこで生活し、そこで死んでいく、みたいな人々の人生にとってすごく大きな居場所になり、そうなってくると、そこにある文化とかルールってものが、最初に人間が作って人間が必要に応じて変えられるものであるってことが忘れられて、元々自然に初めからそう存在してたように思えてくる。そうなってくると、共同体のルールとか規範がまるで神聖なもののように思えてきて、それに無批判に従うことが要求されるようになる。校則とか、意味がないけど守れっていうのはこの議論ではなかろうか、いまいち掴めてないけど。学校に入る。学校ってのは元々子供の教化のために作られたもんだが、学校に入ると、それは生徒のあるいは教師の人生の一部になってしまう。そうすると、そこにあるルールってのが初めから自然にあったものみたいに感じられる。ここだよな、なんで?なんというか、こういうもんか、と思っちゃうんだよな。コミュニティ的に受け入れちゃうんだよな。アソシエーションとして目的を遂行するための機能集団ってよりは、人が集まっている居場所、コミュニティとして。そうすると、ルールとか規範は人間が作ったり作り直すものじゃなくて、元々そこにあったもの、みたいに感じられる。なぜなら別に、目的遂行ってことへの意識が薄くて、むしろみんなでいよう、って運命共同体的な、居場所としての感覚が強いから。とすると、目的のために規範を組み直すってモチベーションが生まれないよな。

そんで、集団的要請を第一だと考えるので、つまりその集団がやれっていうことを無条件に1番の目標にして他のことを顧みないので、批判を受け入れない。そうすると、他の団体と話し合って全体から見て調整するってことが効かなくなる。そうすると結局社会は回らない。

官僚ってのは与えられた目標に向かって走るのが得意な人たちである。が、決断主体ではない。で、リーダーというか一定の地位になって判断を求められた時に彼らは耐えないので、所属する共同体が求めることを、それがどんだけ問題を孕んでてもやると。その時に、それがどんだけ問題を生むかとか、他にどんな代わりの選択肢があるかってことは考えられない。判断はそれしかないように行われ、判断の責任が意識化されにくい。

要は、自分で判断できないから所属する集団のみんながいいっていうことをやろう、ってなって、それに問題が含まれているとしても、それを当たり前のことのようにやってしまう。で、事後になんで太平洋戦争なんて始めたんだって言われても、わかりません、みんながやるって言ったから、みたいな答弁になる。戦後のロッキードとかもオウムも同じように。ただ現代は、そのレベルでさえのつながりも失われていってる気がするけどな。

しかし、官僚タイプってのは日本人の理想のエリート像になってると。なぜなら理想のエリートの長所短所はほとんどの日本人の長所短所だと。エリートってか理想像を自分たちの延長上に書くってのは面白いな。まあ神も人型だしな。

戦前の日本に軍国主義ってのをマジでやってた人はほとんどいなかったと。へえ。ミリタリーアニマルがエコノミックアニマルに変わっても、別に本質は変わってないと。うーん、だからまあ、興味の関心が、あるいは目標の矛先が軍事になるか経済になるかっていうね。まあ確かにその根本は変わらないかもしれないな。同型の行動様式の異なった状況下における異なる表層の相違であると。だけど、内面的な部分での組織的努力をしないとダメよと。まあ、軍事万能の単細胞生物をミリタリーアニマル、経済万能の単細胞生物をエコノミックアニマル、イデオロギーの場合はイデオロギーアニマル、らしいので、何かに夢中になりすぎてるってことかな。単細胞生物ってひどいな。

共同体のルールと前例が自然のように所与のものとしてあり、それを作り直したり批判することはできない。これがいつものパターン。そしてそのルールの中で最大化しようとする官僚。いやだから、ここは分業なんだろうな。

純粋に、山口周と比べて、あるいは宮台と比べて、読書量が足りない。まあ別に勝たなくてもいいけど、そんなに遠い差ではないでしょう。埋められないことはないでしょう。累積は無理だよ?スピードも無理かもしれないよ?だけど、もうちょっと読める余地はあるでしょう。無限小からでいいよ。
社会っていうのはいろんなもんからなっていて、単純に生産を増やせとか言ったところでどうにかなるもんではない。

優秀っていうと、官僚的優秀さに留まる。がそうじゃなくて、全体を見る賢さをつけてくれと。

科学ってのは、全体の結びつきを見た上で非常識なことを言うことだと。というか、常識では思い当たらないことを。

社会現象は波及しまくって影響が返ってくるので、最初の行為者の意図と違う結果になることが多い。だから、意図がどうこうよりも、それがどういう波及の仕方をして、どういう結論に至るのか、という分析の方が重要であると。

確かにだって、戦争したくてしたわけじゃない。断りきれないって状況が最悪を生む、あるいは個人としてはダメだと思ってても共同体を所与の存在と考えることでその要請に批判が効かなくなる、そこに組織の視野狭窄が巻き込まれてえらいことになる。

ドイツは一次大戦で、フランスとロシアに挟まれてたからフランスをとにかく速攻で落としたかったが、そのために中立のベルギーをつっきったので同じ中立のイギリスが入ってきて負けた。ヒトラーはそれ知ってたので、フランスとソ連を同時に相手にしたらヤバいと分かってた。だから第二次で戦うときはフランスイギリスと戦うのを前にして、ロシア黙っててねっていった。それを見た日本の内閣はドイツの動きが分からなくて国策を立てられないって総辞職したが、それはどうなのよと。

弱い国は、列強に事前に確認をとってその上で行動するってのが国際政治では定石であると。

戦争とか国防ってのは単純に攻められた場合のことを言うだけじゃなくて、オイルショックとかも含む。つまり日本はアメリカとかロシアみたいに資源を自給できる国じゃないので、世界中からいろんなものを輸入してる。世界中に血管を張り巡らしてるようなもん。そこでたとえば中東で戦争が起きたりすると、そっから持ってきてる石油が途絶えたりして、そうすると日本でいろんなものの物価が上がったりして困る。それほどまでに日本の経済は危ういものの上に立ってるし、ウクライナも小麦とかじゃがいもが途絶えて世界中で奪い合いになって、その結果卵の値段まで上がる、みたいなことになってる。そうやって、日本が直接攻められなかったとしても、日本が世界中に巡らしてる物資の運搬路に傷がつけばそれで日本にダメージが入る。だからこそ日本は、世界中で戦争が起こらないように諜報活動と情報戦をしてかなきゃいけないのに、昔から苦手で、嘘をついたりってことができない。それじゃこっから経済がきついぞと。日本経済が必要とする資源をどうやって確保するか、そこに日本がかかってる。

ソ連は結構軍事的なリスクを取ることを好まないので、攻めて大丈夫と思った時に近くの国を攻めるくらいしかしない。ウクライナの時も確かアメリカが、介入しないって言っちゃってからロシア攻めたんじゃなかったっけ?まあいいとして、日本に攻めて来ることはほぼねえぞと。特に、アメリカが日本を守ってくれるか論争があるが、別にそれは割とどうでもよくて、守ってくれないかもしれない、ってことは守ってくれるかもしれないってことであり、その条件下ではソ連は、てかロシアは攻めてこない。アメリカが守らないって明言したらちょっと微妙だけど。ロシアよりは中国の方がヤバいか。

ソ連がバルトとかポーランドを併合したのは、ドイツがってかヒトラーが戦争始める時にフランスとロシアに挟まれたくないと思って、だから東欧あげるから黙ってて、って独ソ不可侵を結んだことによる。だから結構、1940年とかのことなんだよな併合って。それはまた最近だなと。

経済的な結びつきは強いけど、軍事的にはわかったもんじゃない、みたいなことがある。

日本の国防について言えば、アメリカが守るかもしれない、って考えられる限りは直接的な侵略はほぼない。一方で日本の経済の動脈についてはかなり怪しくて、世界中に張り巡らしてるが一方でそれを守ってくれる人はいない。国連も紛争解決に関してイマイチ。アメリカにもそんなのまで守る義務はない。

製造業とかの重科学工業は輸入にかなり頼る。なので、情報産業にシフトしたい。なぜなら情報産業は別に資源をほとんど必要としないから、海外に頼る必要がない。ITってことよな。

無限小にちょっと足すわ。やってみないとわからない。事前にこれはいいとか悪いとかうまく行くとか行かないとかわからないから、ちょっとやってみ。無限小から実行してみて、で、ああこれはこうなるのか、ってことを積み重ねていかないと、その積み重ねが俺は足りないから事前にはわからない。だから、やってみ?無限小サイズで。

新聞が天下の木鐸になる、という発想がすごいよな。ネットとかないのかこの時代に?ただ事実を報道するんじゃなくて、こうしなきゃいけないとか、こうなってるってことを指して、ある種オピニオンリーダーみたいにならないといけないと。すげえな。ねえわ。そういう付加価値の付け方があるか。まあだから、原材料を持ってくるだけじゃなくて、それを責任もって加工しろってことだよな。うむ、それはそう。

論理ではなくて感情で判断される。そして意見はその個人の人格と結びつけられる。なので、一般の人の気持ちにそぐわない、あるいは人の気持ちに沿わないことを言うと、間違ってる、って言われた上で、あいつの人格はおかしい、まで言われる。そしてこれが普遍化してるので、そもそも一般の人の気持ちに合わないことを考えることさえ悪だ、みたいな判断をされる。だから変なことを考えると、あるいは普通の人の気持ちに合わない、おかしいって思われるようなことをするだけで、それは間違っていてその人格も悪であると。あいあい。

そして、普通じゃないことを考えちゃダメだって自己規制が勝手にかかるようになると。こっわあ。大衆化するってことな。でこれがメディアを殺すと。つまり、大衆の反感を買うこと言っちゃダメ、であるなら、なんも言えねえじゃねえかと。てか、木鐸にはならないよな、だって大衆と同じレベルで話さなきゃいけなくて、啓蒙しようとしたら感情的にキレられるんだから。

でこれは要は、何かの意見にスティックしてるわけじゃなくて、感情的にみんなが言ってるとこ、にくっついてるだけである。だから、最初にこいつが悪いってみんなが言ってたらそれ以外を言うことはなくて、状況が変わって反対のやつが悪いってことになったらそいつを非難することしか言わない。

いやそうじゃなくて、論理的に、これとこれがある、って考えないと判断を間違うんじゃないの、と。俺もそうだな。感情的にフラフラしてないで、ある程度論理的に、これとこれとこれがあって、しかし俺はこれを選ぶ、って感じで判断しないと、いつまでもあっち行ったりこっち行ったりする。まあそれをある程度やるのはいいとして、ある程度やったらやっぱ俯瞰した方がいいと思うけどな。これもある、これもある、って一通りやって、その上でじゃあどれにするか決めよう、って言うのがジャーナリズムの決め方だと。

そうすると、それを人生でやるとなると、時間かかるな。まあしょうがないか。事前にはわからんのだって。これをやってみた、次はこれをやってみた、そしたらそれぞれこうなった。あとなんかあるか?とりあえずこの二つくらいかな、そしたらどっちがいいかを決めよう。こんな感じで、全体を一回試してから判断するって言うのが1番いい。という意味で、無駄は無駄にはならない。

日本の会社は、人を取ると切れない。出せない。しかし一方で必要なマンパってのは決まってて、むしろ今の状態でも人がちょっと多いくらいである。だから取るなら取った後にマンパ需要、というか、要は人手を必要とする新しい事業が必要だと。まあそりゃそうだよな。だから成長産業なら人を取るし、そうじゃないならあんまり取りたくない。

要は、目標をこれって一つに絞ってそこまで努力するってことは得意なんだよ。ただ、そもそも複雑な環境の中で目標は何なのかとか、複数の目標をバランスしながら並行して走らせるってことが苦手なんだろうな。あれとこれをうまくバランスとりながらやる、っていうのが苦手なんだろう。これって一つに決めて走った方が楽だからな。論理にしても感情にしても。

いやポイントは、目標が他の目標と絡み合ってるってことかな。経済を頑張りたいなら外交とか文化とか学術が関わってくる。そういうふうに、独立した目標を掲げたように思えても、実際はいろんなもんが絡まっていて、それを無視してそれだけを引っ張ろうとすると他のもんも引っ張られて崩れたりする。だから大事なのは、いろんなもんが相互に有機的に繋がってて、そのつながりはどうなってるのか、っていうのを考えることだと。独立ではなくて、それぞれが繋がってて、だからその繋がりの分析をしろと。何をどう引っ張ると何がどう動くのか、それぞれがどう繋がってるかの分析をしろと。なるほどね。ポイントはここな気がするな。俺も後でやってみよう。走りながら。

有名なゼミでも、だいたい週に一回くらいなんだな。まあだから、みんなで集まってやるのも大事だが、それは一部で、自分で学ぶところが大きいよってことかなと。一部といってもある程度大きい一部だとは思うけども。

学説ってのは、てか学問っていうのは、現実を単純化することである。その過程で抽象化するので切り捨てられる部分があり、そこについては学問はカバーできない。それを、学問がそのまま世界だと勘違いするとえらいことになる。

科学ってのは、現実全てをカバーするもんではなくて、現実の一部だけを切り取って単純化して、他の部分は無視する。そこが弱点ではあるが、だからこそ進歩できたという面もある。

要は、完全に全てをカバーしないで捨てる部分があったとしても、経済学みたいにありえない仮定に基づいて展開されていたとしても、あるいは物理学みたいに存在しない質点などの概念の上に考えられていたとしても、それが価値を持つのは、対象の大事な部分を抜き出して単純化することで有効な理論が構築できる、つまりモノを見通して価値ある判断や行動や見通しを作るからである。

大事なことは、物事の全てをカバーしようとすることではなくて、物事の中で大事な部分を抜き出してきて、それを単純化することで意味ある思考を構築すること。そして同時に、カバーし切れない部分、取り扱わないで捨ててしまった部分があるということを忘れないこと。それが科学であると。

だから、ケースとかも、別に完全に全て考えることが大事じゃなくて、物事の中で大事な部分を落とさないために一応meceで全体を考えるけど、その中でこれとこれが大事そうだなってなったらあとは捨象していい。大事な部分を漏れなく見つけるための俯瞰であって、俯瞰自体に意味があるわけじゃない。全てを均等に考えることに意味があるわけじゃない。大事なポイントを見逃さないこと。そしてその大事なポイントに絞って考えること。そのポイント同士の関連性を考えること。

思いっきり話が逸れたけど戻ろうか。えーっと、結局のところ?なんだっけ?えーと、だから学問ってのは大事なとこだけに単純化するので色々捨て去る部分があり、故に非現実的であることからは逃れられない。それに対して、例えば経済人なんてねえよ、っていう批判は経済学に対して、歴史学派、シカゴ学派、とか色々名前を変えていろんな経済学者たちが叩いてきたが、結局は経済学は生き残っている。非現実的なのは間違いないが、それでも大事なポイントを押さえていて、その上に理論を構築できて、それが現実の役に立つならそれでいいじゃねえか、っていうね。というか、ある程度現実離れするから単純化できて理論化できる、という話もある。

人間は元々同じ生活を続けるってことが自然で、効率の最大化とか、合目的的な行動とか、あんまそういうのはない。それは資本主義だと当たり前だけど、普通は、生産効率が2倍になったら働く量を半分にするのが人間である。効率の最大化って目的のために動くってのは、人間の自然ではない。だから、経済人って概念はまじで意味がわからんってか非現実的なものではあるが、しかしそれは資本主義ってもんを考察する上では非常に都合がいい仮定である。そして科学は、現実の一部を切り取って現実に接近できればそれでいい。だから、非現実だっていってもそれは批判として価値がなくて、その過程は現実の大事な部分を反映してないから意味がない、って言うか、よりより仮定を置くことでより現実の大事な部分を拾えるっていうか、どっちかである。

資本主義ってのは、労働と労働力が分化し、労働市場が一般に成立し、生産者と生産手段が分離することが条件であると。で、日本の場合まず、労働市場が成立してない。要は、企業が一回人を抱え込むと、ほとんどそっから流動性がない。そのまま抱え込みっぱなし。他の国においても、労働組合があってその力が結構あるから、完全に物価みたいな完全競争の市場にはならないけれど、それでも一応流動性はもっとあって、労働市場はなんとか存在してると。しかし日本はそうではない。それで面白いのは、他の国だと労働者はマーケットが一応あるので、より高く労働力を買ってくれる会社を探すし、そうやって職業ごとのマーケットがあるので、労働組合も職業別に作られる。会計士の労働組合、エンジニアの労働組合、みたいな。一方で日本は企業に対する労働組合、みたいな形になるので、春闘みたいにみんなで一斉に賃金を上げろって話になる。じゃないと、他者の同業の人との関係性が薄いってかほぼないので、賃金上げろってバラバラにいっても小さい動きにしかならないと。

契約だけがお互いを束縛するものであり、その契約が許すのであれば好きにすればいい、自由にすればいい、というのが資本主義のベースである。まあ実際はもっと色々あるけど、しかしそれでもそれが全てに通底するルールであるのが資本主義である。

株主は会社を所有してるので、株主が経営責任を問われることは、公害とかを除いてない。要は、自分の会社なんだから、その運用がうまくいこうが悪かろうが別に誰に謝らないといけないわけでもないと。経営者が株主に対して経営責任を持つことはある。それは株主に使われて、成果を出せって言われて契約してるわけだから、うまくやらないといけないよねっていう。

古典的な経済学の特徴は、経済はほっとけば最適化される、各人が各人の最も合理的な選択をすることで、最終的に経済は最大効率的な形に落ち着く、ってことであった。アダムスミスの見えざる神の手ってやつ。そしてそれに対応して、政治とか政府の介入も極力避けられた。

が、資本主義が高度化して、生産能力が上がり、それに伴って分業化が進むと、色々問題が起こるようになった。経済がほっといてそれでOKとはならなくなった。経済で問題が起こるようになったので、それを解決するために政治が介入する必要が出てきて、それに伴って政治が大きくなり、社会の広い範囲に介入するようになった。ということで、政治組織が巨大化してきた。こうして、元々は経済が独立してた故に政治と経済は独立してたのが、今は経済が抱える問題処理のために政治が絡むようになり、政治と経済は相依存する、というか、どっちかの問題は双方の問題になるようになった。経済の問題は政治の問題にもなるし、政治の問題は経済の問題にもなる。

要は、なんか他のものと絡み合ってるのに、ある一つだけを選んでそのことだけを最大化しようとするから壊れる、っていうのが日本人の行動様式の悪いところである。仕事なら仕事に打ち込み、他のものが壊れる、みたいな。他のものを見なきゃいけないし、もっと見なきゃいけないのはつながり方である。物事がお互いにどのくらい引っ張ってるのか、どのくらいまで引っ張って大丈夫なのか。糸でいろんなもんが繋がってるイメージ。

経済に対して政治が上からうまくコントロールする、ってことが大事になる。じゃあうまくコントロールするために何が大事かっていうと、いろんなもんが所与のものではなくて人間が作ったものであり、だから人間の力で変えたり作り直すことができる、って意識である。

が、これは元から人間に備わってる価値観ではない。伝統的主義社会だと、人々は社会や政治を自然の一部だと考える、つまり人間には変えられないと考える。社会や政治は自然なものであり、その中で人間は生まれ、生活し、死んでいくものだと、つまりあらかじめ決まってて変えることのできないフレームというか規律だと考える。だから、近代的な政治と社会になりたいのであれば、そういう前近代的な考え方から逃げるしかない。じゃないと、社会と政治は人間には動かせない、とかいってたら今の資本主義はどうにもならない。

神が作ったんじゃない限り、所与のものじゃない、っていうと全部神が決めたって言われるか。人間が作ったものである以上、って方が正しいな。

日本社会の特徴は、集団が運命共同体的になること。つまり、一回入ったらしばらく抜けないで、そこが居場所になると。まあ確かにな。会社もそうだけど、サークルとかもそういう色があるよな。レアルとかもそうじゃね?団体のため、組織のため、歴史のため、って意識はあるだろ。

共同体にいないと生活が立ちいかない、経済的に、また同時に、社会的な生活も、つまり人間関係もそこにかなり含まれてると。だからその共同体から離れることができなくて、そこに一回入ったら死ぬまあでそこにいると。なんでだろうな。家庭が弱いからか?地域が弱いから?

アメリカを筆頭に資本主義各国では、会社は株主のもの。だから、別に株主の指示で会社が何をしようとかまわない。例えば株主が会社に大量のゴミを海に流させたとしても、それは別にかまわない。しかし、そこに他害原則が関わってくる。つまり、人間はやりたいことは好きにやっていい、しかし他人に迷惑はかけるな。これ。車に乗っていいが人を轢くな、っていうのと同じ。やりたいようにやっていいけど、他人に迷惑かけないでねと。なので、海にゴミ流して汚染して他人に迷惑がかかった場合は、必ずその賠償をしないといけない。あくまで株主の持ち物であり、つまり同時に株主に責任がいく。

が、日本だと機能集団が共同体になる。そうすると、共同体の成員にとっては、共同体が全てで、その中ではきちんとしないといけないけど、その外に対してはそれはもう自分にとって大切な世界ではなくて、どうでもいい、と思っている。なので、外に出た途端に道徳水準が下がる。

これがどうなるかっていうと、アメリカだと密告しろってことが一つの公害対策になる。つまり、自分の会社がやばいことやってますってのを社会にリークしろと。もちろんそれやるとアメリカでも会社で干されるけど、しかし社会的には、よくやったってことになる。でも日本だと、外のどうでもいい人たちのために共同体に危害を加え、しかも共同体から干されることは生きていけないってことを意味する。だからそんなことできない。うーん、なんかこの辺はあんまり納得できないな。もちろん干されるし、アメリカでも、こいつはリークしやがったって話になるんじゃないか?そうすると、その人を取ろうとする会社は実際問題として減ると思うけど?だからアメリカでもそこそこ厳しいだろ。日本だけってことではないんじゃないか。

まあただ、実際に起こったこととして、企業が有害なもんを海に流してて人に迷惑をかけてるって分かってるのに黙ってたってことが日本では実際にあり、それは共同体の外の人なんてどうでもいいってのと、共同体から振り落とされたら生きていけないって意識があったからだと。

日本の特徴は、機能集団が共同体にもなることである。で共同体になると、年功序列とかその共同体から離れにくいってことは、普遍的に起こる。つまりアメリカだろうがフランスだろうが、共同体からは離れにくいし、年功序列もある。しかし、そういう国では機能集団、つまり目的を持って組織されてる会社とかの集団は、共同体、つまり地域共同体とか教会とか人種共同体とか、そういう共同体と区別されてる。つまり、機能集団と共同体が別に存在する。その文化がなくて混ざってるから日本の労働時間は長いのかもな。
ただし、日本で会社が共同体的になったのは戦後しばらくしてからであり、高度経済成長期くらいか。それまでは日本でも会社は機能的集団であり、転職とか普通にあったし、年功序列ってよりも優秀なやつをどんどん上に行かせようってシステムだった。へえ。別に日本の普遍的な特徴ってわけではない。

機能集団の代表例は、会社、官庁、学校。警察とかも含まれるのかな。
中途半端な共同体は腐敗する気がするな。要は、言って信頼できるならいいよ。間違ってるっていって、確かにそうだな、ってなる、あるいはきちんと話し合えるならいい。しかし、不利益だからっていってハナから取り上げてもらえないとか、そういうのはどうだろうな。話ができないんじゃないか?まあでも、無限小から行こうじゃないか。

天皇制が崩壊した時、急性アノミーになったと。要は、これまでのルーラーが、全てを司って管理してくれてた権力が崩壊したので、特に心理的に何を頼ればいいのかわからないって状況になったと。そこで人々は、家族とか地域共同体に還流した。つまり、家族とか地域って自分の身近な共同体、拠り所に帰着した。が、それがぶっ壊したのが高度経済成長だろと。終戦でアノミーからの家庭と地域、さらに高度経済成長でそれもぶっ壊れて完全に個人化。宮台の議論に天皇が乗った感じだな。

なるほどね、日本の近代化っていうのは、中央から地方へ近代化を進めていく一方で、地方から中央へ共同体的役割が浸透していく過程だと。つまり、高度経済成長していく一方で、それが壊した家庭とか地域の役割が機能集団に浸透していったと。つまり、経済成長することで家庭とか地域は壊れた、とはいえ元々頼ってた権力としての天皇も崩壊した。となると、心理的にどこに頼ればいいの?状態。でそれが行き着く先が、高度経済成長中に成立していく企業であったり官庁であったり学校であったりにそれを見出そう、共同体的心の拠り所を見出そう、という考え方。要は、心の依代を求めた結果、高度経済成長の産物にそれが結びついたと。おもろいな。いや、そうなんだよな、仕事とか会社の他に居場所がないってのが1番怖い。これから会社も解体するしな。

共同体って要は、心理的なもんじゃね。まあ確かにな。流動性は下げたいから、小さくていいが。あるいは、大きくてもいいけど、うーん年功序列とかさ。共同体っぽい共同体って何があるかな。

共同体の分析をしたい、なぜならそれを作りたいから。アソシエーションでも、機能集団でもない。ってことは言い換えると、余暇的なことを一緒にやるってのが共同体な気がするな。そうやって豊かなことをするために、外から豊かさを獲得してくると。それが仕事だと。アソシエーションが手段で、共同体が目的で、その上にもしかするともうちょっと目的があるような気もするな。自己実現っていう。

丸山眞男、吉本隆明、大塚久雄。この辺を読みたいと思ってるけど、まず小室さんと思って、そうするとめっちゃ本があるんだよなあ。1年くらいはかかりそうだな。まあいっか、一年なら安いもんだわ。柳田も読みたいなあ。まずは小室さんから。

貧しいからって成田くんが言ってたけど、貧しいことと余裕がないことってちょっと違うよな。昔のブータンとかさ、今は変わったって聞くけど、別に生活水準はそんなに高くないけど幸福だったわけじゃない?で、自分は貧しくて食べるものに困ってても人に食べ物あげるとかあったわけじゃない?だから、貧しいからすなわち共同体が持てない、特定の行動様式を維持できないってことはないと思うんだよね。それはむしろ環境とか意思の力がでかいかなと。まあただ、所与のものだ、と考えがちであるならば、それは環境をパターナリズム的に、つまり、人々の環境を上からちょっと偉そうになることは承知の上で変えていくというか介入するしかない。が、家庭の形に口出せるなんてそんなのは普通あり得ないんだよね。だから実メーシスなんだろうけど。こうありたい、と思わせる、憧れさせる、その力にかかってるんだろうけど。

あるいは、貧しくなった、っていう変化に意味がある、っていうのであれば理解できる。要は、元々の生活水準から下がっていくことにストレスが生まれると。

要は、機能集団のはずが共同体的性質も持っている。だから、機能集団の昨日のための要請、というかその団体の目的のためっていうのがどうしても1番になってしまって、それに背いたらいくところがないから、っていうね。しかも共同体間の移動がないから全体が見えない。とにかく自分の共同体の機能だけ。そうなると、全体のバランスを見ない官僚的な人ばっかになる。ああこれか、俺のなんか違和感は。要は、機能集団が共同体でもあるよなっていう。目標があってそこに向かう組織のはずなのに、同時にそこにいることが目的にもなってるなっていう。アソシエーションなのか共同体なのかよくわからんなって思ってたのは、もう50年くらい前に丸山眞男が書いてたことなんだな。やれやれ。俺が今考えてわかんないことを50年も昔の人が解明して書いてるんだからやれやれだよなマジで。

ああだから優秀さって、共同体としての役割を機能集団に求めないことなんじゃないかな。というか、組織集団に共同体的な価値を求めると、かなりできないことが増えて、それが組織集団としてあんまり良くないような気がする。要は、客観的な視点からの批判が入らないってことだろ?そうすると、短期的にはいいけど、最終的に破滅しないか?ってことよ。

なんで、共同体のルールが所与に見えるんだろうな。機能集団の場合、これはこうした方がいいってのは言いやすい。それは、目的ベースの機能集団だから。そうでしょ?つまり、目的達成が第一優先であるってことをみんな知ってるから、そのための貢献として受け入れられる。が、共同体になると、いろんなステークホルダーがいて、特に上位のステークホルダー、というかヒエラルキーの人を攻撃しにくい。だから、権力が腐るみたいなことなんだよな。共同体でたとえ間違ってるとしても、じゃあルールを変えてくれってのはヒエラルキーの上の方に言わないといけない。そうすると、上位者に文句を言うわけなので、自分はその共同体から蹴り落とされかねないと。と言うことで、なかなか文句を言えない。ということをやってるから、結果として行動に出れず、没個性化になると。ヒエラルキーがあり、そしてその共同体から外れないことが個々の目的になる限り、上位ヒエラルキーに拒否できないし、そうすると集団を止められない。だから、機能集団を共同体をごっちゃにするのはやばいんだよ。権力の腐敗を止められないから。となると、外に共同体を持って、そこを絶対の居場所にした上で、機能集団を行き来する、ってことが大事になる。だからこそ、家庭がしっかりしてないと会社にしがみつくことになるし、そうすると会社の命令はなんでも聞かないといけないってことになる。そして組織は腐る。誰も客観的に批判できないし、間違ってると思ってても言えないから。ヒエラルキーのトップがまともならいいって批判は、キリスト教会が長い間何度もトップが変わっても腐敗してたってことを考えればかなり現実的ではないんじゃないか?

共同体ってのは平時には非目的的で、しかし非常時にはセーフティーネットになるもののこと。だから、「困ったら」お互いに助ける、だろ?困らなかったら、別に助けない。てか助ける必要はない。が、それでも関係を繋いどくんだよ。じゃないと緊急時に何も残らないし、おそらくやりがいもそこからしか来ない。まあたまにホリエモンとか西野みたいな人がいるが、あれはADHDぎみ、つまり自分の興味を満たすことで十分楽しめるってタイプの人だろ。密なコミュニケーションはそんなにいらない、っていう。あれはかなり強い外れ値だと思っていいだろ。逆に数が少ないからフィーチャーされてるわけだし。ホリエモンみたいな人がいっぱいいるなら別にホリエモンは有名じゃねえよ。数が極端に少ないからあんだけ有名になるんだ。ということで、機能集団と共同体の融合は、組織に対して客観的批判ができない、これが「わかっちゃいるけどやめられない」だろ。そしてそれは、感情で判断することも要因である。

うーん、要は、機能集団においては、目的達成が第一目標でいい。が、それをまとめる視座が必要である。それはまあ外部に作るしかないよな。

まあでも、ただこれは、機能集団の宿命みたいなところない?つまり、機能集団ってのは要は官僚組織なので、目的達成のために突っ走ると。でそうすると、社会ってのはいろんなもんが組み合わさって繋がってできてるから、一箇所がやりすぎると他と衝突して全体のバランスが崩れる。オウムとか太平洋戦争とかGoogleがドローン兵器作ろうとしたとか、そういうことだろ。だから、目的を設定してそのために突っ走って結果全体のバランスを崩して問題になる、ってのは日本の問題ってか機能集団の問題だろ。機能集団に常について回ることだろ。ただ、そこに共同体がくっつくと、内部批判力が下がる。要は競争力が下がる。機能集団としての性能が下がる。年功序列とかあるからね。また同時に、批判力が下がる。密告とかできないっていうように、ああだから、組織から離れたくない、だから組織を批判できない、抜けられない、ってところが問題なのか。要は、これはやばい、やりすぎだ、と思ったら、内部から批判が出て欲しいんだよな。密告って形であれ、Googleがドローン兵器作ろうとして従業員が1000人くらいで批判声明を出したりとか。要は、そこはあくまで目的達成の場であって居場所ではないので、文句言った代償に出されてもいいって気持ちがあるかないか。機能集団と共同体が混ざるデメリットは、内部浄化作用がないってことだ。

要は、機能集団に元々あるデメリットが、共同体と混ざることでより問題になってると。機能集団のデメリットが日本の組織では先鋭化されてると。要は、目的達成が第一優先って言ってもこれは流石にやばい、ってなった時に密告したり告発できるってのが機能集団には必要で、日本は共同体的だからそれができない。そうすると機能集団のデメリットに歯止めをかけることができなくなって、だからやばいと。そういうことか?

しかも、居場所なので、共同体なので目的が所与のものに見える。だからそれに対する批判に対してかなり無視するというか、逆ギレまでする。目的を所与と思うから批判を無視するようになる。こうなると確かに自浄作用が働かないわな。機能集団の目的達成に対するアクセルをいろんな理由から踏みすぎる、でいろんな要素が絡まってできてる社会って網をぶち抜いてしまう、っていうのが問題っぽいな。
しかも、目的に対して所与と思ってるのでそれに対して崇拝まですると。つまり、その目的が正しいんだって漠然と信じる気持ちが生まれてくると。だから、自分は正しいことをしてると思いながら走っちゃうと。どうなんだろうな。戦争はしたくなかった、サリンは撒きたくなかった、こういう人たちって、そんなに果たしてマジガチで目的遂行を崇拝してたんだろうか。それよりは、共同体のヒエラルキーによる批判の欠如が問題じゃないんでしょうか小室さん?最終的に何が人をサリンや戦争に走らせたのか。そこがいまいちわからない。

貧しい国だと金は生きるために必要だが、ある程度豊かな国では金は生きるためってよりも社会的な欲求を満たすために必要だと。で、日本も将来こうなると小室は言っている。なので俺が俺の分析で、金はそんなにいらない、と言ったのはその通りであると思う。が、これから日本が貧しくなるとまた大事になるかもしれない。要は、貧しくなると貧富の差が開くので、というか、衣食住とか最低限の機能が買えなくなってくると、それはそっちが優先されるよねってだけ。衣食住が揃えば別に今度は付加的な嗜好的なものに金が使われるようになるよねっていう。で今は、別に機能的なものは十分あるでしょと。それなりに美味しいものをそれなりに好きに食べられてるでしょと。だから金ってのは嗜好のために使われるようになると。そうな。俺は社会的威信にそんなに興味ないから金がいらないってことなんだろうな。

機能は飽和したので、嗜好とかイメージに金が使われるようになってると。いやだから、金を使うことが幸せの源泉ではねえよと。それは手段の一つではもちろんあるけど、万能な手段ではない。

生活水準を落とすのがむずいとすると、あんま金を使わないで生きてる人と付き合いたいな。金銭感覚ってやつか。

普通、物事はいいとこ取りができないようになっている。例えばのブレスオブリリージュは、生まれた階級によって人生がある程度決まるよねっていうのが社会で一定理解されていて、だからこそ貴族に生まれたら特権を享受しつつ、その分社会に還元するために努力しなきゃいけない、とか、もっとアバウトに行くと、権利には義務がつきものだ、とか。ただし、日本の場合はいろんな規範をバラバラにして使ってるので、そうなると、権利を主張して義務については無視する、とか、自分の都合のいいように規範の一部を持ってくる、ということが常態化する。いいとこ取りができるようになっている。そうすると、誰が責任を取るのか、やらなきゃいけないことを誰がやるのか、ってところが弱くなる。guess so.そして結果的に人々は、自分が責任を引き受けることを回避しつつ、なんか間違ってるな、って人たちに囲まれてる感覚に苛まされることになる。こんな抽象的なことを言ってくるってのは面白いな。まあそうかもなと思うけど。まあ確かにな、理論を断片的に持ち出して、それで自己弁護したり議論したりしてると、giveの部分が抜け落ちる感覚はあるかもしれない。強い理論みたいなものを自分で作っていかないと。giveを含むものを。そうか、giveをちゃんと含む理論を俺は作っていかなきゃいけないのか。そうだな。

のと、断片的に規範をつなぎ合わせてると、心情ベースで判断したり考えたりしてるので、お互いに相手が言ってることが何言ってるかわからん、ってことになると。まあだから、一貫性がないってことだよな。その分giveがないと。

アノミーの話はむずい。そもそもアノミーについてよく知らないってのと、種類が多いってのと。まあ今はいいや。

所有ってのは本来条件は3つで、所有物に対して絶対的支配権があること、つまり、所有物をいつどこでどうやって処分してもいいこと。もう一つは、所有は抽象的であって、実際にその物を管理していなくてもいいこと。最後に、資本主義において全ての財貨は誰かに所有されていること。そして、財貨に対して所有者は必ず明確な一つのペアであること。複数人の場合もあるが、ペアとしては一つである。全ての財貨を分解すると、必ずそれぞれ明確なペアに帰着する。

日本の場合は、実際に管理してるとそれを所有してるんだってことになりがちなので、サラリーマンが高度経済成長の時に会社の金をじゃぶじゃぶ使ってたのはそれである。つまり自分が会社を左右するんだから、その自分か会社の金を使ってもいいだろうと。アメリカ的な資本主義だと、金は資本家のものだからそれを勝手に使うなんてあり得ない、ってことになる。

日本にははっきり制度化されてる階層ってなくて、所属する共同体によって階層が分かれているので、非常に連続的な階層である。貴族と農民、とかじゃなくて、一流企業群があり、二流企業群があり、みたいなことになっている。でそうすると、どこまでが一流でどこまでが二流なのかわからん、みたいな細かいグラデーションになっている。でそうすると、階層ごとに集団化する、というかまとまるってことがしにくいと。つまり、明確な階層の境界線があるわけじゃないので、どっからどこまでの範囲を仲間と呼べばいいのかわからん、ってことになる。

そして、階層が明確に、つまり多くの人にここで階層を分けられるよねって合意が取れるような階層の教会がないので、それはつまり、自分で境界を引けるってことになる。そして人間は都合よく考える生き物で、自分のすぐ下にラインを引いて自分を上の階層とみなして、その下の人を差別する、っていう考え方になる。ということで、上の集団にコンプレックスはあるけど、自分より下がいるってことで溜飲を下げる、って差別が広まる。というか浸透してる。まあそうかもなあ。外見とかそうかもなと思うよね。

社会に法則性を見出そうとするにあたって、各人が自由意志で生きてる社会で法則性なんか見つかるのかって話になり、これに対してyesnoをはっきりいうのは難しいが。

しかし、学問的には社会の法則を探す学問ってのは隆盛してると。まあそれは別に正しいかって言われると微妙だよな。みんな法則を探すのは好きじゃん?というのと、心理学、精神分析学によって、人間ってかなりパターンというか条件反射的に反応してるから、それを法則化するのは結構いけるんじゃないかってことになった。ということで、社会に法則性を探すことは徒労ではないのではないか、という話になってきた。

デュルケムって学者は、社会的事実って概念を持ってきた。それは、人間の行動を規定するが、人間の行動では左右できないもの。で、それが大きな力を持つから人間の行動とか意識よりも、社会的事実の研究が重要であると。うーむ。そうかもしれないしそうじゃないかもしれないだろと。まあそれを裏付けるための学説の数々なのかなと思うけども。

社会現象ってのは相互に繋がっていて、それはつまり、一方的な因果関係ではないと。だから、なんかするとそれが波及しまくって跳ね返ってきて意図しない結果が起こるので、それを分析するのが社会科学だと。色々糸を引いてみて、どれを引いたらやばいかを知る、みたいなことでいいんじゃないかと思うけどな。

AOはこれまで戦中も戦後も試されてきたけどダメだったのをまたやろうとしてるからバカだって、というか、社会構造の関連の中に入試って社会制度もあるので、その関連を分析しないでただ入試だけ変えてなんとかしようとしてる役人は馬鹿だと。てか税金泥棒だと言っている。唐突に激しいな。

問題が起こってる場合、それがどういう文脈で起こってるのか、ってところまで深掘りしないと、ただ対処療法をすると、問題が起こる場所が変わるだけで意味がないと。押してもスルッと抜けられちゃうっていうね。まあなんか、これに対しては、それなりに反省は効くよな。本当の課題を見つけるんだ、みたいな。言われてるってことは難しいってことなんだろうけども。

大学制度をいじるってことは教育にとどまらず経済・政治・社会問題になるので、そこまで考えてやれよと。というか、そういう制度改革を伴わないと成功しないと。ああ無理だろうなあ。そんなに広く考えられる人はいないだろうな。

政治学は最後進社会科学として名高く、経済学と心理学は最先端社会科学として名高い。政治学はすでに死に、経済学も大体死んでる。一流の学者が離脱している。

学問の隆盛度合いって、他のものとどんだけ繋がってるかに結構現れる気がするよな。要は、他のものとコラボする、というか、経済学者が他の学問領域に出かけて行ってそこで功績を出す、みたいな、他のところに行って結果出す、みたいなことができてる時って、新しい物をどんどん吸収してるし、元々の勉強も疎かにしてないしって感じで結構いいよな。地盤をしっかりやりつつ、他のところでも関連性を見出して発展させるっていう。いいよなそういうのが。とりま俺は王道を勉強しよう。

科学は理論を作りそれを実証するってことの積み重なりだが、実際はどっちかに偏ることが多い。で、経済学は理論に偏ってるし心理学は実証に偏ってるので、お互いにお互いがやってることが信じられない、ってなり、そうすると協力することがなかなかむずいと。経済学は初めから実証を諦めてるような理論が根幹になってたりするし、心理学はなんでも言えることを恐れて実証できない理論は許さないってノリがある。まあお互いに事情があるよな。

心理学の場合は、データを集めて処理する、というか要約することに関して厳格だが、それを解釈することについてはかなり研究者に任せられている。経済学の場合は、理論を実証する、あるいは理論的な式の係数を確定するためとかで調べることがあるが、データをとりあえず取ってまとめて、みたいなことはしない。なのでお互いに相手の実証の方法も納得し難い。

政治学はアリストテレスから止まってるので、政治学を勉強したいならそこを勉強すればいい。

理論を考えそれを実証する、その積み重ねが科学だが、仮にどちらかに偏ってもまあそれは仕方ないと。

共同体って居場所だから、ここにいたいならここのルールに従え、っていう価値観があるのよなきっと。で、相当変なルールだったら流石に人が抜けて消滅するからある程度の淘汰はされると思うけど、それにしてもルールに従えっていうのはあるし、年功序列とかになりやすい。競争とか効率とかじゃない世界だからな。だから、日本の企業とかに入って生きていきたいなら、人を大事にして、会社の外に自分の共同体を、家族と仲間を持っとくことが大事だ。何よりも。それがないと会社が唯一の共同体になって逃げられなくなるから。そうするともう批判できなくて腐るしかない。だから、居場所を機能集団以外に作っておくこと。家族とか友達とかを作っておくこと。別に大学に行かなくても、バイトしなくても、この人がいるからいいや、と思える人を作ること。その意味で彼女ってのはマジで俺にとっては人生戦略に匹敵するな。マジで。一人はきついが、彼女いれば乗り切れるもんな。実験したわこの留学で。うむ。

機能集団が所与のものじゃなくて、人為的な作為の結果であるとわかってれば、昨日集団に従わなくていいかもしれない。それは要は、創業者とかの考え方だよな。この団体は俺が、あるいは俺たちが作った。だから自由にルールをいじれる。そういう意識があれば腐敗はしにくそうだなと思う。

結局、この本を全然理解できてなさそうだ、ということがわかった。あのミーのあたりから難しかったなあ。またそのうち読み返そう。

何も知らないくせに、興味もないくせに、スローガンとかわかりやすいパッケージに対しては狂ったように反応する。コロナもそうだったかもなあ。科学的に考えれば大丈夫だし、それは簡単にわかるのに、そんなことを考えないでただマスクしろ、みたいな。

統帥権ってのは、軍隊を指揮する権限。で、統帥権の独立ってのは、戦争の実際的な闘い方、あるいは作戦については軍部が実権を持ち、素人の政府に口出しはさせない、負けるから。しかし、じゃあ戦争自体をどう持ってくのか、どこまでやっていいのかってことに関しては、政府が決める。つまり、完全に首都を占拠するのか早めに講和を結ぶのか、みたいな、戦争の実際的な闘い方と違って戦争全体の指揮に関しては政府が指揮を取る。これが統帥権の独立。

というか、作戦の設定は政府が決めて、その内実をというか実際の戦い方を軍が決める。だから政府にこれ戦えって言われたら戦わないといけない。戦わないといけないが、どうやって戦うかは軍に任せられる。

作戦に関しては軍が権利を持ってるが、軍政に関しては軍は関係ない。

警察は政府に服従ってのが決まってる。軍隊は戦争ができるってことが条件である。シビリアンコントロールが必要なのは、戦争できるから。

日本では自衛隊にシビリアンコントロールって言ってる、つまりそれは戦争ができる戦力であるし、ってか軍隊であるし、自衛隊が出動した時に政府は作戦指導を行わないって政府が言ってる、つまり統帥権の独立を認めている。なので日本は普通に軍隊持ってるし、統帥権の独立もある。

娑婆っていうのは仏教用語で人間世界のこと。娑婆の空気ってのは、それまで人間世界にいなかったってことね。普通の社会って言ってもいいが。

海外では軍と一般社会が繋がってて、一般の大学を出て偉い地位に行くこともあるし、群を体感してから一般企業に勤めるってこともある。が、日本は軍と社会がかなり隔絶されてて、大学に軍事学部とかもないし、大学で軍事について教えることもない。

戦争は国際紛争解決の一つの手段なので、国際紛争がないなら戦争は起こらない。

www2では日本はメインの悪役だったので、日本の幸福で戦争は終わった。がもし次に戦争が起こるなら、日本はメインの役ではないし、ってことはww2の時のフランスみたいに降伏したとしても戦争は終わらない。ってか戦争に対して日本は影響力をほとんど持たず、なすがままにされる。

地政学はあまりに時代遅れで社会科学とは呼べないらしい。そうなん、、読んじゃったよ本。

国際紛争ってのは国がお互いに自分の主張をぶつけ合って譲らず、武力を使って奪ったり奪われたりしてること。それに蹴りをつけるための手段の一つが戦争。戦争はそれ以上でもそれ以下でもない。紛争解決の手段の一つ。


んー、一つは、こっから共同体としての会社は解体されていくから、共同体と機能集団を明確に分化していきたい、ということ。

そしてそれはつまり、家族とか仲間を大事にすることが俺の人生戦略にとってまず第一に重要である、ってこと。

俺は俺の共同体を持つってことな。

そしてまた、日本は共同体的機能集団を作る癖があるので、機能集団は共同体的な色を持つ。

それはつまり、年功序列的なヒエラルキーが形成される上に、それに反すると共同体から追い出される、ということ。

そして問題なのは、ほとんどの人は自分の共同体を会社の外に持ってないので、会社から追い出されることを最も恐れるということ。

なので、会社を批判することはできない。それに、そこからイグジットすることもできない。

そうやって縛られないために、俺は俺の共同体を持ちたいし、そうすることで俺の正しさを保ちたい。

ただ、その共同体的機能集団としての会社がいつまで続くかはかなり怪しくて、最悪解体して、共同体がこの世から消滅していくってことになりかねないし、それは俺が生きたい人生ではない。

ということで、共同体を作ることが第一。それについで、バーをやることが俺の人生の目標である。

長期的な展望としては、企業から共同体的な色が失われていくので、経済は競争と機能集団がメインになっていくだろう。そうなったときに、競争に勝てない、という状況は本当に避けたい。競争力がない状態、というのは本当に避けたい。

という意味で、スタートアップとかがやっぱいいのかなと思うんだよな。

そこで広く通じる経験を積みつつ、共同体を作ってく。

大企業に入って、のうのうとして、40くらいでああもう抱えられなくなりました、ってなるのが怖いし、それは十分あると思うから。

ある企業のやり方に精通してる、とかではなくて、ちゃんと自分で何か作ってくってことをした方がいいと思うんだよな。

どのくらいお金になるかはわからないけど、うーん、金自体は目的ではないからな。

家族と仲間とバーを持てれば。

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