俺は優れている。であるが故に責任がある。この命題から逃げない
俺ってすごいんだな、って俺が考えた時に、反射的に、「そんなこと考えるのは自信がないんだ、卑しいことだ」ってこれまで思ってた。
で、どうやったらそれを辞められるのかな、と思って考えたんよな。
そしたら、別にそれって全然いいことじゃね、むしろどんどんした方が良くね、って結論になった。
要は、マッチポンプだと思うんだよな。
俺が俺自身を、めっちゃすごい、って再認識することで、俺は頑張れる。
そして頑張った結果として評価されて、俺ってめっちゃすごい、って認識がまた強化される。
これはだから、ノブレスってことで、俺が優れているってことに対して、俺は認めなきゃいけないし、それに後ろめたさを感じてる余裕はない。
俺は優れているし、優れているからこそ、優れていない人に対する責任があって、だから俺は常に優れていない人の幸福のために頑張らないといけない。
そもそもが、俺が、俺は優れてる、って認識してるところから話が始まるし、それを強く思うことが、俺が努力することにつながるのであれば、それは何も間違ってない。
だって現に俺は優れていて、でもそれは俺の力ではなくて、だから頑張らなくてはいけなくて。
そういう循環が回っている。
俺が俺を優れているって考えるのは、当たり前ってか、それは大切な人を幸せにするための努力に必要なこと。
その限りで、俺は俺が優れていることをどんどん再認識して、それ故に、努力しなきゃいけない、ってことに思い至るべきだ。
俺は優れてる。間違いなく。
だから、頑張らなきゃいけない。
これは等価だし、であるが故に、俺が変な謙遜をして、俺は優れてるなんて言えないよ、みたいなことを考えるのは、表面上で人の前でどう言うかってこととは別として、最悪だろ。
ふざけんな、って話だよな。俺は与えられてしまって、であれば努力をするべきで、それを、いやそんなに優れていませんから、みたいなことを言って、俺の責任から逃げようとするな。
俺は優れてる。それをまず堂々と認識しろ。それを常に誇れ。
そしてその上で、であるが故に、俺は努力しなきゃいけない。
その俺の生来的な責任を自覚しろ。
優れてるのは明らかなんだから、それに対しての責任を自覚して、それに対して努力しろ。
変な、平等主義、みたいなもんに屈して周りの人を幸せにできないなら、それは俺の敗北だぞ。
俺は優れている。であるが故に責任がある。この命題から逃げるな。