循環を遺すために生きてる
死んでは生まれる、っていうのが、神話とか昔話には見られると。
で、これは、キリスト教とかにもあるんだよな。
死んで、最後の審判で通ったら神の国に行って生きる。
通らなかったら消滅だったかな。
イスラム教も、死んだら神の裁判を受けて、通ったら体が復活して不死の国にいける。
通らなかったら、体が復活して地獄で焼かれる、だったかな。
仏教の場合は、解脱するから最終的には消滅するのだが、それまでのプロセスはめちゃくちゃ生き返る、ってか輪廻転生すると。
古代エジプトとかだと、死んだ後に魂が帰ってくるからその体をミイラにして綺麗な状態で残しておく、とか。
ユダヤは、選民として神の国に行ける。
それ以外の民はダメ、だけど、この場合は復活とか含むのかな?
まあ要は、死んだらどうなるのか?に対して、復活する、って応えている宗教は多いんだよな。
で、それが正しいかどうか、ってことは今議論しなくて。
そうじゃなくて、それが納得感があるのか、ってことなんだよな。
それで、死の不安を乗り越えられるのか、ってこと。
んー、現代人はまあ難しいんだろうね。
でね、俺はどう考えてるかな、ってことをちょっと思ったんだよな。
自分が何のために生きて、何のために死ぬのか。
死んだらどうなるのか。
俺は、最終的には、俺が必要ない世界を目指してる。
ちょっと説明してみようか。
今更だけど、俺は人間の心理とか可能性にすごく興味がある。
そして、人間の精神発達は基本的に、すごくざっくりいうと、以下の流れだと思う。
①誰かに大切にされる
②これだけ大切にされるのだから、自分には価値がある、と思う
③自分の興味関心に対して挑戦する
④成功して、自分に自信を持つ
⑤自分の存在の肯定に余裕ができ、誰かを大切にできるようになる
この流れだと思うんだよな。
でね、これって、最初は①からスタートして、⑤まで行くと今度は①にいる誰かを大切にするようになる。
そういう形で、循環してる、つまり、ぐるぐる回ってくものだと思うんだよな。
でね、俺は、このサイクルを回していきたい。
俺が①にいる誰かを大切にして、その人が⑤まで行ったら、そしたらその人がまた①にいる誰かを大切にする。
そしたらまたその人が⑤までいって、そしたらまた①にいる誰かを大切にして。
そういう循環を俺は回したいし、それが回り始めたら、もうそこに俺は必要ない。
あとは、その自然な循環が流れていくだけだから。
そういう循環を、俺は世界に遺したいと思うし、そのために生きて、そのために死ぬんだと思うんだよな。
だから、これは、死と再生の話とちょっと似てるなと。
俺自身が復活する、ってことではないんだけど、でも、俺の意思みたいなものは何度も再生産される。
というか、継承され続ける。
そうであれば、俺はそんなに死ぬことは怖くないな、と思うんだよな。
まあ、まだそんなに自分が死ぬことをはっきり感じてないからわからんけど。