世界はそもそもデタラメである 俺の目的のために他者を切り捨てよう

宮台の映画批評本。

コミュニケーションについて、流動性が上がった結果、まともなやつから退行していくと。むしろ、鈍感でバカなやつがコミュニケーションに残ってると。で、退行したなら、なりすませと。まともにこんなことやってたらおかしくなっちゃうぜ、ってことを前提に、馬鹿らしいって分かった上でコミュニケーションをやれと。

この本は基本的に難解で、結構言ってること意味わかんないけど、たまたま解読しやすいパートってか普通の言語で書かれてるパートにこれが書いてあって、ほんとだよなと思った。

スクールカースト最上位だった俺が、大学ではコミュニケーションを放棄してサークルにも授業にも出なくなったのは、そこで行われてることが全部下らねえなと思ったから。授業とかサークルの表面を撫でるコミュニケーションも下らないし、授業の内容も下らないし。とかいうと俺がまともじゃないって周りから言われるけど、ちげえよ、宮台が書いてるだろ、お前らがやってる空疎なコミュニケーションがまともじゃなくて、まともな奴はガンガンそっから降りてるんだよ。それに気付けないで楽しくやってるならそれはそれでいいと思うけどな。知らないで済むならそれでいいこともある。

しょうがないから今俺がやってるのは、一瞬だけコミュニケーションに顔を出して、まともなやつを見つけて捕まえてまた潜水する、ってことの繰り返しで、面倒なことこの上ない。でそれに対して宮台は、バカなふりしてそこにいけ、と言ってる。じゃないと生きていけないぞと。くそったれ。でもその通りかもな。今俺は大学生だからコミュニケーションを蹴ってていいけど、社会人とかなれば一定人との関わりはあるだろうし、うーむ。バカなフリしないとな、あるいは、そんなことしなくていいくらいの場所に行けばいい。

思ったのは、俺が選ぶ社会での生き方は、一定他人をスポイルすることになるだろうし、それに対して無自覚な相手に対してそういうことをすることになるだろう。そこに対して俺は、すごく抵抗がある。クソみたいな意見に対して、それはすごく良い意見だね、みたいな枕詞を使わないといけないし、それを言われたら相手は、自分の意見を反省しよう、なんて気は起こらなくなるだろう。そうやって相手が内省する機会を消し去ることをきっと俺はスポイルって呼んでるんだろうけど、それに対しての罪悪感みたいなものは結構あるな。まあでも、相手もまともじゃないからな。そこから外れた人と関わりたいってのはどこまでもそうだな。1000人に5人くらいいる、俺が罪悪感を感じないで話せる、まともな人間が。普通のレベルの頭を持った人間が。

まともに生きたいと思ったら、「黙れ、お前の意見はここがこう間違ってる」って、思った時には言うのがまともじゃないか?それで議論になるならそれはそれで良いし、何よりお互い成長できるだろう。だけど、それをやったらうまく生きていけない。うまく生きていきたいなら、どんだけ馬鹿でクソな意見に対しても、「その意見すごく良いと思う!」って、少なくとも枕詞として言わないといけない。で、それって、すごく嘘だし、まともじゃないと思わないか。

だって、こう考えた方がいい、ってのが俺には見えてるのに、それを伝えることなく、君は素晴らしい、って嘘をついて、しかもそれは俺の自衛の、保身の嘘なんだ。俺が社会の中でうまく生きるために、目の前の人の成長機会を握り潰してるんだ。そこに対して、俺はどう考えていけばいいんだろう。少なくとも、罪悪感はあるし、それはまともな罪悪感だと俺は感じる。相手に対して誠実でいられなかったことに対して、相手のために俺が全てを捧げられなかったことに対して、罪悪感を感じるし、申し訳ないと思う。そして、俺のために相手を見捨ててる俺自身に対しても、どう思うんだろう。いい感じはしないよな。

そういうことを繰り返していかないとうまく生きれないなら、やっぱ狂うしかないのかって感じはある。相手を見捨て続けて、それに慣れるか、傷つき続けるか。

まあでも、しょうがないか。俺は俺の目的があり、それが最終戦であり、全てを取ることはできないだろ。狂うほど俺の心は弱くない。俺の目的のために他者を切り捨てよう。俺は俺の目的を取って、他者を捨てる痛みを受け入れる。それでいい。それで、いいというか、仕方ない。それ以上にどうしようもないように、少なくとも現状の俺には思われる。が、まあやってみて。また考えよう。

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