これから、どうやって集う?NEWS『音楽』の場合。と、そこから見る劇場論。
ぼくはNEWSが大好きです。アルバム『音楽』を聴きまくり、セトリ予想のプレイリストまでつくり、待望のライブ『音楽』に、先日、さいたま会場にて参戦してまいりました。
NEWSがどんなことを試みて、また、それがどように達成されているのか、ぼくの視点で考察し、言語化することに挑みます。ネタバレはしませんが、ネタバレ回避したい方は読まないことをおすすめします。
そして、そこから発展して、ライブパフォーマンスを上演する場(=劇場)についてもう一度考えてみました。すると、僕的に新しい劇場論が見えてきたので、その言語化にも挑戦します。
言語化にこだわる理由
ぼくがアイドルについて言語化にこだわりたい理由は、「アイドル」のことをとても面白いと思っているからです。中でも、NEWSはめちゃくちゃ面白い。でも正直、日本のアイドルは、K-POPの成熟の流れに乗り遅れていると僕は思っています。アバターと踊るaespa、精緻なシンクロダンスを見せるseventeenの13人、新次元のポップスを乗りこなすnewjeans、映像が良質すぎるlessellafim、そしてBTSの会見などに見るアーティストたち自身の人権感覚・・・。日本のアイドルは、このままでいいのか? とぼくはずっと考えています。
ぼくが伝えたい要点を先に示しておきますが、ぼくが感じているのは、日本のショービジネス全般において、観客とクリエイターの間で壮大なすれ違いが起こっているのではないかと思っているということです。作り手側の心の中に〈観客はハイコンテクストで前衛的な表現を受け入れることができないだろう〉という"恐れ"があり、プロデュース側の自由な発想やそこへの「投機を渋っている」状態なのではないか。これはエンタメ界のみならず、日本の企業で多く起こっている停滞だとぼくは思います。
アイドルほど「なんでもアリ」な表現、ないと思います。これほどまでに実験や開拓をし続けるべき畑はない。そして、その点で、NEWSは日本のアイドルの中では抜きん出てると思うんです。そして、NEWSを楽しんでいる人々は、かなりハイコンテクストな考察を楽しんでおり、その関係性は現代アートを鑑賞する態度に近いものを感じます。アートがアイドルより優位にあるという意味ではありません。むしろ逆で、アイドルファンはもっと「予想を上回る表現」を求めているのではないか?ということをぼくは感じています。
ただ、こうしたすれ違いが起こっている理由として、「ことば」が足りていないという事実があるのではないかとぼくは考えています。まずアイドルを評価するためのことばが、足りていない。2.5次元舞台と現代演劇との間にある分断にも同じことが言えると思います。現代アート演劇や古典演劇のファンがアイドルという文化や大衆舞台を貶めるのも、アイドルファンやオタクが「ことば」を持っていないかのように思い込まれているからなのではないか。
ことばは、私たちの身体の中に立ったまま眠っている。身体から飛び出したくてうずうずしているだろう。だからこそぼくは、「表現」という視点を通して、共通の「ことば」を見つけ出し、アートとアイドルの間にある距離を往来してみようと思いました。これは今回の論考だけでなく、今後も考えていきたいと思っています。
NEWSの「音楽」のために集まる
NEWSの面白いところは、2017〜2021年にかけて上演した、アルバム4作を引っ提げたコンセプチュアルなライブツアー群を通して、NEWSたち自身が「エンタメ職人としての人物像」を獲得していき、「ものづくりという物語」を観客と一緒に織り上げていった点にあるとぼくは思います。そもそも、そうしたアイデンティティが必要だったのは、メンバーが6人から4人になって、「イチゴのないショートケーキ」という悪印象をどう払拭するか、という問題提起によるものだったとぼくは考察します。
そして2021年、4人から3人へとさらに姿を変えたとき、更なる問題提起として、「NEWSとはなんなのか?」という根本的な問いを打ちつけられたのでしょう。アルバム『音楽』は、まさにその問題への応答であり、「NEWSという概念」は新たに「NEWSの音楽を上演する場」へと核心化しました。NEWSというものは、メンバーたちの実像よりも、もっと観念的なものへと変化したといえるかもしれません。『STORY』までの流れで再獲得した「本人たち自身の人物"像"」を、あえてもう一度手放すことで、炙り出されたのは「音楽」という、NEWSのメンバーやスタッフ、そしてファンであるぼくたちの全てを結びつける「たった一つの共通項」だったのです。
NEWSの音楽があるから、3人が集まる。NEWSの音楽があるから、ファンが、スタッフが、チームが集まる。ライブツアー『音楽』は、そうして、全国のチームメイトを再び集めてまわるキャラバンなのかもしれません。その目的は、「私たちはまだNEWSを継続する」という、チーム全員の身体に眠っている共通の"意志"を確認しあうための「場」を提供することなのです。
考えすぎで、ごめんね
ツイッターとかでよく、ファンが考察しているツイートに対して、作者はそこまで考えてないと思う・・・という冷や水を浴びせるようなことばを見かけます。
これ、無視してください。なぜなら、作者がそこまで考えているかどうか、そんなこと、どうだっていいからです。
表現を楽しむためのルールは、「正解がない」ことを楽しむということ、それだけです。(想像することが道しるべ、ですからね!)仮に作者が意図した通りに何かを受け取ったとしても、それはそれです。へーやっぱり!とそれはそれで楽しいし面白い。かえって、作者の意図と違うことを感じたとしても、それはそれです。考えることがこんなに違うんだ、ってことを楽しめます。最高です。
作品とは、ひとつの宇宙です。そしてその宇宙を観測する双眼鏡のレンズ、それはあなたの瞳です。そのレンズには、あなたが立っている「そこ」からしか見えない景色が映っています。したがって他人とはそもそも、比べようがありません。
ただ、このnoteで言いたいことは、「それぞれに感想があっていいよね」の、さらにもう一歩先へと進みます。それは、感じたことをことばにして交換し合うということです。それは新たなことばを生みます。ことばとは概念です。新たなことばは新たな概念を生みます。ファンの中で流通する概念が新しくなると、作者はもっと新しい概念を提供しようと試みます。この相互作用こそ、いまエンタメ界に必要なものなのではないかとぼくは思います。
「そんな難しいこと、誰も考えてないと思う」と一蹴されてしまうことは、精神的にきついですよね。それこそ僕はこの前、ライブ『音楽』について語っていたらそれを言われてへこみました(笑)。
作者に、この人たちにもっと「わかりやすいものを提供しなきゃダメだな、楽しんでもらえない」と思わせてしまってはなりません。その点、NEWSはきっと、チームNEWSという信頼があるからこそ、どんどん先進的なことを挑戦していけるのだと思います。
SNSやチャットツールでのインスタントな交流が主となる現代において、この、「ことばが足りない」という状況はピンチです。つられて日本のエンタメが「終わって」いく予感が、日々増していく感じがするのです。感染症禍で、エンタメが不要不急とされたことは記憶に深く刻まれています。物価高騰、増税、国際情勢の悪化など、不要不急が再び"疎まれる"きっかけはいくらでも転がっています。その時に、あなたが大事なものを失わずに済むよう、ことばを持っておくべきです。
あなたにとってエンターテイメントとは何か、そして推しという存在がどういうものなのか、もう一度、ことばにしてみてはいかがでしょうか。
ぼくにとってエンタメとは、ベタですが生きる意味です。そしてNEWSとは、いつまで経ってもぼくの「居場所」です。
再定義せざるを得なかった「私とは何か」
前述のとおり、感染症禍で、多くの人にとって生活そのものが見直されることになりました。それはつまり、突き詰めると「私とは何か」を再定義するということなのではないでしょうか。私は何を必要としていたのか。私から"なくなってはいけないもの"とは、なんなのか。
ぼくは感染症以降、エリア51でいくつも演劇作品を作ってきましたが、どうしても「不要不急」のレッテルに対抗できるほどの強い「必要性」というものが見出せずにいました。それでも、やめることはなかった。これらを総合的に含んで考えると、これは単に演劇が「私にとって必要だった」というだけのことなのかもしれないと思いました。私とは〈演劇を必要とする存在〉であると、自らを再定義するタイミングになりました。おそらく、NEWSの面々においても、私とは何か、という問いを再び自分に打ち立てたことと思います。
アイドルが、なぜいま音楽を作っていいのか。なぜライブをしていいのか。そこには第三者的な「正しさ」など、ないのかもしれない。ただNEWSたち自身がNEWSを好きで、もっと言うとNEWSの音楽が好きだった。〈NEWSを守りたい〉という、それだけがNEWSにとっての「必要性」だったのかもしれません。そうだとすると、『音楽』は、NEWSが自分達自身を追い込みに追い込んだ先での、最終到達地点で見ようとした核心的な「景色」なのではないでしょうか。
観客に「声を出すな」と制限をかけてまでしていいライブがあるだろうか———明日から頑張るためのエネルギーを誰もが安心してチャージできる場にするにはどうしたらいいか———歓声を出せない代わりにカスタネットで音楽に参加するという試みも、ペンライトをブレスライトに変える試みも、感染症禍でNEWS自身がライブを「してもいい」と信じられるための最高なアイデアだったと思います。
口のない星たちへ
ぼくが一点ひっかかっているのは、アルバム『音楽』に主人公として登場する「口のない星」についてです。目も耳もあるが、口はない。これは直球で、マスクをしなければならない私たちを連想しますし、それはきっと意図的なものでしょう。このアルバムを、「感染症禍中でどのように自己を回復するか」という物語の線に乗せるために、必要だった要素だと思います。
ただ、目は視覚、耳は聴覚、口は味覚や摂食の機能を持ちます。身体の器官にまつわるキーワードを物語に乗せるとき、それは「生きるうえで必要不可欠な機能」というイメージも併せ持ちます。現に、星は音楽を耳から「食べる」という描写があり、その点において意図的でしょう。
ぼくが感じたのは、このプロットでは、味覚や摂食に対しフィジカルまたはニューロン的なハードルを抱えた人にとって、物語に入り込めなくなってしまう側面があるのではないかということです。もちろん、そうした意図がないのは明白なのですが。多くの人が集まる場を作る彼らにとって、ダイバーシティへの理想が世界の現代哲学からワンテンポ遅れているようにも思えてしまいます。
物語の終盤で、星は「不協和音」に遭遇します。ぼくは、これはきっと、戦争や論争などをイメージしているのではないかと感じました。SNSで止まない論争、ワクチンや政治にまつわる陰謀論、国際間の大きな摩擦・・・あげだしたらキリがないほど、いままさに、世界中がぶつかりあい、揺れ動いています。そうした中で、どう立ち振る舞ったら良いかわからず、まさに「閉口」してしまう人も多いのではないでしょうか。もちろん、ぼくもそうです。前述の通り、世界中が大変な状況なのに、なぜぼくは作品づくりをしていてもよいのだろうと、悩み、閉口ました。
物語に登場する「男」は、星に対して、「黙っているだけかい?」と諭します。すると星に「口が生まれていた」という展開になります。これはつまり、「内なる想いに気づいたとき、発言(発信)する自由を手に入れる」というように捉えられると思います。おそらくそうした意図があるのだと思います。
ぼくがもっとも違和感を感じているのはこの点です。そもそも、なぜ「口から何か発しなければならないのか」という疑問がぼくの中で生まれ、それに対する回答を得られなかったからです。音楽が、それぞれの内なる想いとして、血液のように身体を流れているという、バイオリズムという音楽、その美しい発想は支持します。しかしながら、なぜその音楽を、「発信する」ことが正義であるかのように語られてしまったのでしょうか。それでは、口のない星="くつわ"をはめられた市民のようなイメージにも結びついてしまう。
それとも、この星こそがNEWS自身なのでしょうか。そうなれば、発信せざるを得ない身として、あの場に立つNEWSたちの姿が浮かび上がりますが、すると「男」は誰でしょう。故・ジャニー氏でしょうか? いや、それはないでしょう。この方向での考察は割愛します。
ぼくは、本来であればこの物語は、聞き手の"内なる音楽を肯定する"ために、必ずしも"内なるものを体外へ放出しなくてもよい"ことを提示する形になっているべきだったのではないかと考えました。世界の不協和音に閉口してしまう私たちを、争いの場に動員するための音楽になってしまってはならないと、ぼくは思います。
〈口がない(=発信できない)星なんてないよ、誰だって音楽のように気持ちを表現できるはずだ〉というメッセージを伝えたいのだとしたら、もっと他のアプローチにしてもよかったのかもしれない。「口は生まれていた」という言葉にせず、「音楽は溢れ出していた」とか、「気づけば自分からも音楽が聞こえてきた」とか。
一方でぼくは、人々の集まる場が「不協和音である」あるいは「不協和音になってしまう」ことを肯定することも大切だと思います。たとえば近年注目されつつある言葉に「ネガティブ・ケイパビリティ」というものがありますね。ネガティブなものを受け入れる力のことです。その点から考えると、人々が異なる主義主張をもって交わるときに生まれてしまう摩擦=不協和音から、目を逸らすだけではいけないことは、確かにそうだとぼくも思います。しかし大事なのは、どのような心もちでいればネガティブなものを受け入れることができるか、それを考えることなのではないかとぼくは思います。そして、そのために芸術やエンターテイメントは、大きな力を持てるとぼくは信じています。
最近好きになった、李禹煥(リ・ウファン)というアーティストのことばを引用します。
アーティストが新しい概念を生み出していけるよう、ことばを打ち返す。それはある意味、ファンとアーティストにしかできないコミュニケーションの方法なのかもしれません。
「場」に人がたくさん集まるということ
感染症禍で、ライブパフォーマンスそれ自体の意義が問い直され、すなわち、人がたくさん集まるということにおいて、私たちは慎重にならざるを得なくなりました。私たちの間に、ウイルスやワクチン、政府の要請、地域や家族のルール、職場での空気など、様々な「曖昧な線引き」がなされ、私たちは深く鋭く分断されました。ただ「集まる」ことのそれ自体に、これまでは大きな"意味"や"必然性"など特に要らなかったのに、それがいまは必要不可欠となり、ときにそれは「主義や主張」ともされてしまうことになりました。
主義や主張が、もやもやと心の中で膨らんだまま、私たちは「人の集まる場」に集い、暗黙の了解(=不文律)をうっすらとすり合わせながら、小さな摩擦を繰り返す生活が続いています。文字通り、心がすり減る毎日です。そんな場に、どうしても人々に集まってもらいたい、集まってもらわなければ生きていけない人々がいて、そういう人々がライブパフォーマンスを提供して生活しています。ならば、その「場」をどう設定するかについて、作り手はもっと慎重に考えるべきなのではないかと思います。
特に日本で暮らす人々は、すごく「場」を重んじるなぁと最近、思いました。人の気持ちを慮る人が多いからでしょうか。その場に、どういう制限があって、またどういう自由があるか、繊細に察知し、その規範の中で最良の振る舞いをしようと考えることが多いと感じます。人々はそうした了解を取り交わした上で「場」に集まり、自らの参画のスタイルを探ります。逆にいえば、私たちは、「どういう了解が取り交わされた場なのかがわかるまで、参画することに抵抗を感じる」とも言えます。これは、ぼくが演技ワークショップを開催する機会が増えて感じたことです。コミュニケーションにおけるルールを設定してあげることで、かえって俳優たちが自由に動けるという場面に何度も遭遇しました。そういう「了解」のことを、私たちは大雑把に「モラル」や「道徳」と呼んでいたりもします。(道徳・倫理・哲学・思想・宗教、このあたりがないまぜになっていることも、日本社会の大きな問題だと思いますが、それはまた別の機会に。。)
ところが、近年群発した様々な世界的ショックによって、私たちのモラルは「まったく了解を取り交わすことができない」ということが見せつけられ崩壊してしまいました。それを劇空間に置き換えると、たとえば客席におけるルール(レギュレーション)をいかように設定するか、ということを会場の責任者が問われてしまうというようなことです。これは、ライブパフォーマンスの場を作る人々にとって非常に厄介なことです。そうした混乱は、少しずつですが、制作者たちの努力や、業界人たちの協力によって回復してきています。
とはいえ、客席における「自治」は、やはり非常に難しいということを感じています。マスクをつける/はずす、手指消毒を徹底する/しない、上演中に水を飲める/飲めない、さらにいえば未就学児、フィジカルやニューロンにハンディキャップがある方にどうレギュレーションを設けるか・・・こうした「ルールづくり」は、作り手と観客との見えないコミュニケーションであるだけにとどまらず、観客同士の間にあるうっすらとした分断が可視化してしまわぬよう設定すべきものでもあります。それこそ、作り手側が、観客たちの間に「不協和音」を生まないために準備できることなのではないでしょうか。
かといって、すべからく人々をタイプ別に区別すればいいというわけでもありません。それは差別を助長するからという意味での否定ではなく、文字通り「キリがない」からです。人々はさまざまなハンディをそれぞれに背負っています。まだ世間に広く認知されていない、隠れたハンディもあります。さらに、誰がいつどこで、どのような場面でどんな障害にぶつかってしまうか、それは誰にも予測できません。ならば、どんな場面になろうとも対応できるよう準備をすればいいのではないでしょうか。
例えばアリーナのライブへの入場時の異様な緊張感にも、ぼくはすごく萎縮してしまいました。悪質な転売を防止するためとはいえ、デジチケのようなシステムで観客を「制御」しようとするのは包摂性と優しさに欠いたやり方だと思います。悪質な転売は防ぎつつ、スマホに明るくない人でもストレスなく入場できる方法を模索すべきです。いや、そもそも転売は転売でも「悪意のない転売」までは禁止するべきでないとさえも思います。究極をいえば、チケットを忘れてしまった不幸な観客に対しても、どうにか認証する方法を用意しておいて、入場できるようにするべきだと思います。でもそのための方法は、今はわかりません。
確かにこのような理想は、非常に高い理想です。どうしたら、そんな桃源郷のような「場」を作ることができるのでしょうか。
自由で包摂性のある劇場のための投資
「自由で包摂性のある劇場」をどうすれば実現できるのか、ということを模索します。「自由で」というのは、観客に主体性があり、ルールで過度に縛られず、観客同士で生まれる自然なコミュニケーションも妨げないような客席の空気感をさします。「包摂性のある」とは、バリアフリーな設計など、さまざまなハンディに対応できる設備が整っていることと、観客に対してひとりひとり丁寧に接することができる人員配置を指します。まさに理想郷です。
ぼく的には、結論はもう見えています。お金と人員を大量に投入することです。もはや、それ以外に方法はありません。そして、その実現には企業やアーティストの努力とアイデアだけでは追いつかないことは明白です。自治体や国のサポートが必要です。
客席(=ファン)が求めていくべきなのは、客席内でのモラルを向上させることよりも、設備やスタッフの充実なのではないでしょうか。そして、その実現がなぜ難しいのか、ともに考えることだとぼくは思います。
ただ、アーティストや作り手の中には、そうした理想郷を「作ろうとも思っていない」チームもあります。そのようなチームには意識を変えてもらうべく、声をぶつけていく必要があります。「作りたいとは思っている」チーム、おそらくNEWSのように「場をどうつくるか」について真剣に考えている(であろう)チームに対しては、それがなぜ不可能なのかをともに考え、意見をシェアしていく必要があります。
ぼくがこう考えたのは、SNSで、客席同士でのモラルをさらに向上させようという発信を見かけたからです。ぼくがNEWSのライブに客席で参加した時、普通では考えられないくらいに客席のモラルが高いと感じました。NEWSの作品を成功させたいという気概に満ち満ちている。
しかしその気概が、客席内での自由を妨げるほどではあってならないと思います。ぼくは今回、とくに自由を妨げられた実感はありませんでしたが、どこかで誰かが、高すぎるモラルに呼吸をとめていたかもしれないとは思います。
客席のモラルをいかに設定するか
客席にモラルを自己設定させることは、もはや前時代的な「場づくり」なのではないかとぼくは考えはじめました。これから場をつくる者が考えるべきなのは、「ルール」を設定することではなく、「モラルのレベル」を提示してあげることなのではないか。
観客は、場の「ルールを守る」のではなく、場に提示されたモラルを受けて「主体的に」考えて自由に行動することになります。ただし自由とはいえ、誰かにとっての邪魔になってしまうことが起こらないよう整えるべきではあります。すべての観客が、ほかの観客の自由な行動によって、公平な体験を受け取れなくなってしまうことのないように、たくさんのスタッフによる人的なフォローが欠かせません。そうすれば、ルールからはみ出してしまった人に厳しくせず、温かくサポートし、誰も傷付かずにモラルを保つことができるのではないか。これを実現できたとき、それは真の意味で自由で包摂性のある劇場へと進化するのではないでしょうか。
それが経済的な理由で実現できないのならば、どこからかその予算を引っ張ってくるしかありません。そして、その努力を、企業やアーティストなどの「個」に要求できる量はとうに限界を超えています。「公」の協力を、みんなで要請していくべきだとぼくは思います。
劇場の、とくに客席は、まさに社会の縮図だと思います。客席で実現できないことは社会で実現できず、逆に、社会で起こっている停滞や分断は、そのまま客席にも現れます。ぼくは演劇作家としてまずは客席から、少しでもなにか変えていけないか、試行錯誤していきたいです。
ケアのための劇場
結びとして、ぼくが考えているケアのための劇場について空想します。
東京の劇場はいま、その多くが「商業施設」として認知され、機能しています。ぼくはこれから、商業施設としての機能では"すくい取る"ことのできないなにかを、劇場が"すくい出して"いくべきなのではないかと思っています。
それは「居場所」の提供でも、「逃げ場」の提供でもいい。とにかく、劇場を「エンタメを販売する場」ではなく「多様な人々が集える場」にしていきたい。そのためにできることを、ぼくはアーティストとして考えていきたい。
やや話は脱線しますが、ぼくは寺山修司に強い影響を受けています。彼のことばや精神、そして自由すぎる客席論が大好きです。寺山は造反の(体制に争う)ポップアーティストでした。学生運動の時代、多くの若者の心に火をつけたともいわれています。学生たちの「孤独」に、寺山の表現が突き刺さったのだと思います。あの時代、体制に抗う者たちは孤独を抱えていたのかもしれません。そしてそれは、いまも同じなのかもしれないと、先日ふと思いました。
少々無理やりではありますが、寺山はそうした孤独な若者たちに「居場所」を与え、ケアしていたのかもしれないと思いました。アバンギャルドな表現の数々は、「大衆からこぼれ落ちた孤独な誰か」をケアしていたという側面があるのではないかと。そう考えると、寺山の劇場論は、ケアのための劇場を考えることに相似するのではないか。
いま、東京で、居場所をなくし孤独をかかえた誰か(=私)のために、劇場という暗闇に明かりをともして、待つ。それが、ぼくにできることなのかもしれない。それしかないのかもしれない。ならばそれを、とことん突き詰めて考えていきたい。
現在、鋭意制作中の『ま、いっか煙になって今夜』は、期せずして「場」をつくるという作品になりました。演劇づくりに少し疲れたという面もありますが、やはり音楽とダンス、ポップアートになにか希望を見出していることは疑いえません。居場所、逃げ場、どんな場でもいいです。ここが東京の、暗闇に明かりをともして集まる場として機能するよう、丁寧につくっています。
誰もが誰も孤独を抱えないこと、それは理想のまた理想かもしれません。でも昭和よりは平成が、平成よりも令和が、どんどん便利になっていくように、孤独を抱えずにすむような未来を、これからぼくたちの手でつくっていけると信じてみたい。
そして、そういう希望を、北千住の地下から、銭湯跡地の廃墟から、音楽で焚いた煙にのせて、あてどなく誰かのもとへ届けたい。
劇場は待つことしかできない。あなたのお越しを心よりお待ちしております。
最後に、NEWSのライブ『音楽』で、ぼくが予想していたセットリストを書いておきます。では!✋
エリア51の音楽演劇『ま、いっか煙になって今夜』
10/27(木)-30(日)
Gt. Vo. 神保治暉/Vo. 鈴木美結
Ba. 廣戸彰彦/Mrb. Perc. 中野志保/Reading 濵田真実
Dance 中嶋千歩/Dance 熊野美幸(ぺぺぺの会)
会場:北千住 BUoY 地下スペース 上演時間:90分ほど
チケットご購入はこちら↓
https://t.livepocket.jp/e/meditation
行けないけど応援!という方、もしよければぜひ👇より、サポートをお願いします!!🙏