光の速さのネットバトルと歩く速さの朗読劇
今日はなんでもない日記です。
こんにちは、みやもと a.k.a.八朔です。
これフェミぶりですね。あの議事録はたくさんの人のお役に立てたようで、会場で必死にキーボードをパチパチ叩いた甲斐があったというものです。
だからこそ、後日出てきた石川さんの日記には少々困惑を隠せませんでしたが、まあ後日感想戦で何を言うかまではレギュレーションに含まれていないということなんでしょう。
僕は何名かのWEB系ライターのnoteを購読しています。
その中で印象的なのが「ツイッターは開いて30秒で不快に出くわすメディアである」という話です。
多分、不快だけではないと思います。SNS全般、とにかく開いたその速さでコンテンツが、情報が流れ込んでくる。視界いっぱいに。スクロールの速度はページをめくる速度よりも早いし、その情報の編集者は、コンテンツの作者は、一冊の本を読み終えるだけの時間に何十人分にも膨れ上がって私たちの脳内を占拠する。
それだけ私たちの心にも負担がかかる。摩擦が起きる。私たちは冷えた手を擦り合わせて暖かくしようとするけれど、制御できない速度の摩擦が起きれば火傷をする。
この前の土曜日から先ずっと、そんなことばかりを考えています。
土曜日、あの場は上出来といえるものだったかはさておき、空中分解せずに済んだ。最後まで脱輪せずに目的地へなんとか到着した。それは登壇者、司会だけでなく裏方を務めた方たちの努力、いい場にしたいとマナーを守った参加者の協力もあった。問題はそのあとだった。
あることないこと言う人、見たいものしか見ないし聞きたいことしか聞かない人、そういう人がいるだろうと思って僕は出来るだけ正確を期した議事録を残したが、それもあんまり意味がなかったようだ(議事録が読まれなかったという意味ではなく、議事録があろうが人は自分の持っていきたい結論に誘導するものだ、という意味で)。もっとも、僕自身も見たいものしか見れていないのではないかと言われれば否定はできない。人間なので。
その結果、あの場にまつわる情報は混迷を極めた。さらに後日公開された石川さんの日記の影響で、そして青識さんの次のアクションで、情報は溢れかえり、錯綜している。
そこで感じたのが、先に書いた「制御できない速度の摩擦」である。
僕がここ数日で演劇の話をぼそぼそ呟いてるのも意識的にやっていることだ。そうでもしないと精神的なバランスが取れなかったからである。
これフェミの翌日に、僕は1月に出演するリーディングライブの顔合わせに向かっていた。そこで初めて、短編集のすべての演目の読み合わせが行われた。
そして奇妙にも、僕は物語の速度に合わせて自分の感情が揺れ動いているのをはっきりと感じ取る経験をした。ああ、そうだ、この感覚だ、と考える僕と、物語に悲しみ、笑う僕が存在していた。
物語を鑑賞するとき、物語の展開以上の速度で情報伝達はなされないし、感情の揺れ動きもない。そしてリーディングライブをはじめ、その場で人間が演じている物語の展開する速度が光の速さになることは絶対にない。観ている側も、表現そのものも、その場を同じくして呼吸をしているからだ。タイトルに書いたように、スマホの画面で見るSNSが光の速さなら、これは人間の自然な動き=歩く速度と称していいだろう。
私たちは、あの土曜日について、いったい何にお金を出したのだろうとずっと考えていた。ネット論客の闘牛ショーに何を期待するかって、正直なところ難しいんじゃないかと思っていた。それでもチケットを買った。
もしかしたら、闘牛ショーになってしまったとしても、何か学ぶところのあるイベントになるかもしれないと思ったのかもしれない。むしろその不安感と期待感、どうなるかわからないその顛末を見届けたい、そういう自身の気持ちの揺れ動きにお金を払ったのかもしれない。
そしてそれは僕にとって演劇や映画のチケットを買う瞬間、新しいアニメの第一話を見始めた瞬間、もっと古い記憶で言えば高校の帰りにCDショップでポルノグラフィティの新譜を手に取った瞬間、家まで待てずにバスの中で封を破いてポータブルCDプレイヤーに円盤を挟んで、再生ボタンに指が触れる瞬間、そんな瞬間の気持ちに似ていた。
ここまで考えると、あの討論会にフェミニストと比較して「オタク」と呼ばれる(自称する)人たちが特異的に興味を示し、そして集まったのかがなんとなく理解できる。私たちは多分、そこに”物語”があると期待していたのだ。それだけが理由でないのはもちろんだが、しかし、私たちが期待した筋書きじゃなくても、きっと何かが起きるだろう、それを見届けたいという気持ちがあったのはきっと僕だけではない。
土曜日の夜、聴衆だった私たちは韓国料理を囲みながらさまざまな話をした。僕は先に書いた通り、そこまで期待感は持っておらず、そしてその感想は討論会を経てもなお大して変わってはいなかったが、それでも私たちはだいたいあの討論会の結末に納得していた。気になったところは、これからも似たような討論会があるのなら都度変えていけばいい。
しかし私たちが見た物語は光の速さで壊れていった。
光の速さに置き去りにされた僕がそれを実感できたのが、ようやく今日だったのである。
この先は悲しい話にしかならない。
僕は物語の本筋を捉えられていなかったし、物語の終わりがどこに引かれているかも実は分かっていなかったのだ。きっと誰も嘘はついていない。
「あなたが勝手にそう受け取っただけでしょう?」
そうだ、そうなのだ。誰にも、事実を述べる約束は課せられていないし、各々から見た真実を述べているに過ぎないのだろう。
彼女は討論会の中でも何度もこう言っていた。
「あなたが傷ついたからってわたしを加害者にしないで、先に傷ついていたのはこっちなのだから」
たとえ私たちが見た討論会の結末が、感情の揺れ動きが、未来への展望が、そしてそれらに期待を込めてお金を払った事実が、全部が損失になり壊れてしまおうともそれは「勝手にそう受け取った自分」の問題なのである。
何故なら、この物語の本当の始まりは私たちには決めることのできない、彼女の手の内にあるいつかの「彼女が傷ついた瞬間」から始まっていることになってしまったのだから。
そして何よりも悲しいことに、この顛末に僕はまったく失望していない。
つまり、最初から所詮そんなもんだろうと思っていたのだ。