マッキーの思い出
マッキーの思い出はたくさんある。講堂の片隅や、教会の1階でご家族とおられた姿は何枚も脳裏に思い浮かべることができる。いつも色白なすべすべの肌をして、そしてだんだんと青年の面差しを持つようになった。ただ、自分と直接ということになると、たった一つの思い出しかない。
それは今思うと神様が与えてくださった思い出だ。
ちょうど二年半前のことだ。どこに桜を見に行こうかと、地図を見てるんです、と教会の姉妹からLINEが入った。とても良いスポットを私、知ってますよ!ということで恩田川沿いの桜を見に行くことになった。詩人も犬も一緒に行った。
今その時の写真を見ると、みんなすごく笑っている。マッキーのお父さんもお母さんも二人の妹さんも、まっきーの顔をみてすごく幸せそうに笑っている。
マッキーが亡くなったのは去年の12月15日だった。だからこの桜の日からちょうど一年半後のことだ。最後はいつもすごく苦しそうだったから、楽になってほっとした。きっと新しい体をいただいてかけっこしている、教会の姉妹がそう言って泣いた。
その花見の日。マッキーのお母さんが詩人に「牧人の母親です」ととても誇らしげに自己紹介してくれた、と詩人が後から話していた。そのことを思う時、なぜか涙が止まらない。
マッキーは亡くなった時16歳だった。亡くなるまで体をほとんど動かすことができなかった。原因は分からなかったそうだ。
葬儀には200人もの人が訪れた。マッキーのお父さんが、「私でもこれほどの人数の人が集まるでしょうか」と挨拶されていた。
聖書のヨハネの福音書9:1-3にこういう箇所がある。
さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生、この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
(私が聖書が好きな理由はここにある。目の見えないこの男性は、耳は聴こえていた。だからこの弟子の失礼な質問はちゃんと聴こえていたのである。弟子であってもそれほど失礼で無神経だったことを聖書は包み隠さず伝えているのだ。)
その16年という短い生涯で、誰とも一言も言葉を交わすことがなかったマッキーの葬儀に、200人もの人が訪れたのは何故なのかもちろん私は分からない。でもマッキーのようになりたいと思っている自分がいる。ただ神様に身を任せる以外になかった、だから身を任せていた…。そういう生き方を自分はしたい。
教会の姉妹、マッキーのご両親、妹さんお二人と。
くーちゃんも笑ってた日