柴田先生の基調講演。山ちゃんの運命。
さて、今日は業界オンランフォーラムの基調講演で柴田元幸先生と編集者の永井薫さんの対談。柴田先生が責任編集されている2013年発刊のMonkeyは、その前年に帰国し、暗澹とした日々を過ごしていた自分にとって大きな救いだった。言語と物語に集中する限り、自分の人生に危機はないだろうと確信を与えてくれた雑誌だ。
多くの会議通訳者が聴衆に混じっていることから、柴田先生が英語のヒアリングについての、ご自分のコンプレックスを最初に語られた。親しみがぐっと湧いた。
アメリカを代表する現代作家Don Delilloの小説「White Noise 」の、ヒトラー研究者でありながらドイツ語が話せない主人公を思い出した。
以下の点が心に残っている。
1) 文芸翻訳とは立派な文章に翻訳することではない。小説とは雑多な要素があるものなのだ。
2) 翻訳する際、これと言う何か自分で打ち立てた大原則があってトップダウンで翻訳を当てていくわけではない。始めに一つ一つの文がありきで、そこからどの翻訳が適しているかを見極めるボトムアップの方法がしっくりくる。
3) いわゆる「正しい翻訳」というものはない。
4) James Robertsonの「翻訳の不十分さ」を引いて朗読されたのがクライマックスだった。それはゲール語をうまく英語に翻訳できなかった詩人の苦悩を描き、最後をその詩人の笑顔で締めた、日記のような散文詩である。
自分は訴訟中心で通訳をしているので、会社同士が喧嘩している中で自らの訳を検証される。つまり、「合っているか」が問われる立場にある。この点多くの誤解があるが、それゆえの緊張感が増しても普通、訂正はそれほど入ることはなく、淡々と進められるものなのである。たまに「合っている訳ができる通訳は自分です」と信じ切るか、「合っている訳とは自分の訳」と信じているフシがあるか、そういう精神状態になぜか陥ってしまった通訳がチェックで入ることがある。(自分がチェックする時、実はそういう精神状態に陥ったことが何度かある。)
「オリンピックは魔物だ」とはよく言われることだが、こういう通訳が入ると、自分の通訳人生全て否定されたような気持になるから不思議である。これは自分の心の中にできた魔物なのである。(それにやられてしまったことが、一度だけある。その時は前の犬を亡くした悲しみもあって対応がとても難しかった。)
通訳にしても翻訳にしても、言葉の言霊(作者ではない)に集中していれば、状況にあった訳ができるはずだ。もちろん日々の研鑽は必要だが…。
柴田先生の講演には、言語に集中して後から全てがついてきた人生に特有な、何か余裕のようなものが感じられた。手に職がある、という話とはまた違うのだ。
ーーーーここから先は個人的日記ーーーーー
昨日、巣から落ちた雀のヒナを、山本山の缶に入れ、山ちゃんと名付けて世話した話を書いたが、当時のルームメートがGoogle翻訳で読んでくれたそうで、「山ちゃん、死んでないよ。オードボーン協会に電話して、連れてってもらったんじゃん」とメールをくれた。
「いつのまにかいなくなった」という自分の文章が、多分「was gone(死んだ)」と出てきたのだろう。
このしょうもない日記はなんと(PV数を確認しないと表明した決意を破ったことを告白するが)1日平均178名ものPV数になっている。SNS実力者にとっては極めて些少な数字なのだろうが、自分にとって誠にありがたい。この数字のどれだけが実態なのかわからないが、もしかするとGoogle翻訳しながら読んでくれている海外の友人がいるのかもしれない。
そうだった。山ちゃんはオードボーン・ソサエティの、優しそうなおじさんが連れて行ってくれたのだ。そのおじさんは、地域のどの種類の野鳥がどこに巣を作っているのかを常に把握していると仰っていた。雀は嗅覚も眼も弱いので、他のヒナでも巣に戻せば自分の子と思って普通に育てると仰っていた。後から「無事に巣に戻せた」と電話さえくれた。宿題やら試験やらを言い訳に、当時から心に余裕のなかった自分は、一緒について行って、巣に戻すところを見たいとさえ、思わなかった。一緒に行けば良かった…。
一緒に行って巣に戻すという行為を今になって思えるようになったのは、コロナのお陰だ。自分は哀しいかな、そういうことに価値を見出す余裕のない人生を送ってきた。
山ちゃんは見つけたのが確か、金曜日か何かで、協会には電話が通じず、数日間うちで飼っていたのだ。そういうことがだんだんと思い出されてきた。その時の誇らしいような気持ちさえよみがえってきた。
山ちゃんが恥ない人間になりたい
真剣にそう思ったものだ。
昼:昨夜優子と食べた総菜の残り
夜:友人の小長井君が来てくださってエルモで食事。
犬が夢を見てキャンキャンと小さく吠えている。多分猫を追いかけているのではないだろうか。たまに夢を見ていることがある。犬の知性を見るようでとても面白い。コアラは夢を見るのだろうか。パンダは…。くしゃみをするのは知っている。
*今日の写真はstonechat777さんのを使わせていただきました。
Today's journal in English:
I wrote yesterday about my memory of rescuing an injured baby sparrow when I was a graduate student in upstate New York. My old roommate emailed me last night having read the Google translation of my writing, saying that the baby sparrow, Yamachan, survived (unlike Google traslation, "it's gone”), and was taken away by a member of the local Audubon Society.
That’s right. Now it comes back to me. A warm-hearted middle-aged man appeared at our door and explained to us that he explores local woods to locate nests of wild birds. A mother sparrow doesn’t have sophisticated smell and sight, so she would take any baby bird from outside, that was his explanation. Thinking about that day makes me wonder if that was his full-time job; locating nests in nearby woods. Probably not. My twisted personality created this picture in my head: a family of three daughters and a kind but strong-willed mother. The father is a bit of an outsider in his own home. His wife is very motherly, which allows him to maintain a certain boyishness, and to pursue his life-long hobby of watching wild birds…
In a way, the Audubon Society had established a means of helping this lonely middle-aged man.
There should be a “system” like that. Now more than ever we need something – something that gives people a place to be, something to hold onto – otherwise we’d be wandering aimlessly over the earth.