写真とエッセイ | 辻褄を合わせるということ
幼い頃、物心がついた頃から「理論的に」生きて来ました。
特に中学校で数学を教わったころからでしょうか、理論的に考え、それを実行することが正しいと信じ込み、ある意味素直にそう有りたいと思いつつ大人になりました。
しかし、先日、京都大徳寺大仙院の尾関宗園和尚の本を読んでいると、「辻褄など合わせなくとも良い」と言った意味の文章がありました。
辻褄を合わせなくても良いとは、どういった事か、今日はその事についてちょっと考えてみたいと思います。
辻褄が合っていない、つまり理論的でないとはどういった状態であるか。
前後の脈絡がなく、突拍子なく結果が決定するという事である。
AだらかaでありBだからbなのではなく、AだからbでありBであってもaであるという事である。
禅の世界では、この様な状態を自由と呼び、空と呼び、これがニュートラルなのである。
縛られず自由に。
前後の脈絡が大事なのではなく、その時その時にどれだけ仕事に没頭しているか、それが重要だと和尚は語ります。
「空」になって、なりふり構わず、泡を食っている状態こそが尊いのだと和尚は語ります。
私は統合失調症という病気で、自分の考えをまとめる事が苦手です。
苦手ではありながらも、「理論的でなければ周囲の信用を得られない」と、半ば自分を鼓舞し、半ば自分を洗脳しながら今日まで生きていました。
しかし、重要なのは理論的である事で得られる周りの評価ではなく、自ら燃えて無になれる充足感である事に気付きました。
辻褄なんて合わせなくても良い。
ただただ「空」になって、「無」になって今を生きる。
良かれと思うことを積み重ねる。
人の一生は誰のものでもありません。
他人が芋を食って、私の腹から屁は出ないのです。
人にはどんなに言葉を尽くしても、説明できない物語があります。
ならば、自分の一生を賭けて、自分だけでも納得の出来る、本当の「夢」を見ようではありませんか。
私は障害を持っていますが、生まれ変わってもまた自分自身になりたいと思うほど、今、幸せです。