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『言語はこうして生まれる』を読んで。

本書は『言語はこうして生まれる~即興する脳とジェスチャーゲーム~』モーテン・H・クリスチャンセン、ニック・チェイター著 塩原通緒訳 新潮社 の読書感想文です。

選書の理由

言葉が好きだ。この本を手に取る理由はそれだけで十分。
本屋で平積みにされている本書を手にとって、ページをめくる。本文が書かれた1ページ目にあたる序章は以下の文章で始まる。

言葉は人間が人間であるために不可欠なものだが、人はふだん、わざわざ言葉について考えたりはしない。言葉は人間の生活のあらゆる面の中心にあるのに、言葉がつかえなくなって初めてそうだったと気づくのだ。
もしも人間から言葉を奪い去る謎のウイルスが流行ったら、どんなとんでもない事態になるかを想像してほしい。現代文明はたちどころに無秩序にとってかわられるだろう。人びとは情報の真空に迷い込み、もはや互いに適切な関係を築くことも、取り決めをかわすことも、道理を言って聞かせることもできない。

序章 世界を変えた偶然の発明 P.9

会話はジェスチャーゲームである

クロード・エルウッド・シャノンが「言語コミュニケーションは発信者から受信者へチャネルを通して伝達されるもの」だというコミュケーションモデルを主張してから100年余り、言語は通信的な情報伝達だととらえられてきた。(コミュニケーションモデルは本書でも紹介されているが詳細は割愛)
だから、私たちは会話について紹介するときにナチュラルに「話し手」と「聞き手」という表現を使用する。
だがしかし、著者はこの情報伝達モデルとは違う観点で言語コミュニケーションをとらえる。著者は本書を通して「言語コミュニケーションは即興のジェスチャーゲームを通じて意味をやり取りするもの」と主張する。言語コミュニケーションは話し手から受け手に通信されるだけでは成立しない。会話ではお互いが言葉を通して、お互いが何を知っていて何を知らないのか探り合い、確認しながら、意味のやり取りが行われる。言語は瓶詰めされたメッセージのように一方的に伝達されるのではなく、対話の当事者同士の共同作業によって構築される。というわけだ。
著者は言語コミュニケーションをジェスチャーゲームのようなものだと仮説できる裏付けとして、1769年にエンデーバー号に乗るクック船長が、タヒチに向かう途中で立ち寄った島で現地民のハウシュ族と言語や文化を一切共有しないにもかかわらず、ジェスチャーなどを通じて意思疎通をとり交流を行った、というエピソードを紹介している。コミュニケーションには言語という道具が使われるが、コミュニケーションとは本質的に意味のやり取りであり、言語はこうした即興的なジェスチャーゲームから生まれたのではないか、という。即興のジェスチャーゲームから固定の表現が生まれ共有されていき、やがて体系的な言語が作られたのではないかというのが著者の意見である。
言語コミュニケーションが相手が何を知っていて何を知らないかを推量しながら意味を伝え合い理解を形作る共同作業だというのは言いえて妙だなと思う。同じ言葉を使っていても意味を取り違えていたらコミュニケーションは成立しない。シャノンのモデルより私はこちらの方がしっくりくる。著者の言語観はこれまでの言語認識を大きく塗り替えると帯には書かれていたけど、特に驚くような内容はなく、どころか、とても納得できる内容だった。

言語は劣化しているか

「最近の若い者言葉はひどい」なんていう、若者の言葉遣いを批判する声は日本でも聞かれるが(私が子供のころにはチョベリバなんて言葉があった…)、それはどこの国でも同じらしい。本書ではUKの例が紹介されていたが、なんなら現代だけでなく、いつの時代にもその手の批判はあったらしい。ガリバー旅行記で有名なスウィフトも有名な若者言葉を憂い、美しき英語を保存しようと考える人だったらしい。
こうした主張は「ずっと昔には完ぺきな言語があった」という前提がしかれているが、それは正しくない。言語は即興のコミュニケーションの積み重ねによって変化していく。言語は既存のパターンが崩れていくのと並行して新しいパターンが創造される。カオスな日常のおしゃべりから新たな意味や言葉が生成されている。絶えず変容のプロセスをたどっている。だから若者言葉を言葉の乱れなんて思わなくてもよろしい、という。この考え方はとても好き。なんとなく会話から生まれた言葉がバズワードになって定着したり、言葉の定義だってどんどん塗り替えられたり、その積み重ねで言葉って作られていくよね、と。ちなみに言葉の変容例で登場するのは英語の「thou」(今は失われてしまったyouの丁寧語)。言語学者の本に頻繁に出てくるやーつ。

言語は文化的進化とともに

言語は人間だけが持つ。自然界でもコミュニケーション手段を持つ生き物はたくさんいるけど、言語のような集団で共有される可変性があるコミュニケーション手段を持つのは人間だけだそう。同じ霊長類のボノボやチンパンジーでさえも持たないらしい。ボノボやチンパンジーは個体としてジェスチャーなどでコミュニケーション手段を生み出すことがあるそうだが、仲間同士でそれを共有することはないという。またミツバチからゴリラに至るまで集団で同じコミュニケーション手段を共有する種はいるが、彼らのその手段は遺伝子にインプットされており可変性を持たない(実験で明らかになっている)。人間のコミュニケーション手段である言語だけがローカルな独自性を生み出し、共有し、文化的進化をとげている。言語は遺伝子に規定されず後天的な学習により獲得される。そして言語の語彙とともに概念と思考は育つ。言葉を持つことが人間を人間たらしめている。
ボノボやチンパンジーと人間の差が面白かった。いま別で共感性について学んでいるが、集団行動のなかでコミュニケーションをとり意思疎通をはかる、共感を発揮して社会性を身に着ける、といったことができる種が変異的に生まれ、その種が生存に有利だったということだろうか(恥ずかしながらホモサピエンスの本を読んでいない)。

専門的な内容もいくらかあったけど、概して読みやすく門外漢でも楽しく学べる1冊だと思う。とにかく面白い。英語に詳しい人なら一層楽しめると思う。言語学者の書く本は素晴らしい。なにより言葉に対する愛があふれている。その文章を読んでいると、言葉を持つ唯一の生き物として、これからも言葉を愛していこうと思える。久しぶりにウィトゲンシュタイン読みなおそうかな。

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