『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』を読んで。
こちらは『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』(イザベル・ウィルカーソン 著 , 秋元 由紀 訳)の感想文です。
https://www.iwanami.co.jp/book/b611103.html
あらゆる点で凄い本だった。文章量が多いのに読みやすく引き込む文章で、数日で一気に読み切ってしまった。作者の知性と文章力が素晴らしかった(もちろん翻訳家の仕事も!)。
なぜ「カースト」なのか
本書はアメリカにおける人種差別、とりわけアフリカ系アメリカ人に対する差別を取り扱っている。この問題は一般的にレイシズムと呼ばれているが、作者によると差別というよりインドで知られる「カースト」に該当するという。歴史をさかのぼると400年前から始まったであろうコーカソイド(いわゆる白人)によるアフリカ系アメリカ人の差別・奴隷制は、アメリカ内におけるアフリカ系アメリカ人の地位をすっかり固定してしまった。特に南部では長く奴隷制度やアフリカ系アメリカ人への迫害があり、2022年の今もさも人種によるカーストが存在するような状況が現在も続いている。らしい。
アメリカにうずまく差別をレイシズムではなくカーストだという主張は納得感がある。話のレベルがだいぶ変わってしまうのだが、私は小学生時代いじめられっ子だった。気づいたらクラスメイトから疎まれていて、すれ違い様に少し手が当たっただけで男子から「うわ、あいつに触っちゃった!穢れる!」と騒がれたり、靴を隠されたり画鋲を入れられたり、からかわれたり、給食の時間に私だけ机をくっつけてもらえなかったり(あげればきりがないので割愛)。今風の言葉だとスクールカースト底辺ともいえるかもしれない。マイルドないじめが2年3年と続くと「自分はクラスメイトより劣った存在なんだ」「この先、ずっと疎まれる存在なんだ」という感覚になる。中学生になりいじめがなくなってもその感覚は高校卒業まで抜けず、中学や高校でそれまでの私を知らない子と仲良くなっても、「この子にもいつか私が劣った存在だとばれてしまう」「化けの皮がはがれてしまう」と思えて怖かった(地方出身なので学力が近い子供たちは小学校から高校まで同じコースで育つ環境で、どこにいっても過去の自分を知っている人とは離れられないのだ)。劣等感がなくなったのは地元の知り合いが誰もいない大学に入学してから。たった数年のいじめられた経験から生まれた劣等感が6年もついてきたことになる(それでも私は大学デビューできたのでラッキーだったと思う)。
本書で書かれるアフリカ系アメリカ人は命にかかわるような熾烈な差別体験を人生通して、そして何世代にもわたり経験している。劣等感が刷り込まれて階層意識が固定化されてしまうのは想像に難くないというか当然だと思う。だからこれは「差別」ではなく「カースト」なのだ。
あまりに凄惨な人種差別の歴史
本書ではアフリカ系アメリカ人に劣等感を刷り込んだ南部での凄惨な奴隷制度の歴史が紹介されている。過去にKKKが登場する映画(ブラック・クラウンズマン)を見たことがあったが、本書に書かれていたジム・クロウ法下のアフリカ系アメリカ人への振る舞いは映画の内容をはるかに超えた凄惨さで、読みながらショックで眩暈がした。リンチに関する描写は読むのがつらかった。子どもが殺害されるシーンもある。凄惨な振る舞いが国全土で許容されていたのはあまりにも恐ろしい。差別的な振る舞いは法制度で守られ、白人の普通のアメリカ人がリンチや殺人に加担・同調する。当時の南部の差別的な法制度はナチスドイツがユダヤ人迫害に向けた法整備を進める際の重要な参考文献になったらしい(本書ではナチスがユダヤ人迫害を行ったレトリックを短期間で人為的に作ったカーストだとみなしている)。
恐ろしいのは、そんな非人道的な振る舞いをしていた当時のアメリカ南部に住む白人が特別に極悪人ではない、ということ。ナチス時代のドイツ人もしかり。誰かをスケープゴートにするシステムが機能すると、ごく普通の人がありえないほどえげつない差別や殺人を許してしまう状況が生まれてしまう。リンチ殺人をする人も自分も生物学的には同じ人間で、環境やそこから培われる常識によってどちらにでも転がるっていうのは、底知れない恐ろしさがある。当時ほどの凄惨さはないものの、アメリカでは今もアフリカ系アメリカ人への差別は水面下で、時には思いっきり表面で続いている、らしい。(自分はアメリカ人ではないし、訪米経験やアメリカ人の知人はいるものの、そういう側面に触れられるほど言語や文化に習熟していないので、すべて伝聞になってしまう。残念)。
差別の連鎖は止められるのか
プロパガンダに負けない、システムに取り込まれず1人1人が判断力を持ち、倫理的であるためにはどうすれば良いんだろう。本書ではそのヒントになりそうなエピソードが2つ紹介されている。1つはドイツからアメリカに亡命したアインシュタインのエピソード。アインシュタインは亡命後、アフリカ系アメリカ人を擁護し、反差別活動に熱心だったという。過去に彼自身がユダヤ人だという理由でナチスから虐げられた経験があることからアフリカ系アメリカ人の苦難に共感したのだろうと思われる。同じ境遇を経験した人は似た状況に出会うとプロパガンダに飲み込まれず共感できるのかもしれない。もう1つのエピソードは著者自身の経験。アフリカ系アメリカ人である著者の自宅にある日、白人の配管工が訪れる。当初は著書は配管工から差別的な扱いを受けるが、ふとしたきっかけで彼らは互いの母親の話をはじめ、その過程で、差別的だった配管工は著者に同情的になる。帰り際には2人は打ち解け温かな人間らしい会話をして別れる。共通項を見つけることで、相手を「アフリカ系アメリカ人」「女性」といった記号で見るのではなく、自分と同じ生身の人間として見ることができると、悪意のある差別的な行動を避けられるのかもしれない。
集団においてスケープゴートを作ろうとするのは生き物としての本能のように思われる。差別を全くなくすことは不可能かもしれない(動物の群れにはα、β、Ωがおり、Ωがスケープゴートになることで群れの秩序が保たれると言われている。そしてスケープゴートという言葉がある通り、人間が生贄を必要とする歴史はかなり古い)。ただ、上記のヒントにあるような共感性を持つことで、差別的なことに出会ったときに自身の振る舞いを検証できるようになるかもしれない。幸い、共感性は後天的に学習可能だ。
共感性をはぐくむことでカーストは止められるかもしれない。世界中に存在するカーストは歴史が古くその力は絶大だけれど、そこから生まれる差別により苦しむ人が1人でも少なくなることを祈る。被差別的な環境で生まれた子どもたちの心が健やかに育ち、能力を発揮できることを祈る。今ではダリットに生まれても学力を糧にITエンジニアとして成功する人がいる。どうか世界がよりよくなりますように。
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