『トランスジェンダー問題』を読んで。
こちらは『トランスジェンダー問題: 議論は正義のために』(ショーン・フェイ (著), 高井 ゆと里 (翻訳))の感想文です。
https://webmedia.akashi.co.jp/categories/1009
選定理由
トランスジェンダー問題というISSUEにはずっとモヤモヤしたものを感じていた。
はじまりは2016年あたりから世間を 賑わせたキャスター・セメンヤ選手のテストステロン規制の報道だったと思う。スポーツでのトランスジェンダーをどう扱うべきか?自分の中に応えはなかった。その後、UKでのトランスジェンダー問題に対するJ・K・ローリングとエマ・ワトソンの確執や渋谷区のオールジェンダートイレ(https://mag.tecture.jp/culture/20200906-12891/)など、トランスジェンダー問題はSNSをにぎわせ続け、議論は絶えない。私もいよいよこの問題にきちんと向き合わねばと思うようになった。本書はそんな折に書店で出会った1冊である。
トランスジェンダー問題に対してあまりにも知識がなさすぎて、意見を問われても答えがなかったので、手始めに本書を読んで自分の中に意見を形成できればと期待して読み始めた。
イデオロギーではなく福祉の問題
本書はトランス女性であるショーン・フェイさんにより執筆された。当事者の視点でUKに暮らすトランスが直面する様々な困難を紹介している。トピックはトランスのメンタルヘルス問題、医療へのアクセス(特に性転換やホルモン治療に対する医療へのアクセス)、移民問題、貧困・ホームレス支援、シェルターや刑務所、セックスワークの課題、フェミニズムとの関係性など。トランスジェンダー問題というと「トランス女性に女子トイレの使用を認めるのか?」「トランス女性は女子競技に出てもよいか?」といったシスである私たちがトランスをどのように受け止めるのか?という視点になりがちだったけど(私だけかな…)、私たちが見るべきは、トランス当事者が生まれ持つ性別への違和感やメンタルヘルス、学校や職場でのいじめ、医療へのアクセスといった当事者の切実な困りごとだった。当事者にとってトランスジェンダー問題はイデオロギーではなく、福祉の問題なのだ(もちろんトランスを迫害する右派とのイデオロギーの戦いもあるけれど)。バリバリにマジョリティ側の驕りのある視点でとらえていたことが恥ずかしい。
民主主義国家におけるマイノリティの声
一方で、トランスジェンダーの困りごとを知ったうえで本書の主張を全面的に「その通り!トランスの人たちは守られるべき!制度や慣習を変えていくべき!」とも思えなかった。他にも困難を抱えているマイノリティはおり、対処・配慮しないといけないことは山のようにある。トランスジェンダー問題はあまたのマイノリティ支援のone of themのようにも感じた。
マイノリティは困難を抱えている。医療や福祉へのアクセスは担保されるべきだと思うし、学校や職場で人格攻撃を受けたり尊厳を損なうような扱いは受けたりするべきではない。ただ、例えばトイレ問題のように他の集団と折り合いをつけないといけないケースでは難しいこともあると思う(そういう発想に至る時点で当事者ではない故の他人事感が出ているな…)。
UKも日本も民主主義を採用している国で、国家運営には予算上限がある。トランスは人口でみると全体の1%にも満たないという。何もかも叶えることはできないし、マジョリティの声の方が圧倒的に強い。日本の憲法には基本的人権がうたわれている。ただし守られるのは公共の福祉に反しない限り。渋谷区が採用したオールジェンダートイレは公共の福祉にかなっているのだろうか。価値観が多様化する中で、その線引きは難しくなっているのだろうと思う(人権や公共の福祉については学生時代に授業で習った以上のことを知らないので、もっと勉強しないといけない)。
戸惑う心すらホモフォビックなのか
トランスジェンダー問題含め、LGBTQに関する話題になると全面的に肯定的でなければならない、という圧力を感じることがある。いわゆるポリコレというやつ。このポリコレはメディア上でも機能していて、少しでも否定的な言葉を表明すると袋叩きにされることもある。作家のJ・K・ローリングは「トランス女性は女性ではなく、女性トイレや女性更衣室に入るべきではない」という趣旨の発言をしてエマ・ワトソンから否定的なコメントをくだされていた。本書でもこのエピソードを引用しながら、何度もメディアではトランス女性がプレデターのように扱われるが、断じてトランス女性はプレデターではない、と語られる。
でも、正直なところ、J・K・ローリングの気持ちは分からなくもない…と私は思う。トランス側の気持ちを尊重するのと同じくらい、性暴力を恐れる女性側の気持ちも尊重されるべきではなかろうか。特に過去に痴漢や性暴力に遭遇した経験がある女性であれば、トイレや更衣室でトランス女性を受け入れることに恐怖を感じるのは当然だと思う。トランス女性はプレデターではないことも、女性がトランス女性を受け入れることに戸惑いがあることも、どちらも正しい。LGBTQを受け入れていくべき風潮は概ねポジティブなものだと思うんだけど、そこから生じるポリコレ的な圧力によって戸惑う声が否定されることには違和感がある。実際の生活ではマジョリティの声が大きく、トランスの声はかき消されてしまうのだろうし、この場合のマジョリティである女性の声をあえて擁護するほどではないのかもしれないけれど。
多様性ある社会に向けて
マイノリティであるトランスが尊重される社会を実現しようとすると、マジョリティである私たちもその変化を受け入れなくてはいけない。多様性はバラ色ではない。変化に戸惑うこともあるだろうし、時には自分たちが享受してきた特権を手放すことにもつながりうる。
それでも、おそらく世界はこれからどんどん多様性を尊重する方向に舵を切っていく。どのような変化が自分たちに起こるのか、もっと会話をしなければならないと思う。
そして、マイノリティの声をひろい、多様性を尊重し、誰にとっても生きやすい社会を作っていくことには大いに賛同するけれど、どうかその時にマジョリティ側の戸惑う心にも配慮があると良いなと思う。デンマークでは男女平等を進めたことで自信を失った男性による女性に対するDVやハラスメントが増えてしまったのだが、その際に加害者男性を社会的に切り捨てず、公的に加害者男性に対するメンタルケアがなされているという。トランスを包摂していく過程では、シスジェンダーのジェンダー観の中で育ってきた人にとって、トランスやノンバイナリーは未知の存在であり、受け入れるにあたって戸惑う人も少なくないかもしれない。その戸惑う心もホモフォビックとしたり、ポリコレ的に許されない、というのはいささか厳しすぎるような気もする。もちろん戸惑っているからと言って相手を否定・ヘイトするのは絶対にNGだけど。正しさと感情は時に別の動きをする。どちらか一方のみが正しいという決めつけをせず、戸惑う心も許容して、分断を生まないような状態に持っていけるといいなと思う。
マジョリティがマイノリティに対して想像力を働かせ、理解と共感を示すとき、その逆もあってほしいと思うのはわがままだろうか。マジョリティ側のエゴだろうか。自分がマイノリティ側にいたら、きっと「これまで自分のことを尊重してこなかったのに、どうしてお前たちのことを知らねばならんのだ!」と憤慨しそう。でも、お互いがお互いのことを知るための努力をして、想像力を働かせないと、いつまでも私たちは分断されたままではなかろうか。双方向な理解と共感があってはじめて、平行線の議論を進められるのではないかと思う。
なんだか読書感想文とはいえない雑文になってしまったけど、本書を通して自分はいろいろなトピックに対して知識が足りないと改めて痛感した(人権、ポリコレについて書かれた書籍は必修課題決定)。トランスジェンダー問題への答えは、今はまだよく分からない。これからも本やコラムを読んで、人と話して、考えていきたい。
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