私の歩んできた道とこれから(2)

中学時代

ピアノにかなりの違和感がくっついてしまったまま中学校の多感な時期に。

ちなみに小学校の頃は毎日学校から帰って2時間ほど、中学校の頃はもうちょっと練習していたけれど、言われていた5時間には到底及ばないような練習時間で。練習は好きだった覚えは全くないし、いつもそれで怒られて。
先生には、あなたはうちで一番才能があるけど一番練習しない!と叱咤されていました。


その後を決める大事な出会い

そんな中学時代には私の今につながる大事な出会いが2つ。

一人は、私の好きだったピアニスト、ヴラディミール・アシュケナージの妹さん。
妹さんもピアニストで、なんと日本で教えていらっしゃったのです。
私がアシュケナージが好きな事を知って、妹さんを紹介してくださる方が現れたのです!

初めて演奏を聴いてもらった時のことまだはっきり覚えています。

いつも通り弾いてるだけなのに、表現したくなる。
自分はこうなんだよ、ってピアノを通して伝えたくなる。
言ってみたら、普段は練習の時にしか許されていない、
「好きなように弾く」
ことを応援してくれるようなオーラを出してくれるから、のびのび弾けるんです。
今考えると、これこそが私の求めてた音楽像でした。

もう一人は、日本のとってもお偉い先生。
また幼い頃の怖い先生の再来のような感じになってしまい・・・
才能が有り余っている子が外国に行くの。あなたに才能はないのに外国行ってどうするの?そういう言葉を10代の子にかけられるような人間でした。

やむを得ずその先生につかなければならない状況、と当時の私は思っていました。だからやめる選択はありませんでした。

道がないところを進むような中学生ってあまりいなくて、当時の私にはこの一本道しか見えていなかったのが原因だと思います。


一本道のつながった先

そんな暗闇の中にいた私を一番近くで見ていた親、特に父親が、一刻も早く根っこから改造するため私を信頼して遠いフランスに送ってくれました。
そう、先ほどお話した、日本じゃないところで生きる事 を選択することを許してくれたのです。

弱冠15歳。完全に子供です。
私自身は幼い頃からしっかり者で自称精神年齢40歳だったので(笑)
一人暮らしの自信はマンマン。

パリでの生活は全てがドキドキ全てが新しく全てが自由で最高でした。
語学が好きな私は2ヶ月でフランス語の大体の基礎をマスターして、日常生活の意思疎通はできるようになりました。
暇があれば辞書を読んで、ラジオを聞いて、看板を見て、覚えた表現を使って・・・
楽しかったなぁ。


私のピアノの基盤が出来上がる

ピアノに関しては、アシュケナージ先生が奇跡的に幼なじみの素晴らしいピアニストがパリに住んでいるからと言って連絡を取ってくれたのです。
これが人生一番の運命の出会いでした。

私はその先生からピアノ演奏の真髄を教わり、到底想像出来なかったようなレベルまで引き上げて貰うことになります。

「あなたは絶対パリ音楽院に行ける。」

今までは日本で練習しない落ちこぼれだったのに、パリ音楽院って、世界有数の音楽学校・・私が?

ギラギラした未来が遠く、でも大きく見えるような、そんな感じがしました。


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