私の歩んできた道とこれから(1)

こんにちは!小川遥です。
今回は、私の今までの人生と今からの人生について書こうと思います。
やっぱり小さいころからピアノの占める割合は大きかったな。


子ども時代の日向と日陰

私は音楽家の両親から第一子長女として生まれ、ものごころついた時には当然のようにピアノを弾いていました。
親はクラリネット専門でしたがピアノも教えていたので私も自然とピアノに向かい、楽しく曲を耳コピしたりして弾いていたのを覚えています。

4歳の頃ついた先生。若くて優しい先生で、家まで来てくれていたのですが、留学するとのことでお別れになってしまいました。代わりについたのはその先生のお母さん。彼女も音楽家2世だったのですね。お母さん先生につき、ご自宅まで通うことになります。

いまだに覚えている、レッスンに通う電車のホームの風景。それとつながって、その先生のズーンとした暗い思い出がよみがえります。
間違えたら手をピシャッ。楽譜には先生しか書いてはいけない。(親が指づかいなど書いたらすごく怒っていました。)
先生が “あんぷ“ って書こうとして、“あ“って書いてその続きを忘れて(喋ってたのかな?「誰、“あ“ってここに書いたの!」って怒ってたのめっちゃ覚えてる!🤣
ただでさえ人見知りだった私を強烈に萎縮させるような人でした。

親は私に、やめようかって言ったけど、なぜかやめないって言ったんです。


引越し

1年くらい我慢した頃、父の仕事の都合で他県に移る事に。
当然ピアノの先生も変えることになり、45分近いところの、基礎をきっちり教えると評判の先生のところに通い出しました。

その先生はとても愛情深く、きっちり指導して下さいました。
フランスとイタリアでの学生時代もその時の先生に教わった基礎を褒められるほど。この先生なしには私はここまで来られなかったな。

ところが先生は、ある時からコンクールが大好きになってしまい・・・
最初はコンクールっていうイベントにワクワクしたし、幅広いスタイルの曲を弾けるのが楽しかった覚えがあります。

でも、だんだんと、「勝てる」ように弾くことを求められて。
「この審査員はこれが好きだからこう弾きなさい」という指導になってきて。
10歳ちょっとくらいの頃ですが、その時の違和感、相当深いものでした。


ピアノが怖い

コンクールには先生が必ずついてきて、一緒に乗る車の中でお手本のCDをかけながら「ここはこう弾いてね!ここはこうするのよ、この部分がね・・・」
愛情深く情熱があるのはわかるんだけど、ただでさえ緊張しているのに、リラックスさせてほしかった・・

一緒にご飯を食べれば先生のメニューは必ずカツ丼(プレッシャー!)。
本番前に必ず食べさせられるバナナ。(そのせいでいまだにバナナが嫌いです)
舞台裏に行くとプリンセスの格好した子供達がヘッドフォンをかけて楽譜の上で指をパタパタ・・

うん、別にいいんです、だって、全てはベストを尽くす努力だから。
だからいいんですけど・・私には相当異様な世界でした。


別世界

ちょうど10歳頃の時。クラリネットでフランス留学した父に、フランスに連れて行ってもらいました。そこで父の知り合いの先生にピアノを聴いてもらう機会もあり。
空気の匂い、雰囲気、食べ物、全てが違って、体中の毛穴から、こんな世界ってあるんだなー!ってことを感じることができました。

この経験が 日本じゃないところで生きる事もできるんだ という意識を頭の片隅に作ってくれました。


この続きは次の記事で!


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