会社の飲み会や接待に、私つまり他人がいても差し支えない会には呼んでほしいと知人たちに伝えてある。先日参加した接待が昭和の負の遺産のような会で辛い気持ちになってしまった。でもきっとこれが日本のリアル。永田町も財閥企業の役員も昭和体質のままで、そりゃ若い人が生きづらいはずだなぁ。
ゲストからのご祝儀ありきで挙げる結婚式を“現代的でない”と批判した記事を最近読んだ。「疎遠だった元同僚が突然SNSにいいねしてきたと思ったら結婚式に呼ばれて微妙な気持ち」とは今日会った知人。他者の祝い事、祝う気持ちのレベルは金品で表現するしかないものなのかと真面目に考え直す宵。
機嫌を損ねると2週間手がつけられなくなる、の私が久しぶりに登場した。記憶の限り7-8年はその自分とは無縁で、あぁまだいたのかと思った。人は何を引き出される環境にあるかで人格も変わる。あいつ嫌なやつと思っても、自分が相手のそういう部分を誘発してるだけかもということは忘れずにいたい
7-8月の間、仕事と旅以外で人と会うのを控えていたのだけれど9月に入って外出を再開したらまぁ世界の広いこと。人の些細な一言に宿る情報量の多さこそ仕事の財源。人に支えられた仕事だと改めて気づくもすっかりお酒は弱くなっていた。回復に時間がかかるのは外出を休んでいたせいだと思いたい。
伊集院光さんが「君たちはどう生きるか」について『宮崎駿の生前葬』と言ったらしいのだけど言い得て妙。バンドは売れたら自己満足的難解な曲をやり出す、という感想しか言えなかった私は語彙力に乏しい。生前葬といえば棺桶アーティストが話題。友達に勧められた死についての本を積読から出した。