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わからないことをわかることがスタートなんだ

どうしてこんなに説明してるのにわからないんだろう。僕は十分わかりやすく話したはずなのに。

普通こう考えるはずなのに、なんでそんなことをするの?どうしてわからないの?


こんな思考回路になることはありませんか。
しかし、僕は感覚の研究をしてる身として思うのです。

他人に見えている世界の全てを理解するなんて不可能だ


僕らは人間の身体という一見似通ったメディアを持っているが故に、同じ時空間を共有していれば同じ感じ方をするはずだと勘違いしがちです。

僕らは本当に同じような感じ方をできているのでしょうか。

一つ例を出しましょう.

もうすぐクリスマス。コカコーラの宣伝によって、サンタクロースといえば「赤」というイメージが定着したのは有名な話ですね。

もう一度画像を見てください。サンタの帽子、服、靴。
本当に同じような「赤」でしょうか?
あなたが見ている赤と、僕が見ている赤は、本当に同じ赤だと言い切れますか?

みんなが「赤」と呼んでいるから同じものを見ていると勘違いしているだけではないと、なぜ言い切れるのでしょう?

これは僕が小学生の頃、弟と僕の色の好みが全く違うことに気づいてから持ち続けていた問いでした。

ちょっとだけ科学的な説明をすると、僕らの目には錐体細胞という色を検知するセンサーがあります。錐体細胞には3種類あって、それぞれ赤・青・緑を検知するようにできています。こんなにたくさんの色が見えているのに、センサーはたった3色なんですね。これらが特定の波長の光をキャッチして、神経を通じて脳に電気信号を送ります。


引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/錐体細胞

上の図がそれぞれの錐体細胞が捉える波長を表しています。

しかし、過去の研究から、いわゆる色覚マイノリティの方ではない人であっても、これらのセンサーの感度が高い波長には個人差があることがわかっています。

つまり、同じ赤を見ているつもりが、入力されやすい情報がそもそも異なるため、違った情報が入力されている可能性があるということですね。

(興味のある方は以下の論文を・・・)
Neitz, J., Neitz, M., & Jacobs, G. H. (1993). More than three different cone pigments among people with normal color vision. Vision Research, 33, 117–122. https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/0042698993900644


さらに、入力された情報それ自体は、ただの電気信号です。それ自体にはなんの意味もありません。その信号を脳が解釈してはじめて、色が見えているわけです。

この図を見てください。一時期Twitterで話題になりましたね。

引用:http://swiked.tumblr.com

皆さんにはこのジャージの色は

・白と金
・青と黒

のどちらに見えましたか?
この質問をすると、パックリと意見が割れるそうです。

これは「色の恒常性問題」と言って、周囲の色と今までの経験をもとに、脳が勝手に色づけしてしまうことで起きる,所謂「錯視」の一種です.

このドレスが日陰にある、つまり青い光にあると思う人の多くはドレスが黄色く見えているそうです。つまり影があるものとして写真から無意識に青を差し引いているということになります。

しかし、いくつかの研究が出ていますが確定的な説明はまだなされていないようです・・・(ソースある方は是非教えてくださいね!)


色だけを取り出しても、こんなに感じ方が異なります。しかし、僕らの日常に飛び交うのは、もっと複雑な情報たちです。同じ時空間を共有しているからといって、同じ体験をしてるとは到底思えないのです。

DNAによって設計された身体と、その人が生きてきた経験の掛け合わせによって生まれる、世界を切り取る「フィルター」があまりにも違うからです。

情報を受け取るセンサー(錐体細胞)も、それを解釈するコンピューター(脳)も異なるとしたら、「同じように見えている」と考えるのは非常に難しくなりますね。


「わからない」とわかることがスタート地点

僕は「〜のはず」と自分の考えや見え方を一般化することで、たくさんの人を傷つけてきたのだと思います。今でもそうかもしれません。

「自分には相手を完全に理解できるはず」と思い上がっていたからです。

「相手には自分を完全に理解してほしい」と押し付けていたからです。

相手をわかりたいと思う気持ちはとても大切ですが、相手のことを「わかっている」と思い込むことは非常にリスキーです。時々その傲慢な押し付けがフラッシュバックのように蘇り、深い罪悪感に苛まれることがあります。

それでも僕は、理解することを諦めたくないとも思っています。相手がどんな風に世界を切り取っているかを知ることそのものが、僕にとって面白くワクワクすることだからです。

せめて、全てはわからなくても、理解し合えたとお互いに感じられるポイントを少しでも増やしていければいいのだと思います。

何より、全てを理解できなくても、「分かり合えた」とお互いに感じることはできると思うのです。

理解できない、と知ることから理解を始める。
限界を知っているからこそ、その壁を越えられるはず。そう思っています。

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Haruka Noda
今後の研究活動と美味しいご飯に使わせていただきます!